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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第3章

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第3話 薬草の名前


 フィーナの手紙は、月に二回届くようになっていた。


 字が少しずつ整ってきている。最初は便箋の半分も埋まらなかったのが、今は裏面まで書いてある。インクの染みも減った。誰かに書き方を教わっているのかもしれない。文字の傾きが少し左に寄っているのは、左利きだから。インクで手が汚れる側が、右利きの子とは逆になる。


「セレスへ。しつもんがあります」


 今月の手紙には、薬草の絵が描いてあった。茎が細くて、葉が丸い。線がぎこちないけれど、観察力がある。葉脈の向きまで描いてある。根元の葉と上の方の葉で形が違うことにも気づいている。八歳の目は、侮れない。


「この草、はたけのすみにはえてきました。たべられますか。おじさんがおしえてくれた名前のなかに、ないです」


 おじさん。ルーファスのことだ。孤児院を訪ねた時に薬草の名前を教えた、あの人のことを、子供たちはまだ「おじさん」と呼んでいる。ルーファスが聞いたら眉間に縦皺を寄せるだろう。でも訂正はしないだろう。


 絵をじっくり見た。鉄インクの匂いが薄く漂う便箋に鼻を近づけて、フィーナの筆跡をなぞった。たぶんヒメジョオンだ。薬効はないが、毒もない。若い葉は食べられなくはない。


 返事を書いた。鉄インクで。丸い字で。フィーナが読めるように、漢字には振り仮名をつけた。


「ヒメジョオンという草です。食べられますが、あまり美味しくないので、他の野菜がある時はそちらを食べてください。葉を煎じると、少しだけ咳に効きます。でも本当に咳がひどい時は、大人に言って薬をもらってくださいね」


 書きながら、ペンが止まった。


 この子に、もっと教えられることがある。薬草の見分け方。毒草との区別。採取の方法。保存の仕方。祖母が私にしてくれたように、手から手へ渡せることが、手紙だけでは足りない。図があれば。絵があれば。指で差して「これ」と言える教材があれば。


◇◇◇


 昼休み、ルーファスに話した。


 鑑定室の作業台に二人分の茶を置いて、向かい合って座る。いつもの位置。私が窓側で、ルーファスが扉側。


「フィーナが薬草に興味を持っている。手紙で質問が来るんだけれど、図鑑がないと限界がある」


「図鑑を送ればいい」


「子供向けの図鑑は高いし、辺境では手に入りにくい」


 ルーファスが茶を啜りながら、天井を見た。考えている時の癖だ。首を少し後ろに傾けて、まぶたが半分閉じる。三つ数える間に答えが出る。


「ギルドに教育支援の制度がある」


「え」


「知らなかったのか。薬師育成基金。辺境の識字率向上のために作られた古い制度だ。ほとんど使われていないが、廃止はされていない」


 知らなかった。入ったばかりの頃は制度を調べる余裕がなかった。毎日の鑑定業務と、自分の足場を固めることで精一杯だった。


「その基金で、図鑑や教材を辺境の孤児院に送れる。申請書は俺が書く」


「また先回りしますね」


「合理的な選択だ。人材の早期育成は、長期的に薬草供給の安定に寄与する」


 並べ立てている。いつもの。学術用語の鎧。「合理的」という言葉で、優しさを隠す。


「……つまり、フィーナに薬草の勉強をさせたいということですか」


「そう言っている」


 そうは言っていなかった。学術用語で三段論法を組み立てていただけだ。でもこの人の「合理的な選択」は、いつも人の顔が見えている。


「ルーファスさん。一つ、提案があるんですけど」


「なんだ」


「図鑑だけじゃなくて、手書きの教材を作りたいです。フローレンス式の精製法の簡易版。子供でもできる薬草の乾燥法と保存法。絵を添えて」


 ルーファスの手が止まった。茶碗を持ったまま、こちらを見た。


「……お前が書くのか」


「ええ。祖母がそうしてくれたように。手書きの方が、子供には伝わると思うんです。活字よりも。手の温度が紙に残るから」


 最後の一文は、言うつもりはなかった。口が先に動いた。


 ルーファスが黙った。二拍。それから茶碗を置いた。


「手伝う」


「え」


「薬効のデータを整理する。子供にもわかる言葉で。……俺の字は子供向きではないが」


 角張った字。確かに子供向きではない。でも正確だ。


◇◇◇


 その夜、下宿のテーブルで教材の下書きを始めた。


 鉄インクで、丸い字で。絵は得意ではないけれど、葉の形と茎の断面くらいは描ける。祖母の調合書がそうだったように。線がまっすぐでなくても、特徴を捉えていれば伝わる。


 ランプの灯りが紙の上に温かい影を作る。インクが光を吸って、鈍い黒で文字が浮かぶ。


 リーゼが隣で洗濯物を畳みながら、時々覗き込んでくる。


「セレスティーヌ様、絵がへたっぴですね」


「知ってる」


「でも、わかりやすいです。へたっぴだからこそ」


 褒められているのかどうか微妙だった。でもリーゼの言う通りかもしれない。上手すぎる絵より、少し下手な絵の方が、子供は真似しやすい。完璧でない手本は、「自分にもできる」と思わせてくれる。


 三枚書いたところで、手が止まった。カモミールの乾燥法のページ。花を摘む時期と、干す日数を書いた。でも読み返すと、言葉が硬い。ギルドの鑑定報告書の文体が抜けていない。「花弁を摘出し、日陰で三日間静置する」。八歳の子供に、これが伝わるだろうか。


 書き直した。「お花をやさしくつまんで、かげにおいてね。三日まってね」。


 膝の裏が汗ばんだ。柄にもなく緊張している。ギルド長の審査より、こちらの方が怖い。審査は落ちても自分が傷つくだけだ。教材は、間違えたらフィーナが傷つく。毒草と食べられる草を取り違える教材を送ったら。


 ペンを置いた。深呼吸した。ランプの灯りが揺れて、紙の上の影が動く。


 祖母の教材を思い出した。祖母の字も、最初は震えていたのだろうか。わからない。でも祖母の教材は、いつも正確で、いつも温かかった。正確さと温かさは両立する。祖母がそう証明してくれている。


 ペンを取り直した。


 表紙に書いた。「フローレンス式 やくそうのきほん」。


 自分の名前をつけた。子供向けの教材に。たとえそれが、へたっぴな絵の、薄い冊子だとしても。


 窓の外は暗い。でも手元のランプの灯りは温かくて、インクが鈍く光っている。


 書いている間は、手が震えない。辺境にいた頃と同じだ。でも今は、書いたものに自分の名前がある。

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