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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第6話 届かなかった言葉


 夫が私の部屋を訪れたのは、五年間で二度目だった。


 一度目は嫁入りの夜。形だけの挨拶をして、すぐに出て行った。夫婦の実態はその日から一度も生まれなかった。白い結婚。名前だけの婚姻。


 二度目が、今日。離縁届を出した翌日の朝だった。


 扉を叩く音で目が覚めた。リーゼが応対に出ようとしたが、旦那様は「二人で話したい」と言った。リーゼが不安そうに私を見る。頷いて、部屋の外に出てもらった。


 旦那様は部屋の入口に立ったまま、中に入ろうとしなかった。敷居を越えることを躊躇しているように見えた。


「座ってください」


「……ああ」


 椅子に腰かけた旦那様は、膝の上で拳を握っていた。いつもの癖。軍人らしい背筋の良さは崩れていなかったが、目の下に隈がある。眠れなかったのだろう。


 沈黙が落ちた。窓の外で鴉が鳴いている。遠い声だった。


「なぜ、何も言ってくれなかったのか」


 旦那様が口を開いた。声が低い。怒っているのではなく、困惑しているのだ。この人は怒りと困惑の区別がつかない表情をする。


「あなたに言っても届かなかったからです」


 昨日も同じことを言った。でも今日は、声が震えなかった。代わりに、胸の奥が妙に静かだった。嵐が過ぎた後の凪のような。


「……努力が足りなかったのは認める。だが、俺は」


「旦那様」


 遮った。五年間で初めて、旦那様の言葉を遮った。


「私は五年間、薬草園を管理し、精霊結界を維持し、孤児院を再建し、隣領との薬草取引を一から築きました。その全てが、ジーク様の名前で報告されていたことを、ご存知でしたか」


「……知らなかった」


「私の引き継ぎノートが暖炉で燃やされたことは」


「今朝、マルタから聞いた」


「では、この五年間、私が一度も旦那様と二人で食事をしたことがないことは」


 旦那様が息を呑んだ。目が見開かれる。


 ――ああ、気づいていなかったのか。


 食事は毎日一緒に取っていた。でもジーク様がいつも同席していた。二人きりの時間は、一度もなかった。ジーク様が「殿下は忙しいですから」と間に入り、私が旦那様と直接話す機会を、五年間ずっと遮っていた。


 意図的だったのかどうかは、もうわからない。でも結果として、私と旦那様の間には、常にジーク様がいた。


「やり直したい」


 旦那様が言った。声が掠れていた。


「ジークの件は調べる。お前の仕事を正当に評価する。だから」


「もう遅いのです」


 静かに言った。怒りはなかった。悲しみも、もうあまりなかった。ただ、疲れていた。


「五年間、私はこの屋敷で透明でした。名前がなくて、声が届かなくて、でもそれでも必要とされているならいいと思っていた。でも、必要とされていたのはジーク様の報告書に書かれた『奥方の協力』であって、セレスティーヌ・フローレンスという人間ではなかった」


 旦那様は何も言えなかった。拳を握ったまま、私を見ていた。


 不思議だった。この人の目をこんなに長く見たのは、五年間で初めてかもしれない。青い目。深い、海の底のような色。


 ――この目を、もっと早く見ていたら、何か変わっていたのだろうか。


 わからない。もう、わからなくていい。


◇◇◇


 廊下に出ると、マルタが立っていた。


「マルタ」


「お話は聞こえておりました。差し出がましいことを申しますが」


 マルタが背筋を伸ばした。


「離縁届の証人署名は、私と侍女リーゼの二名で揃っております。使用人長証言制度により、本日付で離縁届は有効となります」


 手の中に、署名済みの書類があった。いつの間に準備していたのだろう。いや、きっとずっと前から用意していたのだ。


「マルタ、あなたはずっと」


「はい。存じておりました。全て」


 マルタの声は穏やかだった。でも、目の奥に光るものがあった。


「奥様が薬草園を設計されたことも。孤児院の改善案を作られたことも。隣領の薬師長と交渉されたことも。ジーク様がそれを自分の手柄にされていたことも」


「なぜ、今まで」


「私の立場では、家令代行に逆らうことができませんでした。でも、証人として署名することはできます。それだけは」


 喉が詰まった。感謝を伝えたいのに、言葉が形にならない。いつもそうだ。感謝を受け取った経験が少なすぎて、返し方がわからない。


「……ありがとう」


 それだけ言うのが、精一杯だった。


◇◇◇


 門を出た。


 振り返らなかった。


 代わりに空を見上げた。曇り空。灰色の雲が低く垂れ込めている。けれどその隙間から、細い光が一筋だけ差していた。


 朝ご飯、何を食べよう。


 場違いなことを考えている自分に気づいて、口元がほんの少しだけ緩んだ。五年間、朝食のメニューは使用人長が決めていた。自分で選んだことがない。


 何を食べたいかと聞かれたら、何と答えるだろう。


 わからなかった。でも、わからないということが、悪くない気がした。


 リーゼが隣を歩いている。小さな鞄を抱えて、時々私の顔を覗き込む。


「セレスティーヌ様」


「はい」


「パン屋さん、ありますかね。王都に」


「あると思います」


「焼きたてのパンが食べたいです」


 私も、と思った。


 焼きたてのパンの匂い。いつ最後に嗅いだか、思い出せない。辺境伯邸の朝食は、いつもマルタが厨房に指示して出してくれたものだった。温かくて、きちんとしていて、でも自分で選んだものではなかった。


 門の外の道は、まっすぐに続いていた。

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