第2話 嫁入りの日、銀木犀は咲いていた
辺境伯邸の門をくぐったとき、最初に目に入ったのは夫の顔ではなく、庭の隅で枯れかけた銀木犀だった。
五年前の春。私は十九歳で、旧子爵家フローレンスの長女で、精霊契約者で、それ以外の何者でもなかった。
嫁入りの馬車から降りると、石畳が思ったより冷たかった。辺境の春はまだ冬の名残を引きずっていて、吐く息が白い。祖母が仕立ててくれたリネンのドレスの裾を踏まないように気をつけながら、私は背筋を伸ばした。
旦那様――ダリウス・フォン・シュテルンは門前で待っていた。軍人らしい姿勢の良さ。短く切り揃えた黒髪。表情は厳めしいというより、どう表情を作ればいいかわからないという感じに見えた。
「よく来た」
それだけだった。二言目はなく、三言目もなかった。
――そうですか。
落胆したかと言われれば、していない。政略結婚に甘い言葉は期待していなかった。祖母にも言われた。「あの家に行くのは、あなたの力が必要だからです。愛される保証はありません」と。祖母の言葉はいつも正直で、だから信頼できた。
門を抜けて屋敷に入ると、使用人たちが並んで出迎えてくれた。先頭に立つ女性が深く頭を下げる。
「使用人長のマルタでございます。奥様のお世話をさせていただきます」
温かい声だった。この屋敷に来て初めて、人の体温を感じた気がした。マルタの手は荒れていて、爪は短く切り揃えられていて、誰かの世話を何十年も続けてきた手だとわかった。あかぎれが右の親指に一つ。冬場は大変だろうに、丁寧に薬を塗った跡がある。
「よろしくお願いいたします」
私の手を見て、マルタが一瞬だけ目を見開いた。爪の間に入り込んだ土の跡に気づいたのだろう。嫁入りの朝、祖母の庭で最後に薬草を確認した時のものだ。洗っても取れなかった。
「奥様のお部屋にご案内いたします。それから――」
マルタが少し声を落とした。
「薬草園のことでお聞きしたいことがあると、先代の奥様から伺っておりました。ご準備が整いましたらご案内いたしますね」
先代の奥様。つまり、旦那様の母君。亡くなる前に、精霊契約者が来ることを使用人長に伝えていたのだ。
◇◇◇
ジーク様に会ったのは、嫁入りから三日目のことだった。
午後の茶の時間に書斎を訪ねると、旦那様の隣に見知らぬ男性が座っていた。柔らかな亜麻色の髪、穏やかな笑み。立ち上がって丁寧に一礼した。
「ジーク・ヴァルトシュタインと申します。殿下とは幼い頃からの友人で、今は家令代行を務めております」
殿下。旦那様をそう呼ぶのは、幼少期からの親しさの表れなのだろう。
「何かございましたら、私を通してくださいませ。殿下にお伝えしますから」
にこやかな声。腰の低い物腰。第一印象は、感じの良い人だった。旦那様が口下手な分、ジーク様が屋敷の潤滑油のような役割を果たしているのだろうと思った。会議の内容を正確に覚えていて、書記よりも早く要点をまとめてしまう人だと後から知った。報告書の文章は明晰で、読みやすい。実務能力のある方だと、素直に感心した。
「ありがとうございます。頼りにさせていただきますね」
私がそう言うと、ジーク様は嬉しそうに目を細めた。
――今思えば。
いや、やめよう。今はまだ、五年前の話をしている。
◇◇◇
薬草園に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
ガラス張りの温室の扉を開けると、土の匂いが鼻腔を満たす。湿った黒土。祖母の庭と同じ匂いだ。指先がざわつく。胸の奥で、何かが目を覚ます感覚。
精霊が、反応している。
目には見えない。けれど、温室の中の気温が少しだけ上がり、棚の隅に並んだ銀木犀の蕾が微かに開いた。甘い香りが、糸のように細く立ち昇る。
「……久しぶり」
声に出したのは無意識だった。祖母が亡くなってから、精霊の気配を感じるのは初めてだった。フローレンス家の庭は荒れ、精霊たちも離れていった。でもここには、まだいる。
土に指を沈めてみた。爪の間に黒い土が入り込む。冷たくて、でも奥のほうは温かい。生きている土だ。
ここなら、やれるかもしれない。祖母から教わったこと、全部。薬草の栽培、精霊との対話、調合の技術。この庭を、もう一度咲かせることができるかもしれない。
温室を出ると、空が高かった。辺境の空は広い。王都の空とは違う。建物に切り取られていない、地平線まで続く空。
肩の力が抜けて、深く息を吸った。冷たい空気が肺の隅々まで届く。
――必要とされるなら、ここにいよう。この庭が、私の居場所になるかもしれない。
◇◇◇
最初の違和感は、嫁入りから一ヶ月後のことだった。
薬草園の改善案をまとめた。銀木犀の配置を変え、精霊が好む月見草を増やし、薬草の収穫効率を上げる設計図。祖母から教わった知識と、現地の土壌を観察した結果を組み合わせたもの。
直接旦那様に渡そうとしたが、書斎にいたジーク様が「私が預かります」と手を差し出した。
「殿下は今、領境の巡回中ですので。戻られたらお伝えしておきますよ」
「ありがとうございます」
翌週、旦那様が巡回から戻った。夕食の席で旦那様がジーク様に声をかけた。
「薬草園の件、良い案だな。お前の発案か」
「おかげさまで。奥方にもご協力いただきました」
ご協力。
私は銀の匙を握ったまま、視線を皿に落とした。スープの表面に、天井の燭台の灯りが揺れている。
――いえ。きっと、ジーク様なりのまとめ方があったのだろう。私の案を土台にして、ジーク様が整えてくださったのかもしれない。そういうことは、よくある。
そう思った。五年前の私は、そう思うことにした。自分の手で渡せなかったのが悪いのだ、と。旦那様に直接話す機会を作らなかった自分に非がある、と。
――今なら、違う答えが出る。でも当時の私には、疑うという選択肢がなかった。
夕食の後、自室に戻って業務ノートを開いた。一冊目のノート。祖母と同じ製本法で綴じた、革表紙の。
日付と内容を書き留める。インクは鉄インク。祖母が使っていたのと同じ、少し赤みがかった黒。
ペン先が紙に触れる音だけが、部屋に響いていた。窓の外では銀木犀の枝が風に揺れている。甘い香りが、隙間風に乗って微かに届く。
この匂いがある限り、ここは私の場所だ。
そう信じていた。少なくとも、この頃はまだ。




