第89羽 神の意思
王都に戻ってから数日後の夜、リンディの誘いで、三人は久しぶりにあの店に集まっていた。
「さあ! お酒でもご飯でも、じゃんじゃん飲んで食べてください!」
「……本当にいいの? リンディ。可愛い後輩に奢らせるなんて、お局の名が廃るわ」
「後輩にも、ご馳走したい時があるんです!」
ドンと胸を叩くと、隣のアリスが心配そうに言う。
「私は友達だけど、いいの?」
「親友にも、ご馳走したい時があるの!」
またもやドンと胸を叩くリンディに、二人は顔を見合せ頷いた。
「それじゃあ……お言葉に甘えてご馳走になろうかしら」
「やったあ! ありがとうございます。ロッテさん、アリス」
お金を出す人に礼を言われるなんて。この娘らしいわと、二人はふっと笑う。
二度目の人生でもここでバッタリ出会ったロッテとアリスは、一度目と同じように意気投合し、ちょくちょく飲む仲になっていたのだ。
乾杯の後、最初の一口でグラスを半分以上空にしたロッテは、楽しげに話し出した。
「貴女が誘ってくれるなんて、珍しいわね、リンディ。若奥様が夜遊びなんかして大丈夫なの?」
「はい! 旦那様……夫は今日、お仕事で帰りが遅くなるんです」
「 “ 夫 ” ……ねえ。まさかアイツが貴女みたいな娘と結婚するなんて。未だに信じられないわ」
「私も未だに信じられません。旦那様みたいな素敵な男性が、私と結婚してくれたなんて」
「……違うわよ! 逆よ、逆!」
ロッテはグラスを飲み干し、テーブルにダンと置く。
「あんな偉そうで失礼で冷たいヤツが、貴女みたいないい娘と結婚するなんてってことよ」
「……私、いい娘なんですか? 変なのに?」
「そうね。ちょっと……結構変だけど、いい娘よ。外も中身もとびきり可愛いわ。ね、アリス」
同意を求められたアリスは、新しいグラスをサッとロッテの前に置きながら答えた。
「ええ、姐さん。リンディはすごくいい娘。だって会うたびに、アタシを綺麗だって言ってくれるんですもの!」
「そんな理由?」と笑うロッテに、アリスは続ける。
「リンディと出会う前はね、アタシ、女性としての美ばかり求めていた気がするの。でも、身体が男の、不完全なアタシだからこそ、生み出せる美があるんじゃないかって。綺麗じゃないアタシなりの綺麗があるかもって、そう思えるようになったの」
「私も……!」
リンディは急に立ち上がる。その振動から、ロッテが倒れそうなグラスを守るのは、もはやお約束の光景だ。
「私もね、アリスと出会って初めて、変でもいいって思えたの。変は個性、変は芸術、変は素敵って。本当に、本当に嬉しかった」
「まあっ……!」
二人は瞳に涙を浮かべ、どちらからともなく抱き合う。
「ちょっとぉ、まだ早いわよ二人とも。一杯も飲んでないじゃない」
ケラケラ笑いながら二杯目を空にするロッテも、アリスに招かれ、自然と抱擁の輪に引き寄せられていた。
リンディは輪の中心で、ぐすっと鼻を啜りながら言う。
「ロッテさんも……優しいお姉さんができたみたいで嬉しかった。忙しいのに、いつもキャンディを食べさせてくれて、いつもベルを鳴らしてくれて、ご飯もお話も、何もかも本当に嬉しかった」
「何言ってるのよ……私こそ、あなたと出会って、つまらなかった人生が百倍楽しくなったんだから」
ロッテもアリスも、まるで何かの期限を知っているように、リンディの頭や背を優しく撫で続けた。
少し身体を離すと、リンディは二人の顔を真っすぐ見て微笑む。
「ロッテさん、アリス。一度目も二度目も、今まで本当にありがとう。二人とも……大好き!」
◇
その翌日は休日だった。
焼き立ての香ばしいパンの香り。
山盛りの美しいフルーツ。
朝食のテーブルに向かい合う夫婦の顔は、ままごと遊びをする子供のように、無邪気であどけない。
真っ先に林檎のうさぎを頬張り、顔を綻ばせる夫を、妻は優しい眼差しで見つめていた。
今この瞬間、二人の間には何もない。難しい愛も、苦しい恋も。
ただ穏やかで、優しく、温かい。それがこんなにも心地よいと感じてしまう自分に気付き、リンディは怖くなった。心が神の元へ、半分召されているのではないかと──
「……どうした? 食べないのか?」
「うん……あんまりお腹が空いていないの」
ルーファスはフォークを置くと、パンの横でぼんやりと休む妻の手を取った。
「最近ずっと冷たいな……猛獣のくせに、やたらと大人しいし」
ただ微笑むばかりの妻に不安を感じ、手をしっかりと握ったまま、質問を投げ掛ける。
「今日はどこかに行くのか?」
「いえ……旦那様は?」
「屋敷で仕事をする」
「……忙しい?」
「まあ、そうだな」
「そっ……かあ。お休みなのに、大変ですね。後でまた、フルーツを切ってお持ちしますね」
その言い方に何かを感じ、ルーファスはもう一歩踏み込んでみた。
「何か俺に用があったのか?」
「あっ……いいの。大した用じゃないからいいの」
「大した用じゃないなら、仕事の合間にできるかもしれないだろ。言ってみろ」
言いにくいのか、握っている手に少し力がこもる。
「あの……あのね、旦那様のお顔を描かせてほしいの。見なくても描けるんだけど、ちゃんとお顔を見て描きたいの」
「……自分の顔なんて、わざわざ描かれたくない。鏡を見るのも苦手なのに」
ルーファスは不快感を露にする。気まずい沈黙が流れ、リンディは下を向いた。
「そっかあ……ごめんなさい」
小さな手は一層冷たくなり、伏せられた金色の睫毛は震え出す。その姿にルーファスの胸は苦しくなり、自分の苦手よりも、妻の希望を叶えてやりたいと、そう思ってしまった。
「……誰にも見せないなら、描いてもいい」
その言葉に、リンディは、ぱっと顔を上げ叫ぶ。
「見せない……! 見せないわ、絶対。私だけの宝物にする!」
( “ 私だけの宝物 ” ……自分の、この顔が?)
ルーファスの胸は、またギュッと苦しくなるが、さっきの苦しさとは全然違う。それは突き詰めれば “ 楽 ” に繋がるような、不思議な苦しさだった。
( “ 苦しい ” にも色々種類があるのかもしれないな……)
嬉しそうに瞳を潤ませる妻を見ながら、ルーファスは苦しい胸を押さえていた。
昼前の眩しい執務室。
窓から流れ込む柔らかい風が、ルーファスの艶やかな黒髪をさらさらと撫でる。
そのたびに天使の輪が形を変える様を、リンディは愛しげに見つめていた。
「……動いても大丈夫なのか?」
「うん!」
ルーファスは横を向き、ふわあと息を吐くと、再び書類に涙目を落とす。
リンディは微笑みながら、色鉛筆を丁寧にスケッチブックへのせていった。
(あの日みたいに大きなキャンバスではないし、ルビー色の絵の具もないけれど。どの色も美しく鮮やかに見えるわ。
昼でもカーテンを閉め、ランプを灯して仕事をする。それほどまでに光を嫌う旦那様が、描きやすいようにと、私のためにカーテンを開けてくれたから。
……どうしても、顔を見て描きたかった。
私は二度目の人生を、大切に過ごせていたのだろうか。選択は間違っていなかったのだろうかと、彼の顔を見ながら振り返りたくて。
きっと答えは出ない、そう分かっていても……)
そっと色鉛筆を置くと、リンディは両手でスケッチブックを持ち、自分で描いた夫の顔を見つめる。
(綺麗……お義兄様も旦那様も、本当に綺麗。初めて見た時から……一度目も二度目も、ずっとずっと)
リンディの動きに気付いたルーファスは、彼女の元へ行き、スケッチブックを取り上げる。
急に消えた絵に驚き、リンディは不安げに彼の反応を窺った。
「……俺は、こんな顔をしているか?」
「うん、綺麗でしょう?」
色鉛筆で生き生きと描かれたその顔は、ルーファスの目には、自分とはまるで別人に映っていた。彼女の目には、いつもこんなふうに自分が映っているのか……だとすれば、どちらが本当の自分なのだろうと、不思議な感覚に陥る。
その答えを探ろうと、彼女の青い瞳を覗き込めば、驚くほどちっぽけな自分がそこにいた。もっとよく探ろうと、跪き奥を覗き込むが、やはりちっぽけで頼りない自分が映っていた。
(今や大臣で、公爵で、セドラー家の主人である自分も、猛獣である彼女にとっては、こんな取るに足らぬ存在なのか。これでは惑わされ……補食されても当然だ)
スケッチブックを静かに床に置き、金色の睫毛を手の甲で撫で、閉じさせる。
獲物を待ち構えている、魅惑的な薔薇色の唇に吸い寄せられたら最後、自ら甘い毒を夢中で貪ってしまう。もう味わっていない部分など探すのが難しいくらい、今ではすっかり彼女の口内を知り尽くしていた。
離した唇は切なくて、再び重ねれば、今度は痺れるほどの甘さに身体中が熱くなる。理性などどこかへ追いやられ、角度を変え、深さを変えては、一つに溶けてしまいたいとさえ思う。初めて毒にやられたあの夕暮れの日から、触れる回数も時間も、格段に増していた。
(これは……完全に中毒症状が表れているな)
毒を放つ方もダメージを負うのか、唇を離した後は、いつもくたりと脱力する妻。だが今日は、そのままぎゅっとルーファスの胸にしがみついてきた。
「旦那様……私まだ、旦那様から離れなくてもいい?」
「当然だろ。まさかあの約束を忘れていないだろうな。あと三日……空腹に耐えながら、ずっと待っているんだ」
「忘れていないわ。少しでも美味しくなるようにって、ブロッコリーも我慢しているもの」
「それならいい」
ルーファスはリンディの丸い額に唇を落とすと、強く抱き締め返した。
「そういえば、夕べは友達と食事をしたんだろう? 酒も飲んだそうだが、問題はなかったか?」
絵師の先輩と学生時代の友人と、三人で食事に行くのだと、ルーファスは事前に妻から報告を受けていた。
「うん。とっても楽しかったわ! 旦那様のこともたくさん訊かれてお話ししたの」
「……何を訊かれた」
「何でアレと結婚したの? とか、本当は旦那様とヨハネスが愛し合うためのカムフラージュなんじゃないの? とか、いろいろ心配してくれて。二人ともお酒を飲んで楽しそうだったし、何とか誤魔化せたから大丈夫よ! あっ、あとね、あっちは立派かとか、上手いの? とか。あっちが何のことかわからなかったんだけど、恥ずかしくて訊けなくて。すごく立派だし上手よって、適当に誤魔化したわ。旦那様は、あっちが何かわかる?」
ルーファスは質問を流しながら眉をひそめる。
(……失礼極まりないヤツらだな。おまけに可愛い猛獣に下品なことを吹き込みやがって)
「それでアリスがね、そんなに立派で面白そうな旦那様なら、一度ぜひお会いしたいわって」
“ アリス ”
その名を聞いた瞬間、何やら胸がモヤっとしたのは気のせいだろうか。
「いいだろう。今度屋敷に連れて来い。公爵夫人に相応しい友人かどうか、俺が見定めてやる」
「嬉しい! 私、夢だったの。旦那様と結婚して、新居に友達を招待するって。どうもありがとう」
満面の笑みで自分を見上げる妻。こんなに喜ぶなら、いっそその失礼極まりない友人らのために、舞踏会でも開いて歓迎してやりたいとすら思ってしまう。
(……本当に、強烈な毒だ)
甘さを思い出した唇が疼き、気付けばまた刺激を求め薔薇色を啄んでいる。
ルーファスは完全に仕事を忘れ、リンディへ溺れていった。
来ないかも知れぬ未来にも、ルーファスの熱い唇にも、リンディはときめき、喜びを感じていた。
大丈夫、まだ私の心は召されていない。私はまだ、生きている。そう安堵していた。
だが……
視界に入ったルーファスの指輪に、神の揺るぎない意思を感じた。
──貴方と最後に過ごした、穏やかなこの日。
手を繋いで、遠い所へ逃げてしまいたかった。
絶対に神様に見つからない、どこか遠い所へ。




