第92羽 あなたを守るために
いつもと違う様子に、ルーファスは躊躇う。
自分の腕に凄まじい力でしがみつく彼女を剥がし、震える両手と、自分の両手を繋いで向き合った。
(夫婦らしく、もっと密着してやろうとしたのに。なぜ子どもみたいに手を繋ぎたがるのだろう)
「これでいいか?」と問えば、リンディは繋いだ手を見てこくりと頷く。その姿は、いつにも増してあどけない。こんな妻を、明日自分のものにするのだと思うと、ルーファスは妙な背徳感すら覚える。
「月を見るんじゃなかったのか?」
手を見つめ続けるばかりで、空になど目もくれぬ彼女に、ルーファスは問う。
リンディはその問いには答えず、逆に小さな声で尋ねた。
「旦那様……あのね、旦那様のこと…………ファスって。ルーファスって呼んでもいい?」
──ルーファス。
妻が口にした名は、慣れ親しんだ音とは違い、特別な響きでルーファスの胸に広がっていく。
(初めて呼ばれたからか? では、二度目はどうなのだろう? 試しにもう一度……呼んでみてほしい)
ルーファスは緩んだ表情を誤魔化すように、軽く咳払いをする。
「夫を呼び捨てにするとは感心しないな。だが……二人きりの時なら、特別に許可してやる」
「……いいの?」
「ああ、特別だ。気が変わるかもしれないから、呼ぶならさっさと呼べ」
ふにゃりと崩れた彼女の顔は、今にも泣き出しそうで。小さな薔薇色の唇が、嬉しそうに開く。
「ルーファス……ルーファス、ルーファス……」
(やはり、何度呼ばれても特別な響きだ。熱くて、甘くて、楽で……苦しい)
もっと呼んでほしい、複雑な自分の胸と向き合いたいと思うのに、彼女は満足したのか、それきり口をつぐんでしまう。
「……もういいのか?」
「うん。二度目は呼べた……ちゃんと呼べたから」
「二度目?」
「ありがとう。ルーファス」
青い瞳は、月明かりや街灯の光を集め、キラキラと輝いている。涙の糸が幾筋も頬を流れ、彼女の笑顔を眩しく浮かび上がらせた。
(やっぱり…………楽だ)
ルーファスの胸は、苦しさの向こうで、確かに喜んでいた。
両手を繋ぎ合ったまま、ルーファスは背を屈め、リンディの唇へ向かう。
互いの胸の間には、繋いだ拳一つ分。
強く抱き締めて……口内も身体も、隙間なく溶けてしまいたいのに、この距離が邪魔をする。それでも彼女の手を離したくないと、唇の表面だけを優しく味わった。
夫婦なのに、ままごとみたいなキスだなと、ルーファスは可笑しくなる。
(そういえば、俺もコイツを名前で呼んだことがなかったな。アイツ、コイツ、お前、猛獣……ああ、ブロッコリー女だった時もあったな)
出逢いから今までのページがパラパラと捲れ、最後に何の色も背景もない、一人の女性が現れた。
“ リンディ”
そう呼ぼうとした瞬間、また複雑な感情がずくんと胸に疼く。
(明日、ベッドの中で名前を呼んでやろう。そうしたら、どんな反応を見せるのだろうか。自分が感じたように、彼女の耳にも特別に響くのか? 響いてくれたら……嬉しい)
リンディは自分の右手を上げ、繋がっているルーファスの左手を確認する。薬指の弱い光を見て頷くと、スッと離し、まだ繋がれたままの片手を強く引っ張った。
「……おい!」
急に歩き出すリンディに、ルーファスは驚き呼び掛ける。
「もう月はいいのか?」
返事はない。
手を引かれるままに、華奢な背中の後をさくさく追う。角へ差し掛かったその時──
闇よりも昏い影が、二人の横から飛び出した。
たった数秒の出来事が、リンディの目には、まるでスローモーションに見えた。
光る物が、影からルーファスの脇腹めがけて突き出される。それが刃物だと気付くや否や、繋いでいた手を振りほどき、彼の前へと滑り込んだ。
一度目の人生で、心臓に矢が刺さった時の痛みが甦る。ならば……と、リンディは咄嗟に背伸びをし、心臓よりやや下の位置で、その衝撃を受け止めた。
(あれ……やっぱり痛いな。心臓じゃなくても、すごく痛い……)
立っていられず、煉瓦の地面に激突しそうになる寸前で、温かなものに受け止められた。
腕の中で横たわる妻。
そのクリーム色のブラウスに、じわりと血が滲んでいくのを見て、ルーファスは呆然とする。
(……一体、何が起こったのだろう)
「はっ……はははっ……いい気味だ! 死ね! 死にやがれ!」
狂ったように叫ぶ影を、目の前で護衛が取り押さえている。
(この影……どこかで見たことが……。ああ、ローリー・ヘイズに似ているな……)
「リンディ!」
ヨハネスの叫び声に、再び腕を見下ろせば、リンディの瞳は焦点が合わず、顔は青白くなっていく。
ヨハネスは、ナイフが刺さったままのリンディの腹に手をかざし、魔力を送る。すると血が止まったのか、ブラウスの赤い染みが落ち着いてきた。
「応急処置です。自分の魔力ではこのくらいしか……早く医師に!」
(そうだ……。何が起こったかはわからないが、彼女の腹にナイフが刺さって、血が出ている。早く医師に診せないと)
そう焦れば焦るほど、足にも腕にも力が入らない。
まるで、神経が遮断されてしまったように。
(動け……動け…………動け!)
ルーファスは必死に身体に命じ、彼女を抱いたままふらりと立ち上がる。
(……何と重いのだろう。前に浜辺で抱いた時は、羽のように軽かったのに。今はこんなに……彼女の命は、こんなに重い)
馬車に乗り込んだ後は、自分に代わり、ヨハネスがもう一人の護衛や御者にテキパキと指示を出す。
屋敷へ向かい、やっと車輪が回り始めるまでの時間が、何と長く感じたことか……
揺れる馬車の中、冷たい彼女の頬に手を当てれば、微かにすり寄せてくる。
「…………ンディ」
初めてその名を呼べば、白い唇が嬉しそうに微笑んだ。
(嬉しいな……ルーファスが、私の名前を呼んでくれている。一緒に家へ帰れる。これでお腹が痛くなければ、最高なのに。
おかしいな。死ぬのは明日のはずなのに、何でこんなに痛いんだろう。
でも、何となくわかった気がする。私がこの世に生を受けた意味が。たったの19歳で幕を閉じる意味が。
一度目も、二度目も──
きっと、ルーファスを守るためだったんだ)
屋敷に着き、ベッドに寝かされたリンディは、何とか浅い呼吸を繰り返す。
(痛いけど、一度目と違って呼吸はできるし、眩暈はするけど、意識もはっきりしている。あの時、咄嗟に背伸びして正解だったかも。
寒くてゾクゾクするのに、手はずっと温かい。……あっ、そっかあ。ルーファスが繋いでくれているからだ。嬉しい……家に着いても、ずっと離れなくていいなんて。でも……)
「うさ……ぎ……」
え? と、ルーファスはリンディの口元に耳を寄せる。
「うさぎ……つくれな……て……ごめ……ね」
ルーファスは寄せた耳をそのままに、カタカタと震え出す。頬に当たる黒髪がくすぐったくて、まるでカラスの羽みたいだわと、リンディはぼんやり思っていた。
(ルーファス、怒ってる? それとも寒いのかな。私みたいに怪我してなければいいけど……大丈夫かな……)
考えているうちに眠くなり、瞼を閉じてしまった。
それからしばらくして、リンディは腹に激痛を感じ目を覚ました。清涼感に似た不思議な感覚に包まれた後で、何とか我慢できる程度の鈍い痛みに変わっていく。
ナイフを抜いてくれたのだとわかり、安心した途端にまた眠くなる。再び瞼を閉じるが、意識は手放せず、朦朧としながらも話し声に耳を傾けていた。
「……急所は外れていますが、内臓は損傷しています。回復魔力で止血と最低限の処置は行いましたが、完全に治療することはできません」
「どういうことだ」
「生と死を動かす行為は、神に背く医術の禁忌です。このような、死に直結する重い外傷の場合は、最低限の処置しか行ってはならないのです」
「神とかそんなのどうでもいい! こいつの命は夫である俺のものだ! 治せ……必ず助けろ!」
「ご容赦ください……後は奥様の生命力にかけるしかないのです。また、万一助かったとしても、何らかの後遺症が残る可能性が高いことを、覚悟なさってください」
(やっぱり……神様の意思には逆らえないのだわ。
一度目は心臓に矢が刺さって、ほぼ即死。
二度目は心臓は外れたけれど、じわじわと命が削れていく。
どちらにしても予定どおり、明日の夜に、私は死んでしまうのね。
この痛みは、一度目の人生で受けた拷問の分かな。こんなところまで同じにしてくれなくていいのに。
でも、やっぱり神様は優しい。柔らかいベッドの上で、傍にはルーファスがいてくれるんだもの。二度目の方が、ずっと幸せ)
少しだけ瞼を開ければ、今にも雨が降りそうな曇ったルビー色が、リンディをじっと見下ろしていた。
──家令からの連絡によると、最後通告のため向かったローリー・ヘイズの家は、悲惨な状態だったと言う。
ベッドには年老いた父親の遺体。そして納屋からは、足枷で柱に繋がれた男性の死体が発見された。負傷しながらも命からがら逃げ出した彼の妻の話によれば、思い詰めた夫が、刃物で家族を刺し、無理心中を図ったとのことだった。
ともに働き何とか生計を立ててきた父親は、数年前から痴呆症を患い、目が離せない状態に。
納屋の遺体はローリー・ヘイズの実兄で、生まれつき心身が不自由だったため、親が繋いで閉じ込め、世間からその存在を隠していた。
そして妻は、そんな義兄の世話と義父の介護疲れで酷い鬱状態になってしまったという。
ヘイズ一家は、昔、貧しさのあまり呪術に手を出したことがあり、未だに近所から村八分にされていた。兄が生まれつき『普通』でないのも、家族が次々に病に罹るのも、呪術を使ったせいだと……。そう言われるのを恐れて、誰にも相談できずにいたらしい。
家族の不運と歪みが、全てローリー・ヘイズ一人の肩にのし掛かっていたのだ。
『前の公爵様は待ってくださいましたのに、あなた様はなんと非情なことを』
(父は正しかった……。詳しい事情は知らなくとも、彼が抱えている闇を感じていたのだ。愚かな自分が執拗に責めたばかりに、彼の闇を狂気に変え、リンディをこんな目に遭わせてしまった)
ルーファスは激しく後悔し、己を責めた。
医師の処置を受けた後、リンディは少し瞼を開けただけで、ずっと眠り続けていた。
ルーファスは、血の気のない顔に何度も手をかざしては、呼吸をしていることを確認する。
途方もなく長い一日。ふと時計を見れば、既に日付が変わってから、大分経っていることに気付いた。
(19歳か……)
冷たい手に額を寄せ、唇を当て、祈り続けているうちに、徐々に温かくなってきたことに気付く。
このまま快方に向かうかと期待したのも束の間、それは燃えるような熱さに変わっていった。
……熱?
次第に呼吸も荒くなり、胸が苦しそうに上下する。
「医師……医師を!!」




