第90羽 愛してはくれなかった
暗い……真っ暗だ。
周りも、上も下も、どこを向いても暗闇ばかり。
心を無に包んでくれる、冷たくて心地いい世界のはずなのに。
……ああ、またお前か。
最近はずっと、暗い背中しか見せない男。
怒っているのか、穏やかなのか、一切表情が見えない。
“ 無 ” であることが堪らなく不気味で、恐ろしい。
いつも傍にいた……話して笑っていた “ 何か ” は、もうどこにもいなくなった。
男は突然、肩を小刻みに震わせながら座り込んだ。
……泣いている?
よく目を凝らせば、腕に何かを抱いている。
今まで動かなかった足が動く。恐怖よりも、男の腕の中のものを見たいという気持ちが勝ったせいかもしれない。男へ慎重に近付けば、細い足らしきものが見えた。
……人? 一体誰を抱いているんだ?
背後から不気味な笑い声が響く。
振り返って見た顔に、あっと驚いたところで、意識が引き戻された。
伏せていた顔を上げれば、そこは書斎の机だった。
(寝る前に少し仕事をしようとして……そのまま闇に堕ちたのか)
身体中が嫌な汗で、じっとりと濡れている。不快感に耐えられず、ルーファスはシャツの胸元を雑に開け、一気に空気を通した。
(闇にあの男以外が、しかも現実に存在する人間が現れるなんて。不完全どころか、もう闇ですらないではないか)
心地よかったはずの世界は、今やルーファスにとって、恐怖でしかなかった。
(……ローリー・ヘイズ。なぜアイツが闇の中に?)
不気味な笑い声がまだ耳に残り、新しい汗が毛穴から噴き出す。
ああ、さっきまで、これで家令と話をしていたからかと、ルーファスは、手元に転がるコップ型の魔道具に触れた。
(自分たちが王都へ戻った辺りから、ローリー・ヘイズは屋敷に姿を見せなくなったと言う。金を工面するのに必死なのか……いや、それはないな。できたらとっくに工面しているだろう。諦めて荷造りでもしているか、既に領地を去ったか。まあ、期日が来たらわかるだろう)
何でもないこと、と思おうとするが、眼鏡の奥のあの昏い目が頭から離れない。
汗は一向に引かず、ゾクゾクと身体に纏わりついた。
ルーファスはふうと深呼吸をすると、机の引き出しから小箱を取り出す。
(19になった猛獣にこれを渡して、思う存分味わってやろう。唇だけでもあんなに毒が強いなら、全身を味わった時、自分はどうなってしまうのか。
心も身体も、猛獣の支配下に置かれてしまうかもしれない。……傍にいないと、呼吸さえできないほどに。
そうなったら鎖で繋いで、自分から一生離れられなくすればいい。夫の地位を利用し、さも自分が飼い慣らしているように、うまく見せかけて)
そんな考えに苦笑しながら、親指の腹で、愛しげに小箱を撫でる。
(あと三日……いや、二日か)
十二時を回った時計の針は、静かに時を刻んでいる。
何気なく見下ろした、左手の薬指。
弱々しく光る最後の一粒が、ルーファスに必死に何かを訴えているようで、胸が苦しくなった。
◇◇◇
絵を教えたあの日以来、リンディは王太子や王妃には会っていなかった。もちろん国王にも。
それでも国王陛下暗殺の容疑者として捕らえられるのか……もしくは、何か別のことで命を落とすのか。
どちらにせよ、命の期限は明日。19歳の誕生日の夜が迫っていた。
(怖い……とうとうこの日が来てしまった。
王様が亡くなった日。私が罪人として捕らえられた日。
本当は、王宮なんかに行きたくない。ずっと家に籠っていたい。だけど、そんなことをしても、きっと寿命は変えられない。無理矢理抗って、もし他の誰かの運命を変えてしまったら……そっちの方が怖いわ)
手がもたついて、ブラウスのボタン一つ嵌めるのですら時間が掛かってしまう。ほとんどプリシラに身支度を整えてもらい、部屋の外へ出ると、ヨハネスが心配そうな顔で立っていた。
「……奥様、大丈夫ですか?」
「うん。お待たせしちゃって、ごめんなさい」
ヨハネスは背を屈め、リンディの両肩に温かな手を置く。
「大丈夫です。何があっても、私がお護りします。ですから、どうか私の傍を絶対に離れませんように」
そう言う彼の顔は、さっき鏡で見た自分の顔よりも、ずっと青い。リンディは息を吸い込み、精一杯の笑顔をつくった。
「わかったわ! 絶対に離れない。でも……神様には逆らえないから。もしもの時は、ヨハン兄様が私から離れてね。これ以上、私の運命に巻き込みたくないの」
華奢な肩の上で震え出すヨハネスの手に、リンディの左手が優しく重ねられる。その柔らかな感触に、彼女とのこれまでの想い出が甦り、ヨハネスは溢れるものをぐっと飲み込んだ。
「……リンディ」
護衛の立場を放り、かけがえのない彼女へ向かう。
「ルーファス様には、まだ何も話していないの?」
「うん……」
「寿命のことも、指輪のことも?」
「うん……」
頷きながら、愛しげに左手の薬指を見るリンディに、ヨハネスはゾッとする。
「今ならまだ間に合う。ちゃんと話せば、君のために寿命を分けたいと、願ってくれるかもしれない。君を愛していると……そう言ってくれるかもしれない」
ヨハネスの真剣な言葉に、リンディは少し考え首を振った。
「ううん、いいの。言いたくないの」
「リンディ! このままじゃ君は……君の命は……」
美しい緑色の瞳には、涙が揺らいでいる。
血は繋がっていないけれど、優しい優しい……大好きな兄だった。
「泣かないで」と細い目尻に触れた瞬間、それは忽ち決壊し、ぶわっと溢れ出た。
「ヨハン兄様……ごめんなさい。ずっと心配してくれていたのに、ごめんなさい。だけど私、神様に命を委ねようと決めたの」
ヨハネスは叫びそうになるが、必死に唇を噛み締める。
「旦那様がね、私に傍にいてもいいって言ってくれたの。俺が離れろって言うまで、傍にいてもいいって。結婚して、一緒にパンやフルーツを食べて、たくさん手を繋いで、最後に絵も描かせてくれた。もうそれで充分!」
「傍にいてほしいと言われたんだろう!? だったら」
リンディは彼の言葉を遮り、感情を押し殺すように話し続ける。
「……ルーファスはね、二度目の人生では、私を愛してはくれなかった。でも私は、一度目も二度目も、ルーファスを愛したの。だからとっても幸せだった」
「リンディ……」
“ 愛してはくれなかった ”
哀しい言葉が、ヨハネスの胸を抉る。こんな言葉を彼女に言わせるルーファスを憎む一方で、本当にそうだろうかと、疑問が浮かんでいる。
(ルーファス様はことあるごとに自分へ嫉妬心をむき出しにしていたし、リンディを抱こうとしたあの夜も、自分を殺しかねない形相で寝室に飛び込んで来たじゃないか。最近では一緒に過ごす時間も増えて、夫婦らしい雰囲気も漂い始めている。
彼自身が自覚していないだけで……彼女にも伝わっていないだけで、本当は……
それならば、寿命を分けてくれる可能性は充分にある。だが、指輪の力が、実際どのように発動するのかはわからない。具体的に願わなければいけないのか、それとも潜在的に愛しているだけで発動してくれるのか……
これも結局は、神の判断に委ねるということなのかもしれない)
涙を流し続けるヨハネスの頬へ、リンディのハンカチが優しく触れる。その時、低い声が二人の鼓膜に届いた。
「……何をしている」
答える前に、リンディはあっという間にヨハネスから引き離される。彼女の背後から、がっしりと回される長い腕。涙で揺らぐヨハネスの視界には、殺気立った形相で自分を睨みつけるルーファスがいた。
(ほら……やっぱり。愛していないなんて、嘘だろう?)
意味ありげに笑うヨハネスに、ルーファスはカッとなる。リンディの手から湿ったハンカチを取り上げると、彼女の目の前で揺らしながら、苛立たしげに問う。
「何をしていたと訊いているんだ!」
「……あの、ヨハネスの目にゴミが入って、涙が出ちゃったから拭いてあげてたの」
「護衛なんかを構う必要はない。お前がこんなことをするのは夫だけでいい」
そのハンカチでリンディの両肩を払うと、ぐしゃりと握り潰し、ヨハネスへ投げ付けた。
「捨てろ」
忌々しそうに吐き捨てると、華奢な肩を上書きするように抱き寄せ、大股で玄関へ歩いて行く。
朝日が照らす二人の眩しい背中に、ヨハネスは最後の祈りを捧げた。
絵師の作業室にて、リンディはいつも通り机に向かっていた。
絵筆を握ってはいるものの、今日は少しも集中できない。時計をチラチラと見ては、“ その時 ” に怯え続けていた。
ひとたび紙に向かえば、凄まじい集中力を発揮するリンディの、いつもとは違う様子にロッテは首を傾げていた。
一応ベルをチリンと鳴らしてから、話し掛けてみる。
「リンディ、大丈夫? 具合でも悪いの?」
「いえ……すみません」
「目標枚数は描き上げたんだし、無理しないで帰ってもいいのよ?」
「いえ……頑張ります」
返事もどこか上の空のリンディに、ロッテは諦め、再び自分の作業を続けた。
空にカラスが鳴き始めた頃だった。にわかに騒がしくなった廊下に、リンディは誰より先に顔を上げる。
「陛下が……国王陛下が崩御された!!」




