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夫と、夫の親友と、私の五年間  作者: 秋月 もみじ


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第1話 あの方は、全てご存知でした


 薬草園の銀木犀が、一晩で色を失った。


 朝の巡回で最初に気づいたのは庭師ではなく、私だった。窓を開けた瞬間、いつもの甘い香りがしない。それだけで足が止まる。冬の朝の乾いた空気だけが流れ込んできて、鼻の奥がつんとした。


 先代の頃からこの屋敷に仕えて三十年になるが、銀木犀が色を落とすのを見たことは一度もない。冬の嵐の翌朝でさえ、あの銀色の花弁は凛と枝にしがみついていた。雪が積もっても、霜が降りても、春にはまた同じ甘い香りで屋敷を包んだ。


 それが今朝は、灰色だった。


 花びらの一枚を拾い上げる。指先に伝わるのは、紙のような乾いた感触。昨日までの、あのしっとりとした生きた手触りが消えている。まるで押し花のように、命だけが抜け落ちたような。


 ――奥様がお使いになっていた調合台の上にも、同じ花びらが散っていたのだろうか。


 ふと、そんなことを考えた。


「マルタ、薬草園に異変が」


 庭師のヨハンが駆け込んできた。息を切らしている。額に汗が浮いていた。この寒さの中で。


「存じております」


 声が平坦になっていることに、自分で気がついた。存じている。知っている。三日前、奥様が離縁届を出された朝から、こうなることは。


 精霊は、契約者の心と共にある。奥様の心がこの屋敷から離れたのだ。


 ヨハンに「他の薬草の状態も確認してください」と指示を出しながら、私はエプロンの紐を締め直した。手を動かさなければ、余計なことを考えてしまう。先代の奥様に教わった香草茶の淹れ方とか、奥様が初めて薬草園に立たれた日の横顔とか。


◇◇◇


 あの朝のことを、忘れられるはずがない。


 奥様は朝食の前に旦那様の書斎を訪れ、一通の書類を差し出された。白い封筒。薄い羊皮紙。蝋の封印はなく、ただ二つ折りにされていた。


 中身を読んだ旦那様の顔から、血の気が引いていくのが廊下からでも見えた。書斎の扉は半開きで、私は朝の茶を運ぶ途中だった。立ち聞きをするつもりはなかった。でも、足が動かなかったのだ。


「離縁届だと」


「はい」


 奥様の声は凪いでいた。泣いてはいなかった。怒ってもいなかった。五年分の感情を全部使い切ったあとの、空の器のような声。


「白い結婚の五年条項に基づき、申請いたします。証人の署名は、使用人長マルタと侍女リーゼのものです」


 旦那様は何か言おうとした。唇が動いて、けれど言葉にならず、拳を握りしめた。あの方はいつもそうだ。感情が溢れると、言葉ではなく拳に力が入る。戦場では勇敢な指揮官であっても、妻の前では一言も出てこないのだ。


「……話し合いたい」


「五年間、一度もなさらなかったことを、今日なさるのですか」


 奥様の声は震えていなかった。少なくとも、私の耳にはそう聞こえた。ただ、奥様の右手が微かに袖口を握っているのを、私は見逃さなかった。あの癖。何かを堪えている時の。


 茶盆を持ったまま、私は廊下を静かに引き返した。朝の茶は、もう少し後にしよう。


◇◇◇


「薬草園は私が管理する。問題はない」


 ジーク様が使用人を集めて宣言したのは、奥様が屋敷を発った翌日のことだ。


 自信に満ちた声。いつものように口元に穏やかな笑みを浮かべ、背筋を伸ばして。この方はそういう立ち居振る舞いだけは本当に見事で、知らない者が見れば頼もしく映っただろう。私の横に立つ侍女のカリンが小さく頷いているのが視界に入った。


「奥方の業務は全て把握しております。これまでも助言してきたのは私ですから」


 助言。


 その言葉を聞いた瞬間、私は奥歯を噛みしめていた。差し出がましいことを申しますが、と声に出しそうになるのを堪える。今はまだ、時ではない。


 けれど。


 ジーク様が薬草温室の扉を開け、精霊に呼びかけた時。


 何も起きなかった。


 風も吹かなかった。花も揺れなかった。あの甘い香りは微塵も立ち昇らなかった。奥様が温室に入られた時はいつも、空気が少し暖かくなり、蕾が微かに開いたのだ。それがジーク様には、何一つ。


 ジーク様の笑みが、ほんの少しだけ引きつった。目尻の皺が深くなり、すぐに「精霊は人見知りをする」と言い繕った。


 ――奥様。あなたの五年間を、この屋敷はようやく知ることになるのでしょう。


 厨房に戻ると、奥様が最後に焼いてくださった香草茶の葉がまだ棚に残っていた。この匂い。乾いた月見草と、銀木犀の花弁を混ぜた奥様だけの配合。同じ材料で淹れても、私では同じ味にならない。不思議なものだ。


 あの方は、全てご存知でいらした。この屋敷で何が起きていたか。誰が何をしていたか。それでも五年間、黙っておられた。


 私も、黙っていた。


 でも、もうすぐ。


◇◇◇


 馬車の窓から、景色が流れていく。


 シュテルンハイムの石畳、門前の冬薔薇、領民たちが行き交う市場の屋根。五年間見慣れたはずの風景が、硝子の向こう側の絵のようにぼやけている。


 安堵した。――いえ、安堵というのとは違う。


 なんだろう、この気持ちは。胸のあたりが軽くなったような、でも同時にどこかが欠けたような。薬草園の土を最後に触ったのはいつだったか。昨日の夕方。銀木犀の根元の土は、まだ湿っていた。指の間に入り込む黒い土、祖母の庭と同じ匂い。あの湿り気は、もう私のものではない。


 馬車の座席は古い革の匂いがする。辺境伯家の紋章が入った馬車ではなく、乗合の馬車を選んだ。隣に座るリーゼの肩が、石畳の揺れに合わせて小さく跳ねている。


「セレスティーヌ様」


 リーゼが小さく呼んだ。離縁が成立して、「奥様」ではなくなった私の名前を。


「はい」


「……何でもありません。ただ、お呼びしたかっただけです」


 不思議だった。名前を呼ばれたことが、こんなにも喉の奥を詰まらせるものだとは。


 五年間、私は確かにあの場所にいた。薬草園の土を耕し、精霊に語りかけ、孤児院の子供たちと話し、隣領の薬師と手紙を交わした。業務ノートは三冊になった。引き継ぎのために、全ての手順を書き留めて。


 けれど、誰も私の名前を呼ばなかった。


 「奥方の発案です」と誰かが言うことはなかった。「セレスティーヌ様のおかげです」と領民が言うことも。私の仕事には、いつもジーク様の名前がついていた。おかげさまで、とあの人は微笑んで、旦那様に報告書を渡していた。


 窓の外で、鴉が一羽飛び立つ。黒い影が灰色の空を横切って、林の向こうに消えた。


 王都まで五日。


 ――自由、なのだろうか。


 わからなかった。ただ、指先がもう袖口を握っていないことには気づいた。五年間ずっと握りしめていた布の端を、今は握っていない。


 それだけのことだった。

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