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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第5話 戦場の処方箋


 ルーファスが軍医時代の話をしたのは、雨の日だった。


 鑑定室の窓を叩く雨音が一定の間隔で続いていて、依頼品の薬草が湿気を吸わないように布をかけ終えた午後。手持ち無沙汰な時間が、ぽっかりと空いた。


 雨の音は嫌いではない。鑑定室の窓は二重になっていて、外の音がくぐもって聞こえる。水が石畳を叩く音。樋を伝う音。遠くで馬車が水溜まりを踏む、重い飛沫の音。全部混じって、部屋の中に薄い膜を張るようだった。


「茶を淹れる」


「いただきます」


 ルーファスが立ち上がった時、白衣の袖がまくれて、左腕の内側に古い傷跡が見えた。薄い線。刃物ではなく、割れたガラスのような不規則な形。皮膚の色が周りと少し違う。年月が経っている証拠。


 何も聞かなかった。聞くべきではないと思ったから。


 でもルーファスは、茶を二つ持って戻ってきた時、傷跡を隠さなかった。袖を直さないまま、椅子に座った。


「見えたか」


「……はい」


「南部戦線。野戦病院のガラスが砲撃で割れた時のものだ」


 淡々と語る。処方箋を読み上げるような口調で。声に抑揚がない。でも、抑揚がないことが逆に、この人がどれだけの時間をかけてこの記憶を平坦にしたかを物語っていた。


「軍医というのは、切る方の仕事だと思っていた。入ってみたら違った。足りないものを工夫する仕事だった。包帯が足りない。消毒液が足りない。薬が足りない。人手も、時間も」


 茶を啜った。普通の茶。午後だが、薬草茶ではなかった。茶の湯気が雨の湿気と混じる。


「足りない中で、名前も知らない薬師が書いた処方箋が届いた。冬薔薇の根と月見草の種子。投与量と温度管理が正確に書いてあった。丸い字で。鉄インクの」


 私の処方箋。祖母の調合書を書き写して、辺境の駐屯地に送ったもの。名前は書かなかった。フローレンス家の名を出すと面倒になると思って。あの頃はまだ十五で、祖母を亡くしたばかりで、自分の名前に自信がなかった。


「あの処方箋がなかったら、俺は死んでいた。左腕のガラスの傷は、処方箋の薬で化膿を止めた」


 手が止まった。茶碗を持ったまま、動けなかった。


 あの処方箋が、この人を。


 十五歳の私が、祖母の調合書を書き写して送った。名前も書かずに。あの時の私は、自分の処方箋がどこに届くのかも知らなかった。辺境の駐屯地の、名前も知らない兵士たちに届けばいいと、ただそれだけ。


 でも、届いた先に、この人がいた。


 手首の内側に鳥肌が立った。感情の名前がわからない。震えているのか、震えていないのか、自分でもわからなかった。茶碗の温かさだけが手の中にある。


◇◇◇


「軍を辞めた後、薬学ギルドに来た」


 ルーファスの目が、作業台の上の乳鉢を見ていた。白大理石の乳鉢。底が私の手の形に馴染んでいる。使い込むうちについた擦り跡が、光を受けて微かに光る。


「戦場で足りなかったものを、ここなら作れると思った。それと」


 言葉が途切れた。ルーファスが言葉を選ぶのは珍しい。普段は思考がそのまま口から出る人だ。選んでいるということは、次の言葉に重みがある。


「処方箋を書いた人を見つけたかった。十年間、探していた」


 十年。


「見つけましたね」


「……ああ」


 沈黙。雨の音だけが部屋に満ちている。屋根を叩く水滴の、不規則なリズム。窓の水滴が筋を引いて流れ落ちていく。一本、また一本。


「セレスティーヌ」


「はい」


「名前のない処方箋が命を救った。でも、名前がないと、感謝を届ける先がない」


 前にも似たことを言っていた。春の日に、ギルドの裏庭で。あの時は軽く聞き流した。今は違う。その言葉の後ろに、戦場の記憶があったのだと知って。


「だから」


 ルーファスの手が茶碗を置いた。音が小さかった。陶器が木の机に触れる、かすかな音。


「お前の仕事に名前がつくたびに、俺は」


 止まった。耳の後ろまで肌の色が変わっていく。


「何です」


「……合理的に安堵する」


 合理的に安堵する。


 この人は、「嬉しい」と言えないから「安堵する」と言い、それだけでは気恥ずかしいから「合理的に」をつける。二重の鎧。でも鎧の隙間から、赤さが見えている。


 おかしくて、後頭部がじんとした。前にもそうだった。この人の不器用さに触れるたびに、何かが溢れる。名前のつけようがない温かさ。


 祖母なら何と言うだろう。「素直に嬉しいと思いなさい」。たぶんそう言う。でも祖母、これは嬉しいだけではないのです。もっと複雑で、もっと単純で、胸の奥の一番深いところが震えているのです。


「ルーファスさん」


「なんだ」


「私も、合理的に安堵しています」


 意味が通っているかどうかはわからない。でもルーファスは、ほんの少しだけ口元を動かした。笑ったのだ。たぶん。


◇◇◇


 雨が上がった。


 窓を開けると、湿った空気が薬草の匂いを運んでくる。雨上がりの匂い。土と水と緑が混じった、透き通るような清さ。裏庭の月見草が雨粒を載せて、重そうに頭を垂れている。花弁の先から、しずくが一つ、落ちた。


 ルーファスが窓辺に立って、メモ帳に何か書いている。角張った字が、雨上がりの光を受けて影を作る。


 この人の横顔を、こんなに長く見たのは初めてかもしれない。暗い髪を束ねた後ろ姿。白衣の肩。左腕の傷跡。その傷を治した薬を、私が書いた。名前も知らない相手のために。十五歳の手が書いた処方箋が、巡り巡って、この場所に繋がった。


 名前を探していた人が、名前を見つけた。名前がなかった人が、名前を取り戻した。


 二つの線が交わった場所が、この鑑定室。


 雨上がりの光が妙にきれいで、乳鉢の白大理石がオレンジ色に染まっていて、ルーファスのペンが紙を走る音が心地よくて。


 幸福、なのかもしれない。わからない。こういう感情に名前をつけた経験が少なすぎて、合っているかどうか自信がない。


 でも、合っていなくてもいい。名前がなくても、ここにある。

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