第1話 声の方が先だった。
異変に最初に気づいたのは、
アヤだった――と、俺は思っている。
だが記憶は信用できない。
思い出は、あとから都合よく編集される。
声だけが残り、顔は消える。
順番は入れ替わる。
だからこれは、
事実ではなく記録だ。
C市の一室。
壁紙は薄いベージュで、
どの店とも区別がつかない色だった。
換気扇が低く回り続けている。
空気は循環しているはずなのに、
甘い匂いが層になって残っている。
他人の時間が、
完全には消えていない部屋。
アヤは黙って俺を洗っていた。
慣れている。
手つきに迷いがない。
優しさというより、
正確な作業だった。
指が、途中で止まる。
「これ、痛くないの?」
驚きはない。
業務上の確認に近い声。
彼女は俺の陰茎の中央より少し左を指す。
そこに、何かあるらしい。
俺は見なかった。
見た瞬間、
それは出来事になる。
名前が与えられる前の違和感は、
まだ取り消しがきく。
「最近、ちゃんと寝てる?」
そう言われた気がする。
だがその台詞は、
しずくの声でも再生できるし、
まなつの声にも似ている。
記憶は、
女たちの間を自由に移動する。
アヤはそのあと、
何事もなかったように続けた。
唇が触れる。
体温が移る。
柔らかい圧力。
快楽は、
違和感の上に重ねられる。
俺は途中で、
イボの存在を忘れていた。
忘れたこと自体を、
あとで後悔する。
翌々日、
体が先に答えを出した。
痒みと、
軽い痛み。
見た瞬間、
取り消しは不可能になった。
泌尿器科の待合室は混んでいた。
高齢者と、
視線を合わせない男たち。
誰も健康情報誌を読んでいない。
ページは開かれず、
ただ時間を受け止めている。
呼ばれて診察室に入る。
医師の声は平坦だった。
「尖形コンジローマですね」
病名だけが、
異様に鮮明だった。
ヒトパピローマウイルス。
性行為感染。
治療すれば治る。
再発はある。
言葉は理解できるのに、
意味が身体に入ってこない。
俺は五十歳だ。
オイルショックの年に生まれ、
受験戦争を抜け、
就職氷河期を滑り込んだ。
三流大学。
薄給。
結婚できなかった人生。
代わりに残ったのは金だ。
七千万円。
自由のはずだった。
仕事を辞め、
これから遊ぶつもりだった。
その最初に与えられたのが、
病名だった。
診察室で医師が言う。
「感染経路については――」
その言葉で、
世界が一本の線になる。
誰だ。
俺に感染させたのは、誰だ。
事故ではない。
誰かがいる。
そう思わなければ、
この出来事は
ただの運になる。
運では納得できない。
声がよみがえる。
アヤ。
しずく。
まなつ。
ちゃちゃ。
顔は曖昧なのに、
声だけがはっきりしている。
誰かが、
俺の中に残っている。
だが名前が結びつかない。
診察室を出ると、
待合室はさっきと同じだった。
誰も俺を見ていない。
それなのに、
俺だけが印をつけられた気がした。
病名は証拠になる。
声は証拠にならない。
それでも俺は、
声を追うしかなかった。
犯人を見つけなければ、
俺の時間は前に進まない。
だから俺は決めた。
もう一度、
全員に会う。
体で確かめる。
記憶ではなく、
接触で。
この病気の出所を、
俺の人生の出所を、
突き止めるまで。




