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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ


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第4話 精霊は、嘘をつけない


 孤児院の食事が変わった日、子供たちの目から光が消えた。


 嫁入りから四年半。五年目の条項満了まで、あと半年を切っていた。その頃には私の日常は型が決まっていた。朝は薬草園で精霊に挨拶をし、昼は孤児院か療養所を巡回し、夕方は業務ノートを書く。旦那様とは朝食と夕食の席で顔を合わせるだけ。会話は天気の話か、領境の巡回報告。


 ジーク様が孤児院の運営方針を変えたのは、秋口のことだった。


「食材費を二割削減します。規格外野菜の仕入れも見直しを」


 ジーク様の声は、いつも通り穏やかだった。執務室の椅子に浅く腰かけ、書類を手にしている。


「子供たちの食事の質が落ちます」


「領の財政を考えれば、必要な判断です。私も心苦しいのですが」


 心苦しい、という言葉を聞いた時、指先が冷えた。この人の「心苦しい」は、いつも何かを切り捨てる前の枕詞だ。四年半も同じ屋敷にいれば、それくらいはわかる。


「規格外野菜の仕入れルートは、私が隣領の農家と直接交渉して築いたものです。見直しとは、具体的に」


「殿下にご判断いただきます」


 殿下に。つまり、旦那様には私の交渉の経緯を伝えず、ジーク様のまとめた報告書だけで判断がなされるということ。いつものように。


 反論しようとして、やめた。この四年半で学んだことがある。ジーク様を通す限り、私の言葉は旦那様に届かない。ジーク様という壁を越えられない。


 そして、旦那様に直接話しかけることが、私にはできない。


 翌週から、孤児院の食事が一日二回に戻された。あの女の子が――セレスと呼んでくれた子が、次に会った時に私を見上げてこう言った。


「セレス、おなかすいた」


 その声は責めているのではなかった。ただ事実を述べただけ。それが余計に、胃の底に重い石を落としたようだった。


◇◇◇


 領民たちが直接私のもとを訪ねてきた。


「奥様、孤児院の食事の件で」


 農家のグレーテルが、薬草園の入口で私を待っていた。手にしていたのは、規格外の蕪の束。


「うちの蕪、引き取ってもらえなくなったんです。ジーク様が打ち切りの通知を」


「……そうでしたか」


 通知。私に一言もなく。


 グレーテルの顔を見た。日に焼けた頬。荒れた手。この人は四年前に私が直接訪ねて、最初に仕入れ契約を結んだ農家だ。「辺境伯の奥様が直接来てくれるとは思わなかった」と驚いていた、あの日のことを覚えている。


「申し訳ありません。私の方から改めてお話しします」


 そう言いながら、袖口を握りしめていた。


 話をしたところで、何が変わるのか。ジーク様は「殿下のご判断」と言い、旦那様はジーク様の報告書を信じる。私の声はどこにも届かない。


 根を張る前に引き抜かれた苗のように。


 ――いや、違う。根は張っていた。四年半かけて。でも、根がどれだけ深くても、土の上の花はジーク様の名前で咲いていたのだ。


◇◇◇


 その夜、薬草園に行った。


 ガラス張りの温室に入ると、いつもの甘い香りが迎えてくれた。銀木犀の枝が月明かりに銀色に光っている。精霊の気配。温かい空気。ここだけは変わらない。


 調合台の前に座り、目を閉じた。


 精霊は言葉を持たない。けれど伝え方を知っている。風の動き、花の揺れ、香りの濃淡。今夜の精霊は落ち着かない様子だった。銀木犀の花びらが、いつもより多く散っている。一枚、二枚。調合台の上に落ちて、月の光を受けて灰色に見えた。


「……わかっている」


 声に出したのは自分自身に対してだった。精霊は契約者の心と共にある。私の心がこの場所から離れかけていることを、精霊は感じ取っている。


 指先で花びらに触れた。まだ柔らかい。まだ生きている。


 五年条項。白い結婚が五年間続いた場合、使用人長を含む二名の証人署名があれば、片方の意思で離縁が成立する。あと半年。フローレンス家の借金は三年目で完済された。法的な障壁はもうない。


 でも、この庭を去ることは。


 祖母の顔が浮かんだ。皺だらけの手。土の匂い。「精霊を預かる者は、精霊と共にある場所を離れてはならない」。祖母はそう教えた。


 ――でも、祖母。ここにいても、私の庭ではないのです。


 棚の引き出しから羊皮紙を取り出した。離縁届の書式は、マルタが調べてくれた。何も言わずに、ある日そっと私の机の上に置いてあったのだ。あの人は、ずっと見ていたのだろう。


 鉄インクの瓶を開ける。祖母が使っていたのと同じ、少し赤みがかった黒。


 ペンを持つ手が震えた。


 書き出しの「離縁届」という三文字が、なかなか形にならない。一画目で止まり、二画目でまた止まる。


 ――怖いのではない。つまり、怖いのだけれど、それだけではなくて。


 この五年間を「なかったこと」にするような気がした。薬草園も、孤児院も、隣領との交渉も。私の名前がつかなかった仕事のすべてが、離縁届を書いた瞬間に本当に消えてしまう気がして。


 でも。


 名前のない仕事は、最初からなかったのと同じではないか。


 ペンが動いた。一文字目。二文字目。三文字目。


 「離縁届」。


 最後の画を引いた時、手の震えが止まっていた。


 窓の外で、精霊が何かを伝えようとしている。銀木犀の枝が風もないのに揺れて、一枚の花びらが温室の硝子を滑り落ちた。


 ――あなたの行く場所が、次の庭になる。


 そう聞こえた気がした。花の揺れ方が、そう言っているように見えた。


 精霊は嘘をつけない。だから、信じてもいいのだろうか。


 離縁届を折りたたみ、業務ノートの間に挟んだ。三冊目のノートの、最後のページの裏。


 明日、引き継ぎの準備を始めよう。薬草園の管理手順、孤児院の運営記録、隣領との取引先一覧。全部ノートに書き出して、誰が読んでもわかるように。


 私がいなくなっても、子供たちが三食食べられるように。精霊がいなくても、薬草が育つ最低限の方法を残して。


 それくらいは、許されるはずだ。


 温室の扉を閉める。振り返ると、銀木犀の花がまた一枚散った。月の光に照らされて、くるくると回りながら落ちていく。


 綺麗だった。


 ――いえ、綺麗というのとは少し違う。なんというか。


 ただ、胸のあたりが、じんとした。それだけだった。

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