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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第5話 もう、ここの人間ではありません


 孤児院の門を開けた瞬間、声が飛んできた。


「セレス!」


 小さな身体がぶつかってきた。腰のあたりに腕が巻きつく。続けてもう一人、もう一人。三人目は足にしがみついた。


「セレス、セレス、セレスだ!」


 名前を呼ばれている。この子たちは私を役職で呼んだことがない。奥様でも、薬師殿でもなく、最初からセレス。子供は肩書きに興味がない。それが、どれほど救いになっていたか。


 しゃがんで、一番小さな子の頭を撫でた。髪が伸びている。前髪が目にかかっている。切ってあげたいと思って、――いや、それは今の私の仕事ではない。


「元気だった?」


「うん。ごはん、ちょっとすくなくなった。でもだいじょうぶ」


 大丈夫。その言葉を、六歳の子供に言わせてしまっている。喉の奥が熱くなった。


◇◇◇


 裏庭の薬草畑に案内された。


 雑草が膝の高さまで伸びている。ミントが野生化して、本来の区画を超えて広がっていた。ラベンダーは半分枯れている。カモミールの列は完全に雑草に埋もれていた。


 でも、畑の中央に一区画だけ、手入れされた場所があった。


 雑草が抜かれている。土が湿っている。小さなジョウロが脇に置いてある。ブリキの、錆びた、子供用の。


「ここ、わたしがまもってるの」


 手紙をくれた子だ。八歳。名前はフィーナ。日焼けした顔に、真剣な目。


「まいにちお水やってる。はっぱ、まだみどりでしょ」


 見た。確かに、銀木犀の若木が一本だけ残っている。葉は小さくて色も薄いが、生きている。精霊がいないのに。水と土と陽の光だけで。


「セレスがつくったんだから、まもらなきゃって」


 目の奥が焼けた。まばたきをした。二回、三回。涙は落ちなかった。落とすわけにはいかない。この子の前で泣いたら、この子は自分が何か悪いことをしたと思ってしまう。


 代わりに、フィーナの手を取った。小さな手。爪の間に黒い土が詰まっている。五ヶ月前の私の手と同じ色の土。


「よく守ってくれたわね」


 声が震えなかったのは、実務モードに切り替えたからだ。感情を棚に上げて、薬師の声で話す。この技術だけは、五年間で完璧に身についている。


◇◇◇


 院長室で茶を出された。欠けた陶器の杯。茶葉が薄い。節約しているのが、色でわかる。


「フローレンス様、一つお聞きしてもよろしいですか」


 院長が杯を置いた。目が真剣だった。


「これから先も、孤児院のことを見ていただけるのでしょうか。薬草園のことも、子供たちの薬のことも」


 空気が変わった。期待の重さ。この重さを、私は知っている。辺境伯邸で五年間、背中に載せ続けた重さと同じ種類のもの。


 答えなければならない。正直に。


「私は、もうここの人間ではありません」


 言った。


 院長の表情が固まった。子供たちの笑い声が、窓の外から聞こえてくる。その声との落差が、自分の言葉の冷たさを際立たせた。


 ――いえ、冷たいのとは違う。でも、温かくもない。事実というのは、そういうものだ。温度を持たない。


「王都の薬学ギルドに所属しています。辺境伯領の人間としてではなく、ギルドの薬師として来ました。ですから、個人的にお約束することはできません」


 言葉が正確であればあるほど、胸の内側との距離が広がる。本当はこの場所が好きだ。この子たちの声を聞くと、指先が温かくなる。でも、好きだから残るとは言えない。好きだから守るとも。それを言った瞬間、また五年前に戻ってしまう。


 正しいことを言っているはずなのに、自分の声が他人のように聞こえる。


「ただ」


 言葉を継いだ。院長の強張った肩を見ていられなかった。


「ギルドとして協力できる仕組みは、提案できるかもしれません。個人の善意ではなく、制度として」


 ルーファスの言葉が浮かんだ。名前は場所ではなく仕事についている。ならば、仕事として繋がればいい。感情に頼らない形で。


 院長が小さく頷いた。理解したのか、諦めたのか。たぶん、両方。


◇◇◇


 中庭に戻ると、子供たちの輪の中にルーファスがいた。


 しゃがみ込んで、手のひらに葉を載せている。子供が五人、ルーファスの周りに座り込んでいた。


「これはミント。嗅いでみろ」


「すーすーする!」


「それが薬になる。腹が痛い時に煎じて飲む」


「にがい?」


「少し苦い。でも効く」


 子供たちが次々に葉を嗅いでいる。ルーファスの表情は変わらない。無愛想なまま。でも、子供に渡す葉を一枚ずつ丁寧に選んでいる。虫食いのない、綺麗な葉だけを。


「おじさん、これは?」


「カモミール。花を乾かして茶にする。眠れない夜に飲む」


「おじさんも眠れないの?」


「……たまにな」


 おじさん呼ばわりされて、ルーファスの眉が微かに動いた。不快ではなく、戸惑い。この人は子供に慣れていない。慣れていないのに、逃げない。


 ――いや、逃げないというより、観察している。患者を診るように、一人一人の顔を見ている。元軍医の目。フィーナの爪の間の土にも、たぶん気づいている。


「セレス、おじさんおもしろいよ」


 フィーナが駆け寄ってきた。


「おくすりの名前いっぱい教えてくれた。ぜんぶおぼえる」


「全部は大変よ」


「でもセレスもおぼえたんでしょ」


 返す言葉がなかった。


◇◇◇


 夜。屋敷に戻って遅い食事を取った。マルタが用意してくれた夕食は質素だったが、パンは温かかった。リーゼが「パン屋さんまだあった」と小声で喜んでいた。


 食後、マルタが茶を運んできた。リーゼとルーファスはすでに部屋に下がっていた。


「セレスティーヌ様」


 マルタが盆を置きながら、声を落とした。


「一つ、お伝えしておくべきことがございます」


 マルタの声が変わった。報告の声。三十年仕えた人間の、正確で感情を排した声。


「ジーク・ヴァルトシュタインが、まだこの領にいます」


 指先が冷えた。


「領を離れたと聞いていましたが」


「一度は出て行きました。ですが二ヶ月前に戻り、街の外れに住んでいるようです。旦那様のお耳には入れておりますが、特に処分はされておりません」


 処分されていない。あの男が。五年分の私の仕事を自分の手柄にし、ノートを燃やし、名前を奪った男が。


 袖口を握った。


 指の関節が白くなるほど、強く。


「マルタ。ありがとう、教えてくれて」


「お気をつけください。あの者は、口が上手うございます」


 マルタが下がった後、握りしめた袖口をゆっくりと離した。布に皺が残っている。


 窓の外は暗い。辺境の夜は、王都より深い。街灯がないから。星が多いから。五年間、この暗さの中で暮らしていた。


 ジークがいる。


 この領に。まだ。


 四冊目のノートを開いた。今日の調査記録を書く。土壌サンプルの番号、薬草園の現状、孤児院の状況。ルーファスの土壌データ。フィーナの銀木犀。


 書いている間は、手が震えない。文字は正確で、配列は整っている。


 ――そういうものだ。書いている間だけ、私は薬師でいられる。

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