第9話 俺の空洞
振り返る。
医者は言った。 「もう大丈夫です」
診察台の上で、それを聞いた。
一ヶ月。 小さな異物のために、生活が組み替えられた。
薬は皮膚を荒らした。 塗るたびに、自分の体が他人のものになる。 焼かれているみたいな感覚。
治療というより、罰に近かった。
それが終わった。 医学的には。
だが、終わった感じがしない。
鏡を見る。 何もない。
それでも見る。 角度を変える。 光を当てる。
疑いは視力を上げる。 存在しないものまで、見えそうになる。
安心は長く続かない。 確認をやめた瞬間に、再発する気がする。
根拠はない。 だが恐怖に根拠はいらない。
遊ぶために仕事を辞めた。 時間を買った。 自由を買った。
それなのに今、自由が怖い。
予定が空白だと、考え始める。 考えると、身体を意識する。 意識すると、感染を思い出す。
円を描く。 出口がない。
風俗には行く。 やめられない。
だが振り切れない。
楽しさの裏に、常に計算が入る。 何日後に症状が出るか。 潜伏期間。 検索した知識が、頭の隅で回る。
触れながら、数えている。 時間を。 女ではなく、リスクを見ている。
それでも行く。 矛盾が日常になる。
俺は風俗嬢を下に見ていない。
むしろ、 リスペクトに近い感情がある。
よくいる説教おじさんにはなれない。
「こんな仕事は良くない」 「親が悲しむ」 「楽して金を稼いでいる」
そういう言葉は、 外から見ている人間の安全な意見だ。
現場に立ったことのない人間の、 綺麗な正論。
俺には言えない。
楽ではないと知っている。
体力も、 神経も、 時間も削る仕事だ。
何より、 他人の欲望を受け止め続けるのは、 精神を摩耗させる。
それを職業として成立させている時点で、 尊敬に値する。
俺は女が苦手だった。
学生のころから、 距離の取り方が分からない。
話すとき、 どこを見ればいいか迷う。
何を言えば正解なのか分からない。
無意識の偏見もあった。
怖さに近い壁。
風俗は、 その壁を外した。
金を払うことで、 会話のルールが明確になる。
拒絶されない場所。
そこから少しずつ、 女という存在が 抽象ではなくなった。
一人一人、 別の人間として見えるようになった。
救われたのは、 たぶん俺のほうだ。
SNSを見る。 同世代の男がいる。
家庭。 子供。 仕事の愚痴。
俺はそこから降りた。 選択した。
後悔はないはずだった。
だが静かな夜に、比較が始まる。
俺の自由は、 どこへ向かっているのか。
答えは出ない。
出ないまま、また予約を入れる。
治った。 だが保留された。
身体は回復したが、 思考が治っていない。
感染は、 皮膚より深い場所に残る。
疑いという形で。
俺はまだ、 終わっていない。




