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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ


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7/10

第7話 私の名前は、セレスティーヌです


 王都の朝は、辺境よりも騒がしかった。


 馬車の車輪が石畳を叩く音、物売りの声、鐘楼の鐘。窓を開けると、焼きたてのパンの匂いと排水溝の匂いが同時に流れ込んでくる。辺境伯領の朝は鳥の声と風の音だけだったから、最初の数日は眠れなかった。


 下宿は王都の南区にある三階建ての古い建物で、一階が洗濯屋、二階が別の住人、三階の小さな部屋が私とリーゼの居場所になった。窓は一つ。木の床はきしむ。でも日当たりは悪くない。


「セレスティーヌ様、お水をお持ちしました」


「ありがとう、リーゼ。……ここではリーゼも座って食べてね」


「えっ、でも」


「もう使用人と主人ではないの。一緒に暮らす人だから」


 リーゼが目を丸くして、それからゆっくり微笑んだ。同じ卓で黒パンを分け合うのは、この部屋に来てから初めてのことだった。パンは硬かったが、山羊乳のチーズを乗せると食べられた。


◇◇◇


 薬学ギルドを訪ねたのは、王都に着いて五日目のことだ。


 嫁入り道具のうち、売れるものは売った。蒸留器の予備部品と、使わなくなった侍女用の衣服。それで当面の家賃は払えたが、仕事を見つけなければ数ヶ月で底を突く。


 薬学ギルドの建物は王都の中央区にあった。石造りの重厚な外観。受付で薬草の鑑定依頼を出したいと伝えると、二階の鑑定室に通された。


 そこにいたのが、ルーファス・グランツだった。


 第一印象は、無愛想。暗い色の髪を後ろで束ね、白衣の袖を肘までまくり上げている。手には乳鉢。何かの薬草をすり潰している最中で、私が入ってきても顔を上げなかった。


「鑑定依頼か。そこに置いてくれ」


「はい。辺境産の薬草を数種、鑑定していただきたいのですが」


 包みを開く。銀木犀の乾燥花弁、冬薔薇の根、月見草の種子。最後に辺境伯領を出る前に、自分の荷物として持ち出したもの。


 ルーファスが初めて顔を上げた。


「……銀木犀の花弁か。状態がいい。乾燥の仕方を知っている」


「祖母に教わりました」


「精製法は」


「低温乾燥です。直射日光を避けて、風通しの良い日陰で七日間」


 ルーファスの目が変わった。無愛想な顔の奥で、何かが動いた。鑑定用の拡大鏡を取り出し、花弁を一枚つまみ上げる。


「この精製法は独学か」


「祖母から。フローレンス家に伝わる方法です」


「フローレンス。聞いたことがある。精霊使いの血筋だな」


 手際よく鑑定を進めながら、ルーファスは時折質問を挟んだ。月見草の種子の保存方法。冬薔薇の根の煎じ方。私が答えるたびに、短く頷く。


 鑑定が終わった時、ルーファスは一枚の書類を書き始めた。鑑定報告書。


「品質は上位。価格は銀貨四十枚。買い取り希望の商会に紹介状を書く」


「ありがとうございます」


「……ひとつ聞いていいか」


 ルーファスが初めて私の目を見た。


「この配合は、軍の野戦処方に近い。冬薔薇の根と月見草の種子の配合比が、外傷用の応急処置薬とほぼ同じだ。戦場で使われていた配合だが、一般には知られていない」


 心臓が跳ねた。――いえ、そうではなく。何と言えばいいのだろう。胸の奥で、何かが引っかかった。


「祖母の調合書に載っていた配合です。祖母がどこで学んだかは、存じません」


「そうか」


 ルーファスはそれ以上聞かなかった。ただ、報告書を書く手が一瞬止まったのを、私は見逃さなかった。


◇◇◇


 翌週から、小さな仕事が入るようになった。


 薬草の品質鑑定、調合の補助、在庫の分類。どれも日雇いに近い仕事で、報酬は少ない。でも、受領書にサインする時、私は自分の名前を書いた。


 セレスティーヌ・フローレンス。


 旧姓に戻った名前。見慣れない字面。でも、これが私の名前だ。辺境伯夫人ではなく、誰かの妻でもなく。


 ペン先が羊皮紙の上で止まった。インクの染みが広がりそうになって、慌てて動かす。


 名前を書いただけなのに、指先がじんと痺れた。五年間、自分の名前で何かに署名したことがなかった。全部「辺境伯夫人」か、そもそも署名すらなかった。


「フローレンスさん」


 ギルドの受付係が呼んだ。


「はい」


「明日も来られますか。副長が、鑑定の手伝いを頼みたいそうです」


 副長。ルーファスのことだ。


「……はい、伺います」


 下宿に帰る道すがら、リーゼに話した。


「明日もギルドに行くことになったの」


「よかったです。……セレスティーヌ様、笑ってます」


「そう?」


「はい。辺境にいた時より」


 空を見上げた。王都の空は、辺境より狭い。建物に切り取られた、四角い空。でも今日の空は晴れていて、夕焼けの色が壁に反射してオレンジ色に染まっていた。


 辺境の広い空が恋しくないかと聞かれれば、わからない。ただ、この狭い空の下にも、私の居場所ができるかもしれない。


◇◇◇


 その頃、辺境伯領では。


 薬草の在庫が底を突きかけていた。精霊の祝福のない薬草は品質が落ち、療養所の薬師が「以前と効き目が違う」と報告を上げ始めていた。隣領ヴァイスフェルトの薬師長は、取引の継続を拒否した。「契約はセレスティーヌ殿個人と結んだものだ。代理は認めない」と。


 精霊結界も弱まり始めたらしい。辺境伯領の森から魔獣が出没する頻度が増え、護衛兵の巡回が倍に増やされた。孤児院では、私が築いた運営方針を知る者がおらず、子供たちの薬草畑も手入れする人がいなくなって荒れているという。


 ジーク様は「一時的な問題」と報告したそうだ。


 マルタからの手紙に、そう書いてあった。一時的な問題。その言葉が、あの人らしかった。

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