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時を戻した白鳥は、カラスの愛を望まない  作者: 木山花名美


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第91羽 天使の願い

 

 ざわめく作業室。

 震えるロッテの手からは筆が滑り落ち、床でカラリと音を立てる。隣を見れば、リンディが何かを待ち構えるように、作業室のドアをじっと見つめていた。


 しばらくしても、ざわざわと騒がしいばかりで、一度目の人生のように兵がなだれ込んで来る気配はない。確認のため、ジョセフ絵師長が一度出入りしただけだ。

 早帰りの許可が下りた途端、仕事どころではなくなっていた絵師たちは、さっさと帰り支度を始める。


「リンディ……リンディ、今日はもう帰ってもいいんですって」


 揺すっても反応がない。ベルを鳴らすと、リンディはやっとロッテの方へ振り向いた。


「帰っても……いい? 私も?」

「ええ。定時には少し早いけど、みんな帰っていいって。どうせこんなじゃ仕事にならないしね。明日も休みですって」


 リンディはロッテに続いて立ち上がろうとするが、急に全身が震え出し、床に崩れ落ちた。


「リンディ! 大丈夫? あなた、顔が真っ青よ」


 大丈夫です。そう答えたいのに、口からひゅうと息が抜けるばかりで、言葉が出てこない。


「ちょっと待っててね、今、護衛さん呼んでくるから!」


 作業室の前で待機していたヨハネスは、ロッテに呼ばれ、慌ててリンディの元へ駆け寄る。


「奥様、大丈夫ですか!?」


 何とかこくりと頷き、差し出された手に掴まろうとするが、やはり力が入らない。震え続ける身体を、ヨハネスは迷わず横抱きにし、ロッテの案内で職員の休憩室へと向かった。



 王宮内は騒然としているが、ここは誰もおらず静かだった。

 ロッテは自分の鞄からブランケットを取り出し、ソファに寝かせたリンディへ掛けると、「ちょっと待っててね」と休憩室の奥へ入って行った。

 やがて、湯気の立ったトレーを手に出て来る。


「ホットミルクよ。蜂蜜を一匙入れたから、甘くて美味しいと思うわ。飲める?」


 ヨハネスに支えられながら、リンディは上半身を起こす。スプーンで少しずつ喉に流し込んでいくうちに、青ざめていた唇が、徐々に薔薇色に戻ってきた。


「……うん、大丈夫そうね。後は自分で飲める?」

「はい」


 ほかほかと暖まった喉からは、声も出るようになっていた。リンディはカップを両手で持ち、優しい甘さをゆっくり味わう。

 その様子にロッテはホッとしつつも、彼女の胸中を推し量っていた。


(王様とは、セドラー元宰相を通して親しくしていたみたいだし、きっとショックが大きかったのね。感受性の強いだから余計に)


「ここで少し休んでいくといいわ。旦那様はまだ忙しいでしょうし、私も一緒にいるから」


 ロッテの申し出は、意外にも、キッパリとした口調で断られた。


「いえ、大丈夫です。何時になるかわからないので、ロッテさんはお家に帰って休んでください」

「……そう? 大丈夫?」

「はい。ヨハネスが傍に付いていてくれるので」

「わかったわ。じゃあ先に帰るけど……ゆっくり休んでね。無理しちゃダメよ」

「ありがとうございます」


 鞄を肩に掛けるロッテの姿を、リンディはじっと目に焼き付ける。


(一度目の人生と違い、今のところ自分は捕らえられてはいない。だけど、この後何が起こって、誰を巻き込んでしまうかわからない。大切な人は、極力自分から遠ざけなくては)


「……ロッテさん、ミルクありがとうございました。すごく美味しかったです」


 涙目で笑うリンディが無性に愛しく、ロッテは赤子をあやすように彼女の頬をふにゃりとつまんだ。


「またね、リンディ。次は……いつかしら。明後日もお休みかもしれないわね」


 “ またね ”


 リンディの胸は詰まり、何も言えないままロッテの後ろ姿を見送った。



「リンディ、一度屋敷へ帰って休もう。王宮から離れた方がいい気がする」


 空になっても、まだぼんやりとカップの底を見続けるリンディに、ヨハネスが問う。


「ううん。一度目の人生も王宮ここにいたから、同じようにするわ。本当は旦那様の傍から離れた方がいいのかもしれないけれど……わからない。二度目の人生では、自分がどうやって死ぬのか、どうしたらいいのか……。何が正解なのか、全然わからないの」


 カタカタと震え出すカップを受け取り、テーブルに置くと、ヨハネスは彼女の隣へ座る。そして、震える背中をそっと撫でた。


(華奢だな……自分の手で、ほとんど隠れてしまうほどだ。この背中の荷物を、僕は少しでも背負ってやることができたのだろうか。今もこうして、ただ撫でることしかできないなんて……

 “ 兄 ”としても、“ 護衛 ”としても、自分はなんと情けないのだろう。


 二度目の人生では、リンディは国王の死には関わらない様子だ。だとしたら、とりあえず今日、リンディの身に危険が及ぶ可能性はないということか?

 では、明日一体何が起こる? 事故、事件、病気?

 事故や事件なら守れるか? 傍で自分が盾になってでも……)


 そこまで考え、ヨハネスは力なく首を振る。


(神には逆らいたくない……神の判断に委ねる。それがリンディの意思だと、今朝聞いたばかりじゃないか。なのにどうしても、しつこく足掻かずにはいられない。

 ……なぜ。なぜ神は、まだ若い彼女を召そうとするのだろう)


 ヨハネスは、金色の髪に浮かぶ、天使の輪を見下ろす。


(そうか……。彼女は、本当に天使なのかもしれないな。人並み外れた才能、純粋で邪知がない心、清らかで愛らしい容姿。神がほんの一時、この世に遣わした贈り物なのかもしれない。

 そう考えないと……そうでも思わないと……悔しくて悔しくてやりきれない)


 ヨハネスは彼女の背中から頭へと手を移し、天使の輪を覆い隠す。


(ねえ、リンディ。もし君がいなくなってしまったら、その後の世界を、僕はどうして生きていこう。

 ……とても生きていける気がしないよ)




 何も喋らず、ソファで寄り添う二人。それから二時間ほど経った頃、ルーファスが足早に休憩室へ入って来た。


「体調が悪いと聞いた。大丈夫か?」


 たった今まで、ヨハネスが座っていた場所にドカッと座り、リンディの頬を撫でる。


「どうして知っているの?」

「お前の先輩が伝言を頼んだらしい。休憩室で休んでいるから、落ち着いたら様子を見に行ってやれと」


(ロッテさん……)


 リンディの瞳は、温かな涙に潤み出す。ルーファスはそんな彼女の顔を心配そうに覗き込むと、冷たい身体を抱き寄せた。


「旦那様、お仕事は?」

「もう終わった。……陛下の容態は、限られた臣下の中である程度把握していたから。いざという時の準備も整っていた」


 こそっと囁かれるその言葉に、リンディは安堵する。


(本当に……本当に陛下は殺められたのではなく、ご病気でお亡くなりになったんだ。明日、私がどうやって命を落とすかはわからないけど、とりあえずルーファスが罪人の夫になることは無いのね。セドラー家の名に傷を付けることも無くなったのね)


「旦那様、もう帰れるの?」

「ああ。明日からは当分忙しくなるが」

「今日は一緒にお家に帰れるの?」

「ああ」

「……嬉しい」


 リンディは広い胸に、ギュッとしがみつく。


 一度目の人生では、取調べの後すぐに牢へ入れられ、命を落とすまでのほとんどの時間を離れ離れになってしまった。

 二度目の人生では、一緒に帰ることができる。たとえ明日命を落とすとしても、今日は一緒に同じ家に帰ることができるのだ。


 何やら冷たい感触に、ルーファスは自分の胸元を見下ろす。すると、妻の瞳から溢れた涙が、自分のシャツを濡らしているのに気付いた。


 ルーファスはリンディが泣き止むまで、その背中を、トントンと優しく叩き続けた。




  裏門から外に出れば、月明かりが柔らかく道を照らしていた。空には、満月まであと少しの不完全なまるが浮いている。


(そういえば……湖で命を落とした時、最期に見た空には、綺麗な満月が浮かんでいたわ。そう、きっと明日には同じ形に……)


 抗えない運命を暗示しているような空。

 なす術もなく、冷たい風に煽られていると、左手に力強い温もりを感じた。


「……行くぞ」


 大好きなルビー色の瞳は、月明かりや街灯の光を集め、キラキラと輝いている。少し細められたその瞳から、リンディへと優しい光が注がれた。



(幸せ……私は本当に幸せ。

 私が感じられた半分……ううん。もっと、ほんの少しだけでも、あなたを幸せにしてあげられたかな。


 帰ったらパンを焼いて、フルーツを切ってあげよう。あなたの大好きな、可愛いうさぎをたくさん。もう一生食べたくないって、うんざりするくらい、たくさん……たくさん。


 他には? どんな幸せを遺してあげられる?

 お喋り? 甘い唇? それとも……こうして手を繋ぐ?


 ダメ……どれも私だけが幸せになることばかりだわ。そんなことしか思い付かないなんて……私の頭は、本当にどんくさいなあ。


 あの角を曲がったら、セドラー家の馬車が待っている。きっとこの手も離れてしまうわ。

 嫌だな……。もっと、もっともっと、ずうっと道が続いていればいいのに。……こうして、永遠に歩ければいいのに)



 急に立ち止まるリンディに、ルーファスも足を止め振り返る。


「どうした」

「少し……もう少しだけ、ここで月を見ていちゃダメ? 旦那様と、ここで月を見ていちゃダメ?」


 ルーファスの右手の中で、また妻の左手が冷たく震える。

 自分が握っているのに、自分が傍にいるのに、こんなふうに勝手に冷たくなることが許せなかった。


 ルーファスはリンディの肩をブランケットでしっかり包むと、二人の護衛に命じた。


「離れて歩け」


 躊躇う彼らに、ルーファスは再度命ずる。


「聞こえなかったか。離れろ」

「いけません。夜分に危険です」

「護身術くらい心得ている。それに警備が万全の王宮付近で、わざわざ悪事を働くヤツなどいないだろう」

「しかし……!」


 なおも食い下がるヨハネスに鋭い視線を向け、「命令だ」と強く言い放つ。

 仕方なく、何かあった時に対処できるギリギリの距離まで離れるも、もっとあっちに行けと手で追い払われてしまった。


 だいぶ離れた場所で、ヨハネスは二人の影に目を凝らしながら、荒い呼吸を整える。


(落ち着け…… “ その時 ” は、明日の夜なのだから)




 護衛らが離れたことを確認すると、ルーファスは繋いでいる手を持ち上げ、細い薬指に唇を落とす。


「冷えるから、少しだけだぞ」

「うん……ありがとう」


 風の音に溶けていく声があまりにも哀しくて、妻が消えてしまうのではと怖くなる。

 手を繋いでいるだけでは不安になったルーファスは、リンディの肩を抱くために、一旦手を離そうとする。ところが、彼女の両手が必死に腕にしがみつき、それを阻んだ。


「ダメ……! 離さないで……手を繋いでいて……お願い」


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