第5話 引き継ぎは、受け取ってもらえなかった
家令室の机は、空だった。
五年目の条項満了日、朝一番で家令室を訪ねた時のことだ。昨夜ここに置いたはずの引き継ぎノート三冊が、影も形もない。薬草園管理の手順書、孤児院運営の記録、隣領との取引先一覧。一冊ずつ、祖母と同じ製本法で綴じた革表紙の。
机の上には書類の山と、インク壺と、ジーク様の湯飲み。それだけ。
「マルタ」
廊下で使用人長を見つけて声をかけた。
「はい、奥様」
「家令室にノートを三冊置いたのですが、ご存知ですか」
マルタの顔色が変わった。唇を引き結び、一瞬だけ目を伏せた。
「ジーク様が今朝お持ちになりました。『不要な書類は処分する』と」
不要。
指先が冷たくなった。足元から何かが抜け落ちていく感覚。四年半分の記録。薬草園の土壌データ、精霊との対話の記録、孤児院の子供たち一人一人の健康状態、隣領の薬師長の名前と連絡先。全部、あの三冊に。
「処分、というのは」
「暖炉に、と」
マルタの声が掠れた。この人も、堪えているのだ。
深く息を吸った。肺の底まで。冷たい空気が喉を通過する感覚に集中する。
――落ち着け。いや、落ち着かなくていい。落ち着いている場合ではない。
◇◇◇
旦那様の書斎を訪ねたのは、その三十分後のことだ。
離縁届を手に。
旦那様は書斎の椅子に座っていた。窓から差す朝の光が、机の上の書類を白く照らしている。私が入ると顔を上げた。いつもと同じ、感情の読めない目。
「旦那様。離縁届をお持ちしました」
封筒を差し出す。指は震えていない。――いや、微かに震えていたかもしれない。でも気づかれなかったと思う。
旦那様は封筒を受け取り、中身を読んだ。一枚の羊皮紙に目を通すのに、長い時間がかかった。沈黙が、砂時計の砂のように降り積もる。
「離縁届だと」
「はい。白い結婚の五年条項に基づく申請です」
「……話し合いたい。署名は待ってほしい」
話し合いたい。
その言葉を聞いた瞬間、何かが弾けた。胸の中で、四年半分の何かが。
「五年間、一度も話し合わなかったのに、今さら何を」
声が高くなっていた。自分でも驚くほど。普段の私ではない声。丁寧語が崩れかけて、最後の一線で踏みとどまる。
「私の仕事はすべてジーク様の名前で報告されていました。ご存知でしたか」
旦那様の表情が変わった。眉が寄り、口元が固くなった。
「何を言っている」
「薬草園の設計も、孤児院の改善案も、隣領との交渉も。全部私が考え、私が実行し、ジーク様が報告書にまとめて旦那様に渡していた。その報告書に、私の名前は一度も出てこなかった」
声が震えている。喉の奥が熱い。
「引き継ぎノートを三冊、家令室に置きました。薬草園の管理方法、孤児院の運営記録、取引先の一覧。昨夜のうちに」
「……」
「今朝、ジーク様が処分されました。暖炉に」
旦那様の拳が、机の上で握りしめられた。爪が掌に食い込んでいるのが見えた。
「知らなかった」
「ええ」
知らなかった。この人は、いつもそう言う。知らなかった。見ていなかった。気づかなかった。五年間、同じ屋敷に住んでいたのに。同じ食卓で朝食を取っていたのに。
旦那様の声が掠れた。
「……なぜ、直接俺に言わなかった」
その質問を、この人は本気で聞いているのだろうか。五年間、目を合わせることすら少なかった人に。会話が天気の話で終わる人に。どうやって。
「あなたに言っても届かなかったからです」
言った瞬間、自分の声が震えていることに気づいた。
それが罪だと、わかっているのだろうか。わかっていないのだろう。この人は、わからないのだ。わからないことが、一番つらい。
◇◇◇
旦那様は署名を保留した。
書斎を出て、廊下を歩く。足音が石の壁に反響する。自分の足音がこんなに大きく聞こえるのは初めてだった。
自室に戻り、荷物をまとめた。嫁入り道具のうち、持ち出せるもの。祖母の調合道具一式、薬草学の書物三冊、鉄製の蒸留器の部品。それから、業務ノートの控え。引き継ぎ用とは別に、自分の記録として書き写していたもの。
リーゼが無言で手伝ってくれた。彼女の目が赤いのに気づいたが、何も言わなかった。今は何か言うと、自分も崩れてしまう。
荷物は意外と少なかった。五年間の暮らしが、革鞄ひとつに収まる。
「奥様」
マルタが部屋の前に立っていた。手に持っているのは、一枚の紙。
「離縁届の証人署名の件ですが」
「旦那様が署名してくださらなければ、この届は……」
「使用人長証言制度がございます」
マルタの声は静かだったが、背筋がいつもより伸びていた。
「白い結婚の解消において、当主の署名が得られない場合。使用人長を含む二名以上の証人が、婚姻の実態がないことを証言すれば、離縁届は受理されます」
知らなかった。そんな制度が。
「私が証人として署名いたします」
マルタの目を見た。三十年この屋敷に仕えた人の目。しわの刻まれた顔。あかぎれのある手。
「差し出がましいことを申しますが」
マルタの声が、ほんの少しだけ揺れた。
「奥様の五年間を、黙って見ていたことを、お許しください」
視界がぼやけた。何か言おうとして、言葉にならなかった。感謝なのか、安堵なのか、悲しみなのか。全部が混ざって、形にならない。
「……ありがとう、マルタ」
ただそれだけ言うのに、声が震えた。
◇◇◇
門を出る時、振り返った。
薬草園の方角を見る。温室のガラス屋根が冬の曇り空を映して鈍く光っている。
その隅に植わっている銀木犀の木が見えた。
一本。花弁が、色を失い始めている。銀色から、灰色へ。精霊が離れていく。私の心と一緒に。
ごめんなさい、とは思わなかった。――いや、少しだけ思った。精霊には。この庭を愛していた精霊には。
でも、もう限界だった。
自室に戻り、荷物の最終確認をした。革鞄ひとつ。五年間が、これだけに収まる。
リーゼが窓の外を見ている。薬草園の方角。温室のガラス屋根が冬の曇り空を映して鈍く光っていた。
その隅に植わっている銀木犀の木が、ここからでも見えた。花弁が、色を失い始めている。銀色から、灰色へ。
精霊が離れていく。私の心と一緒に。
ごめんなさい、とは思わなかった。――いや、少しだけ思った。精霊には。
でも、もう限界だった。
明日の朝、門を出よう。今日はもう、動けない。




