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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ


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第3話 功績には、名前がつかない


 孤児院の子供たちが笑っていた。それだけで十分だと、自分に言い聞かせた。


 嫁入りから二年目の夏。領内にある孤児院を初めて視察した日のことだ。マルタに案内されて馬車を降りると、石造りの古い建物が午後の日差しに照らされていた。壁には蔦が這い、窓枠の塗装は所々剥げている。


「現在、子供が十二人。食事は一日二回。衣服と寝具は年に一度の交換です」


 マルタの説明を聞きながら、中に入った。廊下は薄暗く、どこかカビの匂いがする。なんというか――祖母の家が没落しかけていた頃を思い出す匂いだった。


 子供たちは裸足で駆け回っていた。痩せた女の子が私の足元に転がってきて、見上げた。


「お姉ちゃん、誰?」


「セレスティーヌです」


「せれすてぃ? 長い」


 思わず口元が緩んだ。この子の前髪は不揃いに切ってあって、きっと自分で切ったのだろう。爪は短く、でも汚れている。靴がないから足の裏が真っ黒だ。


「セレスって呼んでくれてもいいですよ」


「セレス! お姉ちゃんの手、土の匂いがする」


 ああ。今朝、薬草園で銀木犀の手入れをしたから。手を洗ったつもりだったのに、爪の間にはまだ黒い土が残っていた。


「薬草を育てているの。お薬の材料になるのよ」


「すごい!」


 すごくはない。でも、この子がそう言ってくれたことが、なんだか――うまく言えない。鼻の奥がつんとした。


◇◇◇


 孤児院の改善案は三日でまとめた。


 食事の回数を三回に増やすための予算案。壁の修繕と排水溝の改善。衣服の購入頻度の見直し。領内の農家から規格外の野菜を安く仕入れるルートの提案。それから、読み書きを教える時間の確保。


 祖母に教わった薬草学の知識を使って、孤児院の庭に簡単な薬草畑を作る計画も添えた。子供たちが自分で薬草を育てられれば、軽い怪我や腹痛の手当てが自力でできるようになる。


 計画書は全部で七枚。図面付き。


 ジーク様の執務室に持参すると、いつもの笑みで受け取ってくださった。


「ありがとうございます、奥方。殿下にお伝えしておきますね」


「よろしくお願いいたします」


 一ヶ月後。工事が始まった。壁が修繕され、排水溝が整備され、子供たちの食事が一日三回になった。薬草畑も庭の一角に作られた。


 工事の間、何度も現場に足を運んだ。職人たちに直接指示を出し、排水溝の角度を調整し、薬草畑の土壌を自分の手で確認した。子供たちは私を「セレス」と呼んで、工事の合間におやつをねだった。


 隣領ヴァイスフェルトの薬師ギルドとの交渉も、この頃から始めた。孤児院で使う薬草の一部を、安定的に仕入れるルートを作るためだ。手紙を五通書き、二度直接会いに行った。先方の薬師長は厳しい顔をした老人だったが、私の薬草の知識を認めてくれた。「フローレンス家の血筋か。祖母君の名は聞いている」。それが交渉の突破口になった。


 完成の報告を聞いた旦那様は、夕食の席でジーク様の肩を叩いた。


「よくやった。お前の発案で孤児院が生まれ変わったな」


「おかげさまで。奥方にもご協力いただきました」


 ご協力。


 また、その言葉。


 匙を置きかけた手が、テーブルの下で袖口を握りしめていた。気づかれないように。


 旦那様が私に向き直った。


「セレスティーヌ、ジークが孤児院の件でよくやってくれた。お前も従順に支えてくれてありがとう」


 従順。


 ――ああ、そうですか。


 私は計画書の下書きを持っている。七枚の図面付きの。でも旦那様はそれを見たことがないのだろう。ジーク様の報告書だけを読んで、ジーク様の功績だと思っている。


「……いいえ、大したことはしておりません」


 微笑んだ。たぶん、ちゃんと笑えていたと思う。スープの中で匙を回す。表面に浮かんだ油の膜が渦を巻いて、崩れた。


 隣領との交渉の話は、旦那様には届いていないのだろう。あの五通の手紙も、二度の訪問も。薬師長の「祖母君の名は聞いている」という言葉の重みも。全部、ジーク様の報告書では一行にまとめられているのかもしれない。「薬草の仕入れルートを確保しました」と。私の名前なしで。


◇◇◇


 自室に戻って、業務ノートを開いた。二冊目に入っている。祖母と同じ製本法で綴じた革表紙の。


 日付。内容。結果。淡々と書き留める。


 孤児院改善計画の経緯。提案日。ジーク様への提出日。工事開始日。完了日。旦那様の反応。


 感情は書かない。事実だけを。


 ――なぜ、直接旦那様に渡さなかったのだろう。


 考えてみた。ジーク様を通してください、と最初に言われたから。それが屋敷のやり方だと思ったから。家令代行を飛び越えて当主に直接報告するのは、越権行為になると思ったから。


 ――いえ。たぶん、本当の理由は違う。


 旦那様に直接話しかけるのが、怖かったのだ。あの人の前に立つと、何を言えばいいのかわからなくなる。目を合わせてくれることが少ない。会話は事務連絡の域を出ない。同じ屋敷にいるのに、隣にいるのに、遠い。


 だからジーク様に託した。ジーク様なら旦那様と親しいから、うまく伝えてくれるだろう、と。


 ペンを置く。インクの染みが指先についた。鉄インクの、少し赤みがかった黒。


 ノートの表紙を撫でた。祖母ならなんと言うだろう。「自分の仕事には自分の名前をつけなさい」。たぶん、そう言う。


 でも、名前をつけなくても、仕事は残る。孤児院の子供たちは三食食べられるようになった。薬草畑で小さな芽が出始めている。あの女の子は、次に会った時、靴を履いていた。


 それでいい。


 ――それで十分だと、この頃はまだ思っていた。


 窓の外で、夜風が銀木犀の枝を揺らしている。甘い香りが忍び込んでくる。精霊が、何かを囁いている気がした。


 でも、聞かなかったことにした。


 あの頃の私は、まだ期待していたのだと思う。いつか旦那様が気づいてくださるかもしれない、と。薬草園の設計図の筆跡が、ジーク様の角張った字ではなく、私の丸い字であることに。孤児院の改善案の中に、精霊契約者にしか思いつかない発想が混じっていることに。


 いつか。


 その「いつか」は、五年間来なかった。でも当時の私は、まだそれを知らない。知らなくて、よかったのかもしれない。知っていたら、あの業務ノートを書き続ける気力はなかっただろうから。

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