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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ
第2章

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第4話 灰色の薬草園


 五日目の朝、馬車が丘を越えた時、ルーファスが窓から顔を出した。


 私は出さなかった。見なくてもわかる。空気が変わったから。王都の空気には石畳と排水と人の体温が混じっている。辺境の空気には土と針葉樹と、かつては精霊の気配があった。


 かつては。


 今、窓から入ってくるのは、乾いた埃の匂いだけだ。


「……森が痩せているな」


 ルーファスが呟いた。独り言のような声。でも私に聞かせている。この人は、自分が先に言葉にすることで、私が受け止める準備を作ろうとしている。


 窓の外を見た。


 道の両側に立つ楡の木が、五ヶ月前より細い。葉の色が薄い。土が白っぽく乾いている。精霊がいなくなると、土壌の保水力が落ちる。祖母のノートに書いてあった。文字で読んだ知識を、今、目で見ている。


◇◇◇


 薬草園は、灰色だった。


 比喩ではない。銀木犀の樹皮が灰白色に変色し、葉は一枚も残っていない。枝先が乾いて、触れれば折れそうだった。触れなかった。折れる音を聞きたくなかったから。


 温室のガラス屋根は三枚割れていた。残ったガラスも曇って、中が見えない。扉を開けると、蝶番が錆びた音を立てた。


 中は空だった。棚の上の鉢植えは全て枯れている。かつて銀木犀の挿し木を育てていた一番奥の棚だけ、土が湿っていた。誰かが水をやった痕跡。でも、芽は出ていない。


「セレスティーヌ」


 ルーファスの声。振り返ると、ルーファスは地面にしゃがみ込んでいた。鞄から小瓶を取り出し、土を採取している。


「土壌のpHを測る。有機物の含有量も。精霊の残留がどの程度か、科学的に記録しておくべきだ」


 科学的に。この人は、荒れ果てた庭の前で感傷に浸らない。データを取る。記録する。それが、この人なりの誠実さなのだと、今はわかる。


 ――いや、わかるというより、救われている。感情で立ち止まりそうな足を、この人の冷静さが支えている。


 小瓶が五つ、六つと並んでいく。ルーファスの字で「A-1」「A-2」と番号が振られる。角張った字。几帳面。日付だけ、やはり雑。


「精霊の気配が完全にない」


 私は声に出した。確認するように。


 五年間、毎朝この庭に立って精霊と対話していた。微かな振動、土の温もり、風の方向。精霊がいれば空気が少しだけ甘くなる。今は何もない。空の容器に手を入れているような感覚。


「記録する」


 ルーファスが言った。それだけ。でもペンを持つ手が一瞬止まって、私の方を見た。視線がすぐに逸れる。何か言おうとして、やめたのだ。


 この人の不器用な気遣いは、薬草の根に似ている。見えないところで支えている。


◇◇◇


 屋敷の玄関に人影があった。


 白髪を後ろで束ねた、背筋の伸びた女性。エプロンの紐をきっちり結んでいる。三十年間変わらない所作。


 マルタ。


 マルタは私たちが近づくのを待って、深く頭を下げた。口が開きかけた。


「おかえりなさい――」


 そこで、止まった。


 唇が震えた。一瞬だけ。マルタの唇が震えるのを、五年間で一度も見たことがなかった。


「……ようこそ、奥様」


 おかえりなさいませ、ではなく。ようこそ。


 その一語の差が、五ヶ月の重さだった。私はもうこの家の人間ではない。マルタはそれを知っている。知った上で、正しい言葉を選んだ。奥様という呼び方だけは変えなかった。三十年間そう呼んできた人は、簡単には呼び方を変えない。――いえ、変えないのではなく、まだ変える準備ができていないのだ。


 喉が詰まった。


「マルタ。お元気そうで」


「ええ。丈夫だけが取り柄ですので」


 声が平坦だった。感情を押し殺しているのではなく、感情の上に仕事を載せている。この人はいつもそうだ。


 リーゼがマルタに駆け寄った。「マルタさん!」と声を上げて、両手を握っている。マルタの目尻が、ほんの少しだけ下がった。


「リーゼ。大きくなりましたね」


「三ヶ月ですよ、そんなに変わりませんよ」


「いいえ。手が変わりました。働く人の手になっている」


 リーゼが自分の手を見た。赤くて、少し荒れていて、でも強い手。マルタの言う通りだ。


◇◇◇


 案内された客間は、以前マルタが使っていた使用人の部屋だった。奥様のお部屋をご用意しますと言わなかったのは、マルタなりの線引き。


 荷を解きながら、廊下の向こうを見た。


 影が動いた。


 長身の、肩幅の広い影。足音がしなかった。軍人の歩き方。音を立てずに動く癖が、平時でも抜けない人。


 影は一瞬立ち止まって、こちらを見た気配がした。見た、のかどうか。暗くてわからない。


 影が消えた。


 袖口を握りかけて、やめた。代わりに、鞄の中の土壌サンプルの小瓶に触れた。ガラスの冷たさが、指先を現実に繋ぎ止める。


 ここに来たのは仕事だ。ギルドの公務。それ以上でも以下でもない。


 ――そう自分に言い聞かせる声が、少しだけ上擦っていることには、気づかないふりをした。

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