第9話 二つの庭で
銀木犀の蕾を最初に見つけたのは、リーゼだった。
「セレスティーヌ様! 蕾! 蕾がついてます!」
朝、ギルドの裏庭。リーゼは洗濯屋に行く途中に寄り道して、毎朝挿し木の様子を見てくれている。水をやるのはリーゼの役目になっていた。如雨露を持って、少しずつ、根元に。水のやりすぎは禁物だと教えたら、それ以来毎回、指で土の湿り具合を確かめてからやるようになった。
駆け寄って見た。朝の空気が冷たい。吐く息がうっすらと白い。秋が深まっている。
確かに、蕾だった。小指の爪ほどの大きさ。銀色ではなく、まだ薄緑。でも形は間違いない。銀木犀の蕾。萼が四枚、きっちり閉じている。その中に、花弁が畳まれている。
指で触れた。柔らかい。生きている手触り。辺境の温室で毎朝触れていたものと同じ感触。温度がある。朝の冷気の中で、蕾だけが微かに温かい。精霊の力が、ここに集まっているのかもしれない。
でも、萼の端がほんの少し茶色くなっている。
指先で確かめた。乾いている。萼の先端から水分が抜けかけている。この兆候は覚えている。辺境の温室で何度も見た。精霊の力が安定しない時、蕾は萼から枯れ始める。開く前に。
胃の底が重くなった。
「……咲くの?」
リーゼの声が遠くに聞こえた。
「わからない」
正直に言った。わからない。蕾はついた。でも蕾がつくことと、花が開くことは違う。辺境の温室でも、蕾のまま落ちた花を何度も見た。精霊の力が途切れた時。契約者の心が揺らいだ時。
「でも、蕾はついた」
根が張ったということだ。辺境の土から王都の土に移した挿し木が、新しい場所で根を下ろした。祖母が言っていた。「根が張れば、花は自分で咲く。人間ができるのは、根が張るまで待つことだけ」。
萼の茶色い部分に、もう一度触れた。微かに。精霊の温もりは、まだある。消えてはいない。弱いけれど、ある。
精霊の気配を探った。辺境の精霊とも、王都の若い精霊とも違う。二つが混じったような、不思議な温もり。辺境の力強さと、王都の柔らかさが重なっている。
ルーファスに伝えなければ。開花予測のデータに、精霊の温度変化を加えられる。あの人が喜ぶ。「学術的に有意義」と言うだろう。
◇◇◇
その日の夕方、マルタからの手紙が届いた。
妹の仕立て屋で働くマルタは、月に一度は辺境の知人に手紙を出している。辺境の消息を伝えてくれるのは、いつもマルタだ。几帳面な字で、過不足なく。
「辺境伯領の薬草園、銀木犀に蕾がつきました。ヨハンが大騒ぎしております」
同じ日だった。
王都の挿し木と、辺境の親木。同じ日に蕾がついた。
偶然かもしれない。季節が同じなのだから、成長の段階が重なることはある。植物学的には説明がつく。でも、精霊の気配が二つの場所で同時に動いたのだとしたら。根は地中で繋がっていないのに、空気の中で繋がっている。精霊とは、そういうものだと祖母は言っていた。
「マルタの手紙にも書いてありましたか。孤児院のこと」
リーゼが茶を運んできながら聞いた。湯気が立っている。この時間帯のリーゼの茶は、少しだけ薄い。疲れている時は蒸らす時間が短くなる。でも温かい。
「書いてある。フィーナが薬草畑の世話を孤児院の他の子にも教えているって」
「フィーナちゃん、先生になってる」
先生。八歳の先生。でも知識は年齢に関係ない。フィーナは薬草の名前を覚えた。ルーファスに教わり、私の手書き教材で学んだ。その知識を、今度は自分が伝える側になっている。
名前のない処方箋が命を救い、名前のない仕事が庭を蘇らせ、名前を取り戻した人が教材を作り、その教材で学んだ子供が誰かに教える。
連なっている。根のように。見えない地中で、枝分かれしながら。
五冊目のノートに書いた。今日の日付と、「王都と辺境、同日に蕾」。それから、フィーナのことも。「薬草の知識を他の子に伝え始めている」。
◇◇◇
夜。窓辺に座って、マルタの手紙をもう一度読んだ。
ランプの灯りで文字が揺れる。紙の匂い。マルタの手紙はいつも少しだけ糊の匂いがする。仕立て屋の匂いだ。
「ダリウス様が、教育支援制度の受け入れ文書をギルドに送ったそうです。字が大きくて、書記官が清書するのに苦労したとか」
字が大きい。あの人らしい。ペンを剣と同じ力で握っているのだろう。でも、書いた。自分の手で。自分の字で。
「それから、ジーク・ヴァルトシュタインが農家で働いているという噂を聞きました。蕪の仕分けをしているとか。確認は取っておりませんが」
蕪の仕分け。
読んで、しばらく便箋を見つめた。ランプの炎が揺れて、影が便箋の上を動く。
許してはいない。たぶん、これからも許さない。五年間の消えた名前は戻らない。でも、蕪を仕分けている手には、爪の間に土がついているだろう。藍色のインクの代わりに、辺境の黒い土が。
もうそこにいないのだ。私は。あの人の横には。横にいない人間に、許す権利も、許さない権利もない。
それ以上は考えなかった。手紙を五冊目のノートに挟んだ。
窓の外の空は暗い。でも王都の夜は、辺境ほど暗くない。街灯がある。遠くの通りから、酒場の笑い声が微かに聞こえる。人の声と、グラスが触れる音と、誰かが歌う旋律の断片。
明日、蕾がもう少し大きくなっているかもしれない。ならないかもしれない。萼の茶色い部分が広がっていたら。考えかけて、やめた。
精霊は急がない。急がない人のところに来る。祖母がそう言っていた。
待とう。




