第93羽 カラスの愛を望まない
駆けつけた医師は、リンディの胸元に耳を当てると、厳しい顔で言った。
「感染症を起こしていらっしゃいます。心臓の音が弱っておりますので、積極的な治療はできません」
「……どういう意味だ?」
頭では理解しながらも、ルーファスは問う。
「先程も申し上げました通り……生と死を動かす行為は、神に背く医術の禁忌です。私が現時点でできることは、奥様の苦痛を和らげる処置のみです」
ルーファスは震える手で、医師の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるな……! まだ生きているのに、見捨てるのか!」
「申し訳ありません……禁忌なのです。神を欺くことはできません」
「欺けばいい。必要なら悪魔とだって契約してやる」
狂気を孕んだルーファスの表情に、医師は怯える。
「そのようなことは……!」
「責任なら俺が取る。治せっ……治せ!!」
「できません!!」
回復魔力を持つ医師にとって、生と死は神聖な領域であり、禁忌を犯すことは何より恐ろしい。医師免許の剥奪はもちろん、最悪、悪魔に取り込まれ、魔力を悪用される場合もあるからだ。
「うう……」
苦しそうに唸るリンディを見れば、傷が痛むのか、腹の辺りに手を彷徨わせている。
その姿に、ルーファスはふと我に返り、医師を解放した。ベッドの横にふらりと跪き、祈るように熱い手を握る。
医師はボタンの取れたしわくちゃのシャツを整えると、まだ若い公爵へ向かい冷静に言った。
「このままですと奥様は、苦痛でお休みになることもできないと思われます。少しでも楽になられるように、ヒーリングの魔術を施させていただきます」
力なく頷くルーファスに、医師は安堵する。手をかざすと、やりきれない想いを魔力に込め、苦しむ身体へと最大限に送った。
リンディの顔が穏やかになり、すやすやと寝息を立て始めた頃、空はもう白み始めていた。
( 鐘の音が聞こえる……もうお昼かな……。
熱い……痛い……熱い……でも身体の芯は寒い……)
複雑な苦痛に瞼を開くと、大好きなルビー色が見えた。
「……リンディ」
(また名前を呼んでくれた……嬉しくて、顔がニヤけちゃう。
もしかして、手もずっと繋いでくれていたのかな? さっきは温かくて気持ち良かったけど、今は冷たくて気持ちいいな)
「苦しいか? 水を飲むか?」
「ん……」
喉の奥で何とか返事をすると、ルーファスはリンディの手を離し、ピッチャーからグラスへと水を注ぐ。
(あ……離れちゃった……だったらお水なんていらなかったな。ずっと手を繋いでいてほしかった)
ルーファスは汗ばんだリンディの背に腕を差し込み、少しだけ身体を起こさせる。腹に力を入れたせいで、痛みに「うう」と呻いてしまった。
すると、ルーファスが持つグラスが震え、ネグリジェへ水がポタポタ垂れる。
(ああ、どうしよう……ルーファスが泣きそうだわ)
『大丈夫! 私は大丈夫! きっと見た目は痛そうだけど、きっと見た目より全然痛くないの!』
元気にそう言いたいのに、思うように声が出ない。
(お義兄様も旦那様も、やっぱりどっちも優しい。
一度目も二度目も、こんなに心配させてしまうなんて)
乾いた唇に、ルーファスがグラスを近付ける。だが、上手く飲み込むことができず、口の端から水が溢れていく。
その様子を見つめるルビー色の目尻からも、とうとう涙が溢れてしまった。
(ごめんなさい……ちゃんと飲めなくてごめんなさい……でも、大丈夫よ。舌の上にちゃんと残っているから。これをゆっくり飲むから大丈夫)
もっとちょうだいという風に、唇を動かしてみる。ルーファスは頷き、涙を流しながら、スプーンでリンディの口の中へ水を流し続けた。
喉が潤うと、今度は腹の痛みが増してきた。
(あっちもこっちも……身体って、なんてワガママなんだろう)
プリシラが交換した清潔な枕に頭を寝かせると、ルーファスは再びリンディの手を握る。
「待ってろ。またヒーリングの魔術で楽にしてやるから」
「寝ちゃう……?」
「ああ。よく眠れる」
「……や」
ゆっくり頭を振ってみる。くらくらするが、それでももう一度しっかり振った。
「いや……寝たく……ない」
「リンディ」
「寝たら……もう……起きれな……」
「リンディ!!」
ルーファスは、せっかく落ち着いていた涙をまた溢れさせる。
(こんなに哀しそうな顔をさせてしまうなら、何も言わないで大人しく寝た方が良かったかな。でも、いやなんだもの。このまま二度と起きられなかったら、いやなんだもの。
それなら、痛くても熱くても寒くても、全部我慢する。我慢……できるかな……)
「そうだ…………おい!」
何かを思いついたルーファスは、手を繋いだままプリシラの方へ向く。
「ブロッコリーを持って来い」
「ブロッ……コリーですか? あの、緑色の野菜の?」
「そうだ、他に何がある。キッチンにあるありったけを、茹でて持って来い。早く」
「……はい」
プリシラは、急いで部屋を出ていく。
(ブロッコリー……どうして……ブロッコリー?)
痛みと悪寒に耐えるのに必死で、リンディは深く考えることができない。しばらくすると、プリシラがクローシュを被せた大皿を持って戻って来た。
サイドテーブルに置かれると、ルーファスはすぐにブロッコリーをフォークで刺し、リンディの口元へ運ぶ。
訳がわからず固まっていると、彼はフォークを皿に投げ捨て、素手でブロッコリーをつまむ。それを小さく裂き、再びリンディの口へ運んだ。
「……好きだろ? 食べろ」
(ルーファス……違う。旦那様が……あの旦那様が、ブロッコリーを触っている。見るのですら、あんなに怖がっていたブロッコリーを……)
『愛しいとはどんな気持ちだ?』
『優しい気持ちになります。元々持っていた優しさよりも、もっともっと』
『よくわからない』
『うーん……本当は大嫌いなのに、好きだと思えたり』
『もっとわからない』
『例えば……ブロッコリーを触ったり、料理できるようになったり』
(まさか、旦那様は……
私のことを、愛してしまったの?
私の左手の指輪には、たっぷりと輝く砂。
彼の左手の指輪には、今にも消えそうな一粒。
どっちが愛しいかなんて……もう……。
彼には長生きしてほしい。美味しい物をたくさん食べて、綺麗な物をたくさん見て、楽しいことをたくさん経験してほしい。……いつか出逢う大切な人と、たくさんたくさん笑ってほしい。
だから、その輝きを、一粒も無駄にしてほしくない。私のために……無駄にしてほしくない)
少し開いた唇の隙間に、ルーファスが指でブロッコリーを入れる。もう噛む力などなかったが、柔らかく茹でてくれたのか、舌で転がしているうちに簡単に潰れた。
大好きなもしゃもしゃは全くない。けれど、リンディが今まで食べた中で、一番美味しくてしょっぱいブロッコリーだった。
「泣くほど美味しいか? まだたくさんあるぞ」
彼も泣きながら、嬉しそうに皿からお代わりをつまむ。くたくたの緑が、ちょんと唇に当てられるも、リンディは口を固く結んで首を振った。
「もっと食べろ。食べれば良くなるから」
もう一度首を振ると、彼は鼻を啜りながら、声を震わせる。
「食べろ……頼むから食べてくれ……」
(ダメ……愛したら…………ダメ!)
リンディは残った力を全部左手に込め、ブロッコリーを持つ彼の手を思い切り叩く。愛情のかけらみたいな緑のつぶつぶが、布団に飛び散った。
そして、残った声を、全部振り絞る。
「きら……い」
彼は叩かれた手をそのままに、目を瞠る。
「きらい……旦那様なん……て……大嫌い。冷たい……し、意地悪だし……乱……暴だし……顔も……怖い。最初……から……ずっと、嫌い。この世で……一番……大……嫌い……」
ルビー色の瞳から、ポロッと大粒の涙が零れた。
「出て……行って。最期くら……い……一人に……なりたい」
『瞳を見れば、その人間の本質がわかるよ。上辺だけでなく、奥を見れば。……いいか、ルーファス、恐れずに真っすぐ奥を見るんだ』
恐れずに、真っすぐ見つめた青い瞳の奥。
そこには、彼女の本当の想いが、涙と共に揺れていた。
ルーファスは、涙をシャツの袖で拭い、ふっと意地悪く笑う。
「俺のことが嫌いなら、尚更一人になんかさせてやるか。ずっと手を繋いで、離さないでいてやるよ。楽になんかさせない。一生傍で苦しめてやる」
今度は青い瞳が瞠られる。
「やめ……て……」
さっきの獣並みの力はどこへやら、弱々しくも逃げようとするリンディの左手を、ルーファスはしっかりと掴んだ。
「逃がすものか……お前は、俺のものだ」
両手で華奢な左手を包み、手首から爪の先まで、余すところなく唇を落としていく。そのたびに彼女が流す澄んだ涙から、彼を好きだと……愛していると、そう伝わってきた。
(では、俺はどうなのだろう。好きだとか、愛しているとか、幸せとか……。この期に及んでも、難しくてよくわからない。
彼女を失う。今はただ、それだけが、怖い)
ルーファス本人はまだ解けない、単純で確かな愛に、リンディは弱った心身を委ねていた。
──それからどれくらい経っただろうか。
炎のような左手が、ルーファスの手の中で痙攣し始めた。
「リンディ?」
あんなに寝たくないと言っていた彼女が、力なく目を閉じる姿に、戦慄が走った。
「……奥様にはもう、魔術に耐えられるだけの体力は残っていらっしゃいません。これほどの苦痛を和らげるには、相当強い魔力を送る必要がありますが……今の弱りきったお身体では、却って苦痛が増してしまわれるでしょう」
沈痛な面持ちで話す医師に、ルーファスはもう掴みかかることもなく、冷静に問う。
「他に……他にないのか? こんな苦しそうな姿、見ていられない」
「……氷結花を使われますか?」
「氷結 “ 草 ” ではないのか?」
「はい」
医師はルーファスを見据えながら、重い声で説明を始めた。
“ 氷結花 ”
それは、あのルビー色の絵の具の原料である、ヘイル国の氷結草が成長したものだ。
氷結草は麻酔薬として使用される薬草で、量によっては人を死に至らしめる。
一方氷結花は、氷結草よりも麻酔薬としての効能が高い。数時間から数日、人を仮死状態に陥らせることができる上に、氷結草と違って多量摂取しても命を落とすことがない。……その代わり、非常に副作用が強く、毒素が永久に身体に留まるという。
「……毒素?」
「摂取した量にもよりますが……全身が火傷したように熱く、また、刃物で切り裂かれるように痛むと言われています。ですので、一度氷結花を服用したら最後、痛みから逃れるために、一生服用し眠り続けなければなりません」
言い換えれば、二度と “ 起きてはいけない ” 猛毒の薬草だ。
氷結花を使う意味を悟ったルーファスは、その先を聞きたくないと、耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
「患者様の最期の苦痛を和らげるために使用する薬草なのです。深い傷を負った方や、末期の癌を患った方が、苦しまず安らかにお休みになれるように」
(苦しまず、安らかに…………)
「どうしますか? お使いになられますか?」




