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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ


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第9話 五年分の名前


「あの薬草園、誰が設計したかご存知ですか」


 マルタの声は震えていなかった。


◇◇◇


 辺境伯領。離縁から三ヶ月が経っていた。


 ダリウスの書斎に、マルタが一人で立っている。手には一冊のノート。ダリウスの前には書類が山積みになっていたが、マルタの表情を見て、全てを脇に寄せた。


「話がある、と言っていたな」


「はい。旦那様にお伝えしなければならないことがございます」


 マルタが背筋を伸ばした。先代から仕えて三十年。この人がこれほど改まった態度を取るのを、ダリウスは見たことがなかった。


「奥様――セレスティーヌ様の五年間について、お話しさせてください」


 ダリウスは頷いた。


 マルタが語り始めた。一つずつ。日時と場所を添えて。


「薬草園の設計図。精霊が好む銀木犀の配置、月見草の増殖計画、薬草の収穫効率を上げるための温室の改修案。全て奥様の手書きの図面でした。鉄インクの、少し赤みがかった黒いインクで。ジーク様の報告書は藍色のインクです」


 ダリウスの顔から表情が消えた。


「孤児院の改善案。食事の回数を増やす予算案、壁の修繕、排水溝の改善、規格外野菜の仕入れルート。七枚の計画書を私は見ております。奥様が執務室で書かれているのを、何度もお茶をお持ちした際に拝見しました」


「……」


「隣領ヴァイスフェルトの薬師長との交渉。奥様が手紙を五通書かれ、二度直接訪問されました。馬車の手配は私がいたしました。記録がございます」


 マルタが手にしたノートを開いた。セレスティーヌの業務ノートではない。マルタ自身のノートだった。日時、場所、見たこと。使用人長として三十年つけてきた業務記録。


「ジーク様は、奥様の提案を受け取り、ご自身の報告書に書き直して旦那様にお渡しになっていました。五年間、一度も奥様の名前を出さずに」


 ダリウスの拳が膝の上で白くなった。


「最初は気のせいかと思いました。ジーク様が整理してくださっているのだろうと。でも三年目の春に、奥様が隣領から持ち帰った薬草の品種リストが、翌日にはジーク様の報告書に『私が確認した品種一覧』として記載されているのを見て、確信しました」


「なぜ、今まで黙っていた」


 ダリウスの声が低くなった。怒りではない。自分自身への問いかけに似ていた。


「家令代行に逆らえば、職を失います。この屋敷を去れば、奥様をお守りすることもできなくなります。私は――」


 マルタの声が、初めて揺れた。


「私は、見ていることしかできませんでした。でも、見ていました。全部」


◇◇◇


 ダリウスはジークを書斎に呼んだ。


 マルタは退室せず、部屋の隅に立っていた。証人として。


「ジーク」


「殿下、何かございましたか」


 いつもの穏やかな笑み。いつもの柔らかい声。


「お前が助言したという薬草園の設計図を見せろ」


 ジークの笑みが、一瞬だけ固まった。


「設計図、ですか」


「お前の報告書には『私の提案で薬草園を改修した』とある。お前が書いた設計図はどこだ」


「それは……口頭で殿下にお伝えした際に」


「図面はないのか」


 沈黙が落ちた。ジークの目が泳いだ。右、左、そしてマルタに。マルタは動かなかった。


「孤児院の改善案についても聞きたい。七枚の計画書、お前が書いたものを見せてくれ」


「あれは、奥方と共同で」


「共同で、という言葉を使ったのは今が初めてだな。五年間の報告書を全て読み返した。『私の提案』『私が確認した』『私の判断で』。奥方の名前は一度も出てこない」


 ジークの顔から血の気が引いた。笑みが消え、口元が引きつった。


「殿下、私は奥方の提案を整理して、わかりやすく殿下にお伝えしていただけです。それは私の役割として」


「整理した。なるほど。では、奥方の提案であることをなぜ一度も報告しなかった」


「……」


「マルタ」


「はい」


「孤児院の計画書、奥方はどこで書いていた」


「奥様の私室の机でございます。七枚の図面全て、奥様お一人で。ジーク様の執務室では、一度もお見かけしておりません」


 ジークが口を開きかけ、閉じた。また開いて、何かを言おうとして、言葉にならなかった。


「俺は五年間、お前を信じていた」


 ダリウスの声は低く、静かだった。怒鳴るよりも怖い静けさ。


「お前を信じて、妻を見なかった。それは俺の罪だ。だが」


 ダリウスがジークの目を見据えた。


「お前は五年間、俺と妻の間に立って、妻の声を遮り続けた。それは何だ」


 ジークの膝が震えた。


 答えはなかった。


◇◇◇


 王都。同じ日の夕方。


 ルーファスが鑑定室に走り込んできた。手に古い処方箋を握りしめている。


「フローレンスさん」


 息を切らしている。この人が走るところを見たのは初めてだった。


「どうされましたか」


 ルーファスが処方箋を差し出した。軍医時代のもの。黄ばんだ羊皮紙に、丸い字。鉄インクの、少し赤みがかった黒。


「この処方箋を書いた人を、ずっと探していた」


 私はその処方箋を見た。見覚えがあった。


 祖母の調合書に載っていた配合だ。冬薔薇の根と月見草の種子を使った外傷用の応急処置薬。効果を最大化するための温度管理と、投与のタイミングが書き添えてある。


「……私が書いたものかもしれません」


 記憶を辿る。五年前。いや、もっと前。フローレンス家がまだ完全には没落していなかった頃。祖母の代わりに、各地の療養所や駐屯地に薬を届けていた時期がある。


「辺境の駐屯地に、薬草と一緒にこの処方箋を送ったことがあります。祖母の調合書に載っていた配合を、もっと簡単に書き直して。でも、名前は書きませんでした。フローレンス家の名前を出すと、面倒になりそうで」


 ルーファスが黙った。長い沈黙だった。


「あの時、俺は死にかけていた」


 声が低い。いつもの素っ気ない口調ではない。


「この処方箋のおかげで助かった。軍医になったのも、この処方箋を書いた人のような薬師になりたかったからだ」


 唇が震えた。何を言えばいいのかわからない。いつもの感謝の言葉が、形にならない。


「……覚えていません。いえ、覚えています。でも、あの時の私には名前がなかったから」


 名前がなかった。辺境の駐屯地に薬を届けていた少女に、名前はなかった。辺境伯夫人として五年間働いた女にも。


 でも今は。


「セレスティーヌ・フローレンスです」


 自分の名前を名乗った。今度は、声が震えなかった。


 ルーファスが頷いた。何か言おうとして、口を閉じた。また開いて、また閉じた。


 結局ルーファスは、「……ありがとう」とだけ言った。


 それだけで十分だった。

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