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第12話 彼女たちの側

アヤ


鏡の前で、 口紅を引き直す。

何度やっても、 同じ線にならない。

手が少し震えている。

理由は分かっている。

昨日、 病院に行ったからだ。

「再発は珍しくありません」

医師はそう言った。

慰めなのか、 事務なのか、 区別がつかない声だった。

尖形コンジローマ。

治療は終わったはずなのに、 また小さな違和感がある。

身体は、 記憶よりもしつこい。

私は客の顔を思い出そうとする。

思い出せない。

男たちは似ている。

優しい声。 乱暴な手。 孤独な匂い。

全部が混ざる。

一人だけ、 静かな人がいた気がする。

でも名前は出てこない。

出勤時間が近づく。

私は立ち上がる。

働かないと、 家賃が払えない。

感傷は収入にならない。

ドアを開ける。

廊下の光が明るい。

世界は何も知らない顔をしている。

それでいい。

知らないままでいい。



しずく


昼の職場は静かだ。

コーヒーの匂いがする。

私はこの匂いが好きだ。

将来の店を想像できるから。

小さな喫茶店。

古い木の椅子。

レコード。

本棚。

誰も急がない場所。

夜の仕事は別の世界だ。

同じ身体なのに、 役割が違う。

私はその切り替えが上手い。

上手すぎる気もする。

検査結果は陰性だった。

安心した。

でも安心は長く続かない。

この仕事をしている限り、 確率は消えない。

いつか当たるかもしれない。

宝くじと同じだ。

違うのは、 誰も当たりたくないこと。

それでも働く。

夢には金がいる。

現実は夢より高い。

私は計算する。

感情を脇に置いて。

客の中に、 静かな人がいた。

話を聞いてくれる人。

否定しない人。

あの人は今、 どこで何をしているんだろう。

考えても意味はない。

客は通過する。

私は残る。



まなつ


笑うのは癖や。

考える前に笑う。

沈黙が嫌いやから。

検査は陰性。

「よっしゃ」と言った。

医師は笑わなかった。

当たり前や。

ここは笑う場所ちゃう。

私は分かってる。

運で生きてる。

努力でも実力でもない。

運や。

でもそれを認めたら、 怖くて動けへん。

だから笑う。

笑って押し切る。

客は人生を持ち込む。

愚痴。 自慢。 孤独。

私は全部受け取るふりをする。

本当は受け取ってない。

受け取ったら沈む。

私は浮いていたい。

あの静かな人。

たぶん、 私のこと覚えてない。

それでいい。

記憶は軽いほうが生きやすい。



ちゃちゃ


薬を飲む。

水で流し込む。

毎日同じ時間。

習慣になると、 絶望も作業になる。

HIV。

単語はもう怖くない。

怖いのは未来のほうだ。

誰に言うか。 言わないか。

恋愛はできるのか。

子供は。

結婚は。

私はまだ若い。

だから余計に遠い。

店は辞めていない。

辞めたら生活が止まる。

私は生きるほうを選ぶ。

それだけだ。

客に触れるとき、 少しだけ距離を感じる。

透明な膜があるみたいだ。

私と世界の間に。

誰も気づかない。

私だけが知っている。

静かな客がいた。

優しい人。

もしあの人に移していたら?

考える。

すぐ止める。

証明できない。

証明できない罪は、 抱えたまま生きるしかない。

私は鏡を見る。

私はまだ私だ。

それだけ確認する。



るな


検査には行った。

三日前。

結果は陰性だった。

紙を見た瞬間、 膝の力が抜けた。

笑いそうになった。

泣きそうにもなった。

どっちにもならなかった。

ただ息を吐いた。

長く。

なのに身体は軽くならない。

熱っぽい日が続く。

喉が痛い。

疲れが抜けない。

ネットで症状を調べる癖がつく。

調べるほど、 怖い病名が増える。

画面を閉じる。

また開く。

やめられない。

医者は言った。

「今のところ問題ありません」

今のところ。

その言葉が残る。

未来は保証しない言い方。

私は未来で働いている。

今日の陰性は、 明日の安全じゃない。

仕事は休めない。

家賃がある。

生活がある。

強いふりをするしかない。

私は得意だ。

強い人間に見せるのは。

客の前では笑う。

よく喋る。

質問に全部答える。

知的だと言われる。

本当は違う。

沈黙が怖いだけだ。

黙ると、 身体の違和感を考えてしまう。

だから喋る。

喋り続ける。

静かな客がいた。

怒った人。

謝った人。

不器用な人。

あの人の顔を思い出す。

思い出しても意味はない。

客は通過する。

私は残る。

この身体と一緒に。

夜。

薬局で栄養ドリンクを買う。

効く気がするだけで、 少し安心する。

気のせいでもいい。

安心は、 理由がなくても必要だ。

私は歩いて帰る。

身体は少し重い。

でも止まらない。

止まれない。

明日も出勤する。

それが現実だ。

それが私の生活だ。

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