第3話 しずくの静かな部屋
治療は、思ったより時間がかかった。
医師は年上の男で、言葉遣いは丁寧だったが、手つきは容赦がなかった。
診察台の上で脚を開き、ライトを当てられ、患部を指で押し広げられる。
「小さいですね」
小さいなら放っておいてくれ、と思った。
だが医師はさらに触る。
確認するように、
確かめるように、
何度も。
屈辱という言葉は、こういう場面のためにある。
処方された薬の名前は
イミキモド。
説明書には、皮膚が荒れる可能性があります、と書いてあった。
“可能性”ではなかった。
塗るたびに、皮膚は焼けるように痛み、ただれて、赤黒く変色した。
たった一ミリにも満たない突起を殺すために、その周囲一帯が犠牲になる。
治療とは、こういうものなのかもしれない。
尿検査は問題なかった。
性病の菌は検出されず、ただの雑菌が少し。
抗生剤を渡されて終わり。
医師は採血を勧めなかったし、俺も求めなかった。
終わったことにしたかった。
一か月。
たったそれだけの期間なのに、体の中心に傷を抱えていると、時間の流れが変わる。
風呂に入るたび、鏡を見るたび、思い出す。
誰だ。
その問いだけが、治療と並行して進行していた。
しずくの部屋は、
驚くほど静かだった。
派手な装飾も、無理に甘い香りもない。
落ち着いた照明と、読みかけの本がテーブルに置かれている。
「今日はゆっくりしましょう」
彼女はそう言った。
昼間は別の仕事をしていると、以前聞いたことがある。
仕事は安定しているらしい。
普通の会社。 普通の給料。 普通の生活。
それでも彼女は、 夜にここへ来る。
理由は単純だ。
「喫茶店をやりたいんです」
夢を語るときの声は、 少しだけ温度が上がる。
本が読めて、 静かで、 長居しても怒られない店。
コーヒーの匂いと、 紙の音だけがある場所。
昼の給料では、 そこまで届かない。
だから夜に働く。
彼女はそれを、 感情抜きで説明する。
計算式みたいに。
愛想はあるが、 情に溺れない。
必要以上に踏み込まない。
仕事として線を引いている。
頭がいい女の距離感だった。
勉強熱心で、 客の反応をよく見ている。
どこに触れれば緩むか。 どこで息が変わるか。 どんな言葉で力が抜けるか。
観察して、 覚えて、 再現する。
愛情は薄い。
だが精度は高い。
それが彼女の優しさの形だ。
ときどき、 迷うことがあると言っていた。
「こんなお金で夢かなえていいのかなって」
笑いながら言う。
冗談の形をしているが、 本音の重さが混ざっている。
清潔な店をやりたいのに、 手段が濁っている。
矛盾を自覚したまま、 働いている。
それでも彼女はやめない。
誰かの体と心を、 洗うみたいに触れる。
ここに来る男たちは、 疲れている。
欲望より先に、 消耗している。
しずくはそれを知っている。
だから静かに整える。
騒がず、 煽らず、 ただ戻す。
呼吸を。
体温を。
人間らしさを。
夢は喫茶店。
その話をするときだけ、少し遠くを見る。
現実から半歩ずれた目。
触れられる。
その瞬間、快楽より先に恐怖が走る。
もし。
まだ残っていたら。
もし、俺が渡す側だったら。
体は正直で、わずかに強張る。
しずくは何も言わない。
ただ、手の温度だけを残す。
彼女の触れ方は優しいのに、優しさが逆に痛い。
確認しなければならない。
俺は目を逸らさず、距離を詰める。
ネットで見た写真、症例画像、
医学サイトの断片。
全部が頭に浮かぶ。
気持ち悪いと思いながら、研究した記憶。
現実の彼女は、どれとも違った。
ただの人間の体だった。
温かくて、呼吸していて、生きている。
俺は安堵する。
同時に、自分の浅ましさに吐き気がする。
しずくは何も知らない。
俺の頭の中の裁判も、犯人探しも、
診察台の屈辱も。
「疲れてる?」
彼女が聞く。
「少し」
それだけ答える。
嘘ではない。
治療は終わった。
だが、再発するかもしれない。
医師の声が残っている。
“可能性はあります”
可能性。
その言葉が、遊び方を変える。
振り切れない。
どこかで常に、ブレーキがかかる。
しずくは笑う。
何でも肯定する笑い方。
俺が何を言っても、受け止める。
だから余計に、言えない。
俺は彼女を疑った。
証拠もなく。
触れ合いながら、確認した。
人間として、最低の部類だ。
時間が過ぎる。
静かな部屋。
換気の音だけが遠い。
俺は一瞬だけ、ここに住めたらと思う。
何も疑わず、
何も調べず、
ただコーヒーの匂いだけで生きる生活。
だがそれは、俺の人生にはなかった分岐だ。
帰り際、しずくは本を閉じる。
「また来てください」
営業の言葉なのに、営業に聞こえない。
俺はうなずく。
犯人ではなかった。
なのに、胸の奥のざらつきは消えない。
疑いは、対象を失うと、世界全体に広がる。
静かな部屋を出たあとも、
その感触だけが手のひらに残っていた。




