3話 正義
今週もようやく金曜日である。
社内には数名の営業メンバーが残っている。まだ19時20分だ。さすがにそうあってくれなければ困るというものである。
「仮苗さん、ちょっと立ち飲みにでも寄って帰りません?」
なにせ金曜に、事務仕事にも煩わされず退勤できそうなどという状況はずいぶん久しぶりなのだ。
「あ~、、、うん、いいよ。どうせ一人で飲みに行くつもりだったし。このまま横浜でちょっと飲もうか。」
さすが酒好きである。前回飲んでからちょくちょく誘っているのだが、一度も断られたことはない。もっと早く誘い始めればよかった。
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「壮太最近調子いいじゃない。よくやってるね。」
「ありがとうございます!いやでも全社的には厳しいですよね、、、」
お褒めにあずかった通り僕個人の成績は順調なのだが、昨今の人手不足で採用が追いついておらず、全社的な予算は割り込んでいる状況が続いている。
僕たちの従事する人材派遣業においては、採用が円滑であるか否かが要である。
「いやだから僕考えたんですけど、やっぱりもっとできるメンバーに伸ばしがいのある顧客を集中させるべきだと思うんですよ。そのほうが効率的に売り上げが伸ばせるじゃないですか?」
褒めてもらった後で気が大きくなったせいか、口にする言葉が少々過激になる。
「それだと現時点で優秀でないメンバーの成長の機会を奪うことになるし、結果的に発展途上のメンバーが脱落してしまうかもしれない。」
「いや、、、まぁそうかもしれないですけど。でもそれはしょうがないというか、、、」
褒めてくれた割に仮苗さんは話に乗ってきてくれない。
「壮太はトロッコ問題を知ってる?」
「トロッコ問題、、、?あの、、、2人を救うために1人を犠牲にするのかどうか、ってやつですか?」
「そう。元々はフィリパ・フットという人が論文の中で使用した思考実験で、日本ではマイケル・サンデルが【これからの正義の話をしよう】の中で紹介したことで広く知られるようになったと言われている。」
トロッコ問題についてなんでそんなに詳しいんですか、、、と口を開けたまま仮苗さんを見る。
「ええと、それで?今回の話とトロッコ問題とどう関係があるんですか?」
「発展途上のメンバーから成長の機会を奪うことで、目先の売り上げを達成しようとすることの是非。」
「はぁ、でもそれって犠牲にすべきは1人か2人かっていうトロッコ問題と条件が違いませんか?」
「トロッコ問題に限らず思考実験というものは、条件を簡略化することで大枠の思考をシンプルに行うためのものだ。そのままの定義や条件では現実問題には適用できないし、適用できないのでは思考実験の意味がない。少々のズレがあっても、思考実験に現実の条件をねじ込んでみることに意味がある。」
まぁそうか。いやそうなのか?話が難しい。
「う~ん、ちょっとよく、、、そもそもトロッコ問題自体なんとなくの印象で知っているだけなので。その本においてはトロッコ問題についてどのように書いてるんです?」
「トロッコ問題も元々は『正義』というものについての思考実験だ。【これからの正義の話をしよう】の中には正義について、大きく分けて3つのアプローチが紹介されている。
1つ目がジェレミー・ベンサムの功利主義、2つ目がイマヌエル・カントやジョン・ロールズらのリバタリアニズム、
3つ目がアリストテレスのコミュニタリアニズム。
あ、そういえばこの間共通テストの過去問をめくってたら、今の高校生ってロールズについての問題を解いてて。日本の教育も捨てたもんじゃないと思ったよ。」
なんで共通テストをめくってるんだこの人、、、。
「で、それらはトロッコ問題についてどんな結論を出すんです?」
「それぞれのアプローチは、トロッコ問題に一定の回答を出しうる。ただ作者はそれらについて否定、少なくともそろぞれ難点を指摘しているね。」
「、、、それで?」
今日は輪をかけて回りくどい。
「回答を言ってしまったら読まないだろう?読んでみてほしいな。」




