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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第8話 乳鉢と、不器用な手紙


 朝、仕事場に着くと、机の上に見覚えのない木箱が置かれていた。


 薬学ギルドで働き始めて一ヶ月が過ぎていた。最初は日雇いだった仕事が、いつの間にか週五日の契約になっている。鑑定室の隅に私専用の作業台をもらい、調合道具を並べた。


 木箱を開ける。中には、石の乳鉢が入っていた。白い大理石。粒子が細かく、表面が滑らかで、持ち上げると掌にしっくり馴染む。質の良い乳鉢だということは、触ればわかった。祖母が使っていたものよりも上等だ。


 箱の底に、紙切れが一枚。


「この乳鉢なら調合効率が23%向上する。試してほしい。――ルーファス」


 角張った字。薬の名前は丁寧に書くくせに、日付だけが雑な人の筆跡。


 ……23%。


 正確な数値を添えてくるあたりが、この人らしい。


「セレスティーヌ様、それ、恋文じゃないですか」


 リーゼが横から覗き込んで、にこにこ笑っている。最近のリーゼは下宿の洗濯屋で手伝いを始めて、ずいぶん明るくなった。


「違います。仕事道具のメモですよ」


「えー、でも、乳鉢を贈るって」


「薬学者にとっては実用的な贈り物なの」


「じゃあ、好きな人に包丁を贈る料理人みたいなものですか」


 ――それは、なんというか。


 耳が熱い。自覚がある。この話題はまずい。


「仕事に戻ります」


 乳鉢を作業台に置いた。確かに使いやすい。粒子の潰れ方が均一で、力の伝わり方が滑らかだ。これは良いものだ。仕事道具として。仕事道具として、だ。


◇◇◇


 午後、ルーファスが鑑定室に来た。


 新しい依頼品の受け渡しのためだったが、私の机の上の乳鉢に目を止めた。


「使ってくれたか」


「はい。とても使いやすいです。粒子の均一性が格段に上がりました」


「そうだろう。ヴァルシュ鉱山の白大理石だ。結晶構造が他の石とは違う」


 ルーファスが乳鉢の石質について語り始めた。結晶の配列、硬度、耐摩耗性。専門用語が次から次へと出てくる。聞いている分には面白いのだが、これは褒めているのだろうか。私に対して何か伝えたいことがあるのだろうか。


 ――たぶん、この人は乳鉢について話しているだけだ。


「……フローレンスさん」


「はい」


「今日の調合、見せてもらっていいか」


 作業台の前に並んで立った。ルーファスの肩が近い。白衣から薬草の乾いた匂いがする。


 私が月見草の種子を潰し始めると、ルーファスが黙って見ていた。乳棒を回す手つき、力加減、角度。


「この配合比は合理的だ」


 褒めているのだろう。たぶん。でも「合理的」という褒め言葉は、嬉しいのかどうか判断に困る。


「ありがとうございます」


「……ああ。つまり、その。上手いということだ」


 ルーファスが言い直した。耳の後ろを掻いている。


 言い直してくれたことが、なんだか――嬉しい、のだろうか。いえ、嬉しいというのとは違うのですが。


「そういえば」


 ルーファスが唐突に話題を変えた。


「王都の植物園で薬草の展示がある。来週だ。ギルドの仕事として視察に行く。人手が足りない」


「……はい」


「来るか」


「仕事として、ですね」


「当然だ」


 ルーファスの目がほんの一瞬だけ逸れた。私はそれを見逃さなかった。


◇◇◇


 植物園の帰り道でのこと。


 ルーファスが珍しい薬草について延々と解説してくれた。専門的すぎて半分も理解できなかったが、この人が薬草の話をしている時だけ、声が少しだけ柔らかくなることに気がついた。


「この品種は辺境にしか自生しない。見たことがあるか」


「ええ、祖母の庭に。小さい頃は雑草だと思っていたのですが、実は希少種だったんです」


「それは贅沢な庭だな」


 ルーファスが小さく笑った。笑顔を見るのは初めてだった。口の端がほんの少し上がるだけの、控えめな笑い。


 その時だった。


「フローレンスさん、今日の調合は本当に見事だった」


 不意に真正面から褒められて、足が止まった。耳が赤くなるのが自分でわかった。咄嗟に髪で顔を隠そうとして、前が見えなくなった。


 柱にぶつかった。


 額に衝撃。一瞬、視界が白くなる。


「大丈夫か」


 ルーファスが駆け寄ってきた。私の顔を覗き込んで、額の赤みを確認している。近い。この人の目は、暗い茶色だ。


 そしてルーファスは、私の耳が赤いことに気づいた。


「……あ」


 何かに気づいたような声を出して、そのまま黙った。


 しばらく二人とも黙っていた。植物園の前の石畳で、通行人が不思議そうに私たちを見ていた。


「……大丈夫です。ちょっとぼんやりしていただけで」


「額が赤い。薬を」


「いえ、本当に大丈夫ですから」


 ルーファスは何か言いかけて、口を閉じた。それから、ぼそりと呟いた。


「……気をつけてくれ」


 それだけ言って、歩き出した。半歩先を行くルーファスの首の後ろが、少しだけ赤いのが見えた。


 ――見間違いかもしれない。夕日のせいかもしれない。


◇◇◇


 夜。


 下宿に戻って、額の赤みを鏡で確認した。小さなたんこぶ。大したことはない。


 乳鉢のメモをもう一度読んだ。「23%向上する」。相変わらず角張った字。日付だけ雑。


 リーゼが夕食の準備をしながら、鼻歌を歌っている。


 一方、ルーファスの自宅では。


 古い処方箋の束を整理していた棚から、一枚の紙が落ちた。軍医時代に受け取った処方箋。戦場で瀕死の重傷を負った夜、名前も知らない薬師が書き残してくれたもの。その処方箋のおかげで命が助かった。


 ルーファスはその処方箋の筆跡に、ふと目を止めた。丸い字。鉄インクの、少し赤みがかった黒。


 今日、鑑定室で見たセレスティーヌの調合メモの筆跡と、どこか似ている。


 気のせいだろうか。


 ルーファスは処方箋を棚に戻し、作業に戻った。でも、指先が少しだけ震えていた。

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