第94羽 明るいどこかへ
茶色い液体の入った器が、サイドテーブルに運ばれる。スプーンで慎重に中をかき混ぜると、医師はルーファスに目配せした。
『自分にやらせてほしい』
そう懇願するルーファスに、医師は躊躇った。氷結花は、医師免許を持つ者以外が、決して扱ってはならない毒物だからだ。
しかし、妻のために残酷な決断をしたこの青年の、ささやかな希望くらい叶えてやりたいと決意したのだ。
「苦味がありますので、できるだけ喉の奥へ流し込んでください。一匙、二匙……お飲みになれるだけで構いません。後は私が効き具合を確認して、最期まで苦しまれないよう管理させていただきます」
医師はそう言うと、患者の様子が見えるギリギリの位置まで離れた。
額に脂汗を浮かべ、全身で呼吸をするリンディは、苦しそうな表情の中で、時折うわごとを呟いている。
「リンディ」
呼び掛けると、空よりも海よりも澄んだ瞳が、ルーファスを見上げた。
「薬……飲ませてやるから。楽になるよ」
するとリンディは、ふにゃっとあどけない顔で笑う。
「お義兄……様……」
“ おにいさま ”
それはヨハネスでも親戚の兄とやらでもなく、自分のことなのだと、ルーファスはやっとわかった。
「おひ……ざ。お義兄様の……お膝……乗りたい」
「……いいよ」
ルーファスはベッドを揺らさぬよう静かに座ると、ヘッドボードに背を預け、足を伸ばす。リンディの身体を慎重に、少しずつ動かし、自分の太腿に小さな頭を乗せた。金髪が汗でぐしゃぐしゃに絡まる中、疲れた天使の輪だけが哀しく光っている。
ルーファスは小箱から金の指輪を出すと、リンディの左手の薬指に嵌める。絵筆を握る彼女の邪魔にならないようにと、デザインまで細かく指示して作らせた、特別な指輪だった。
(よく似合う……サイズもピッタリだ)
今となっては、適当に作らせた前の指輪なんか、詐欺師へくれてやって良かったのだと思う。
心を込めて贈った指輪の下で、ギラギラと主張するあの指輪。まるで自分を嘲笑っているようなその光を、なるべく見ないようにしながら、ルーファスは彼女の左手に、一本のルビー色のチューブを握らせた。
「誕生日プレゼントだ。どっちももう、手放すなよ」
わかっているのか、ふにゃふにゃと嬉しそうに笑う。
(苦しいくせに……そんな顔をされたら、決心が鈍るだろう)
サイドテーブルに手を伸ばし器を取ると、スプーンの柄を持つ。何度も掬おうと試みるが、手が震えてうまくいかない。
このままでは溢してしまいそうだと、一旦テーブルへ器を戻した。
ルーファスは深呼吸をし、リンディの耳へ囁く。
「リンディ……お薬だ。よく効くけど、少し苦い。だけど特別な魔法をかけたから、きっと甘く感じるよ。さあ、口を開けてごらん」
幼い子供をあやすような言葉が、自然と口から出てくる。まるでそれは、叫んで器を払い落としたくなる自分を、無に変える呪文のようでもあった。
苦痛に耐えるために何度も噛んだのだろう。リンディの痛々しい唇が、素直に開く。ルーファスはさっと器を取り、スプーンで目一杯掬うと、その隙間へ流し込んだ。こくりと喉が上下するが、顔をしかめたり嫌がる様子はない。
「上手だ、リンディ。もう一口……次はきっと、もっと甘くて美味しいよ」
さらに強い呪文を唱えると、彼女はさっきよりも大きく口を開く。もう一匙、たっぷりと流し込み、喉の動きを見届けると、ルーファスは今度こそ器を手放した。
力が抜け、絵の具のチューブを落としそうになる手を、ルーファスは自分の手でしっかりと包み込み、ただその瞬間を見守る。
「おに……さま……ねむい……」
「薬が効いてきたんだよ。頑張ってたくさん飲んだから。……偉いな、リンディは」
「お、う……おう……た……うたって。ちょっ……と……さみしい……」
「……いいよ」
さっきからずっと、もう一人の自分が、勝手にルーファスを動かしていた。
だが、不思議と違和感はない。どちらも自分なのだと、自然に受け入れていた。
すうっと息を吸い込んだ口が、知らない歌を歌い出す。
“ カーラス、カラスさんーまっくろねー
だけどおめめはまっかっかー何を食べたらそうなるのー ”
変な歌詞に変なメロディー。
けれど、とてつもなく懐かしい。
“ カーラス、カラスさんーまっくろねー
だけどおふろは入ったのーせっけんつけても黒いままー ”
(本当に変だな。
変は楽しい、変は可愛い、変は…………愛しい)
自分を見上げる青い瞳は、どこまでも透明で……もう多分、何も映していないのだろうとルーファスは思う。
(寝てしまったのか?)
そう思った時……
リンディの唇が微かに開き、何かを喋りたがっているのに気付いた。慌てて耳を寄せれば、ほろ苦い吐息に混ざり、四文字の言葉が聞こえる。
それきり、彼女は瞼を閉じ、深い眠りの世界へ入ってしまった。
医師はリンディの様子を確認すると、静かに礼をし、ほとんど空になった器を手に、部屋を出て行った。
さっきまでの苦し気な表情が嘘のように、リンディは気持ち良さそうに眠っている。
華奢な身体を膝に引き上げ、思い切り抱き締めても、もう痛がる様子はない。
(やっぱり……もう少し我慢させれば良かっただろうか。もしかしたら、奇跡が起きて治ったかもしれないのに。彼女の意思も訊かず、勝手なことをしてしまった。
もう二度と、あの高い声は聞けない。
もう二度と、あの間抜けな笑顔は見られない。
もう二度と、あのうさぎは食べられない。
苦しい……堪らなく苦しい……
どうかあの闇へ。
何も、誰もいない、あの闇へ連れていってくれ──)
暗い……真っ暗だ。
周りも、上も下も、どこを向いても暗闇ばかり。
心を無に包んでくれる、冷たくて心地よい世界のはずなのに。
……ああ、どうせお前だろ?
そのままそうして背を向けていてくれ。
今は “ 無 ” でありたい。
願いも虚しく、男はまた、肩を小刻みに震わせながら座り込む。
やめろ……何も見たくない、考えたくない。
自分の意思とは反対に、勝手に足が動き、男へと近付く。
やめろ……やめろ……!
目を背けたいのに、そうさせてくれない。このままだと、一体誰をあの腕に抱いているのかが見えてしまう。
やめろ……やめろ……やめろ!!
──男の腕に抱かれていたのは、瞼を閉じ眠るリンディだった。
心臓には一本の矢。そのすぐ下には、ナイフが刺さっている。
男は、うっと嗚咽を漏らしながら、縋るようにこちらを見上げる。
その情けないルビー色の瞳を見た瞬間──
記憶の波が押し寄せ、全てを取り戻した。
そうか……
お前は、一度目の人生の……リンディの『義兄』だった時の俺だったのか。
ずっとこうして闇の中で、正しい道を示してくれていたんだな。
もう一人の自分に手を伸ばし、その肩に触れると、目映い光に包まれ一体となった。視線を落とせば、自分の腕の中で、リンディが昏々と眠っている。
闇に居れば、永遠に君を抱いていられるだろうか。
『義妹』だった君も、『妻』だった君も、永遠に……
ところが無情にも、残酷な何かに意識を掴まれ、無理やり現実へ引き戻されてしまった。
目を開ければ、月明かりとランプが照らす、薄暗いベッドの上だった。
現実でも、昏々と眠るリンディを腕に抱いている。闇と違うのは、彼女の胸に、矢とナイフが刺さっていないことだけだ。
彼女の左手に唇を寄せれば、指輪の固い感触とともに、あの説明書の文言が甦る。
(……君は、あの湖で願ってくれたんだな。5歳の時に戻りたいと。きっと再婚を回避して、普通の男女として出逢うために。
僕だけずっと忘れていて、ごめんね。
もう一度戻れたらいいのに……そうしたら、一度目よりも二度目よりも、もっと君を幸せにするのに。
こんなふうに、君を失いたくなかった。たとえ十九年間という短い寿命は変わらなくても、たくさん愛を伝えて、もっと、もっと……
……もう一度?)
『それぞれ一度だけ、相手への想いで石を潤した時にのみ、願った時に戻ることができる──』
(そうだ……まだ自分は願っていない。もう一度、願えるじゃないか。だが、想いで石を潤すとは? リンディは一度目のあの時、どうやって石を潤した?
……もしかして……)
ルーファスは、滲む視界を左手でぐいと拭う。涙に濡れた指輪の砂は、リンディの弱々しい呼吸と呼応し、儚くも眩しい点滅を繰り返している。
「どうか、どうか時を戻して……」
願いかけて、ルーファスはハッとする。
(一体いつに戻る? 一度目か二度目か、どちらの人生の、どの時に戻るのが最善だ? もし選択を間違えたら……)
震える左手を胸に当て問いかける。
(きっとこの願いが最後になるだろう。大切な大切な、最後の願いだ。ならば、自分が一番戻りたいと望む場所は……)
「リンディが一番幸せになれる時に戻して欲しい」
ルーファスの指輪から、カッと閃光が放たれる。昏い闇を切り裂き、二人を明るいどこかへ導こうとしていた。
──ハラリ。それは、最期の一粒が落ちるのと、ほぼ同時だった。
◇◇◇
ゴーン……ゴーン……
(──鐘の音? 厳かで、腹にまでじんと響くような……。
そうだ、これは神殿の鐘だ。つい数ヵ月前に、自分の結婚式で聞いたじゃないか。
結婚…………式?)
霧のかかったルーファスの視界が徐々に晴れていく。現れたそこは、セドラー家の見慣れた庭園だった。
「……お義兄様?」
甲高い子供の声に隣を向けば、白いワンピースを着た、小さなリンディが自分を見上げていた。
「……リンディ?」
自分から発せられる声も幼い。
温かな感触に手を見れば、小さな自分の右手と、もっと小さなふくふくの左手が繋がっている。その細く短い薬指には、あの砂の指輪が、玩具みたいに輝いていた。
(戻った……のか? 一体ここは、どちらの人生の、どの時だ?)
ルーファスは混乱するが、子ども用の黒い礼服を身に着けている自分にハッとする。
(そうか。これは、両親の結婚式だ。一度目の人生……確かリンディが6歳、自分が8歳の時の。ではなぜ、この場所に?)
「お義兄様、小さくて可愛いわ!」
(……小さくて?)
まさかと息を呑むルーファスをよそに、リンディは興奮しながら喋り続ける。
「お腹も痛くないし、熱くないし、寒くない! 幸せ! 何でもない普通の時って、すっごく幸せ! ほんとにヨハン兄様の言う通りだわ!」
リンディは繋いでいた手をスルリと離し、ワンピースをふわふわ膨らませながら、辺りをスキップする。
(間違いない……彼女は、覚えている。どういうことだ。願った者にしか、記憶が残らないんじゃないのか?)
リンディはピタッと止まると、ルーファスを見て首を傾げる。
「ここは天国かしら。 ねえ、小さなお義兄様、私死んじゃったのよね? でも、何でお義兄様も一緒にいるの? お義兄様は死んでないわよね? 私、お義兄様には長生きして、幸せになってもらいたいのに。それとも、あなたは、お義兄様の姿をした天使なの?」
青い瞳が、陽の光を湛えてキラキラ輝く。
(ああ……本当に綺麗だな)
小さなカラスは、もっと小さな白鳥を捕まえ、思い切り抱き締める。
その瞬間、一度目の人生のこの場所で、リンディと交わした会話が鮮やかに甦った。
『そうだ……僕たちは今日から兄妹になるんだね』
『きょうだい?』
『年齢的に、僕がお兄さんで君が妹。君の呼び方は……リンディのままでいいか』
『うん! リンディはリンディのままだよ』
(あの時感じた、もやもやするような、ぎゅっとするような……そして怖いような気持ちは、僕に何かを教えてくれていたんだ。
リンディが一番幸せになれる時へと願い、指輪に導かれたこの場所。
両親が結婚して、二人が義兄妹になろうとしていたこの場所で、僕たちがするべきことは……きっと……)
「リンディ、行こう!」
ルーファスは小さな手を取ると、屋敷へ向かい一目散に駆け出した。
眩しい陽が照らす二つの指輪の砂は、どちらも同じ量で輝いていることに、まだ二人とも気が付いていなかった。




