第2話 空白の履歴
病名を告げられた夜、
俺は自分の身体が他人の所有物になった気がした。
痛みはほとんどない。
かゆみもない。
だが医師の声だけが残る。
尖形コンジローマ。
淡々とした発音だった。
何百回も繰り返してきた単語。
俺の身体はその日から
医学用語に変換された。
感染症。
つまり、俺は一人ではなかった。
身体の奥に、
誰かの履歴が刻まれている。
それが耐え難かった。
俺の世代は、
努力と報酬の対応関係が壊れた最初の層だ。
上の世代は神話を信じていた。
努力すれば報われる。
下の世代は別の神話を持っている。
努力しなくても逃げ道はある。
俺たちはその中間で、
神話が崩れる音を聞いた。
オイルショックの年に生まれ、
受験戦争を抜け、
就職氷河期に叩き落とされた。
大学は東京だった。
名前を言えば
誰も驚かない三流大学。
だが東京という街は
肩書きより金を要求する。
アルバイト代は
家賃と食費で消える。
やっと入った会社は薄給だった。
夢を語る同期はいた。
だが夢の話をするたび、
現実の天井が低く感じられた。
数年で帰郷した。
敗北ではないと
自分に言い聞かせながら。
地方の中小企業も薄給だった。
だが実家に住めば
金は残る。
いわゆる子供部屋おじさん。
社会の停滞の象徴。
だが俺にとっては
唯一の資本戦略だった。
給料だけでは足りない。
投資を始めた。
ITバブル期、
理由もわからず個別株を買った。
周囲が儲けているという噂だけで
ボタンを押した。
崩壊後、
口座の数字は静かに縮んだ。
次はFX。
日経225オプション。
レバレッジという概念を
身体で覚えた。
増えない。
減る速度だけが洗練される。
そこでようやく理解した。
俺は賢くない。
賢くない人間が
勝つ方法は別にある。
退屈に耐えることだ。
インデックス投資。
高配当株。
派手さのない戦略。
だが続けられる。
アベノミクスの波は
偶然の追い風だった。
五十一歳でFIRE。
資産七千万円。
自由の金額としては
中途半端だ。
世間は言う。
一億円ないと無理だ。
だが俺には家賃がない。
その代わり、
八〇五〇問題がある。
高齢の親と、
老いた子供。
俺はその子供側だ。
自由は
条件付きでしか存在しない。
結婚はしなかった。
容姿は普通。
性格も普通。
収入も地方では平均。
だが普通の条件を揃えても、
普通の結果は保証されない。
合コンに何度も参加した。
喋れなかった。
言葉が出る前に
会話が終わる。
メールは続かない。
数回会って終わる。
紹介、婚活パーティー、
同じ結末。
俺は婚活という競技に
適性がなかった。
女性の深いところで
拒絶されている感覚があった。
科学ではない。
だが本能という言葉は
便利だ。
この男の遺伝子は
いらない。
そう宣告されている気がした。
だから金を選んだ。
妻も子もない人生で、
せめて資産だけは残す。
金は裏切らない。
既読無視もしない。
風俗に通い始めたのは大学時代だ。
アルバイト代を握りしめ、
安い店舗型ヘルスに通った。
今ではほとんど消えた業態。
西川口流にもハマった。
ピンクサロンの顔をして
別のサービスを提供する場所。
倫理観はいつも後付けだった。
女を金で買う。
言葉にすれば醜い。
だが人類は
何千年も同じ行為を繰り返している。
なぜ飽きないのか。
なぜまた行くのか。
なぜ違う女を求めるのか。
答えは出ない。
出ないまま、
金だけが減る。
風俗業界は縮小している。
規制、摘発、炎上。
それでも消えない。
需要がある限り、
供給は形を変える。
市場は道徳より強い。
俺はその市場の
末端の利用者だ。
そして今、
履歴が病気として
身体に刻まれた。
会社を辞めた翌日、
電話は鳴らなかった。
メールも来ない。
世界は俺なしで回る。
想像していたのに、
衝撃だった。
人は忙しさを憎みながら
同時に依存している。
予定のない日は
自由ではなく空白になる。
俺はその空白に
女を詰め込んだ。
選ばれない人生でも、
金を払えば選べる。
この仕組みは救いで、
同時に罠だ。
罠の証拠が
今、身体にある。
病気は罰ではない。
だが意味を探してしまう。
意味がなければ
ただの事故だ。
事故では納得できない。
だから犯人を探す。
犯人がいれば
人生に因果が生まれる。
見つからなければ、
俺の半生は
全部偶然になる。
それだけは
耐えられない。
記憶を辿る。
顔は曖昧で、
声だけが残る。
アヤの声。
しずくの声。
まなつの声。
ちゃちゃの笑い声。
誰かが俺の中にいる。
問題は
誰かではない。
俺がそれを
知りたいと思ってしまったことだ。
知ろうとする瞬間、
物語が始まる。
そして一度始まった物語は、
最後まで
俺を離さない。




