第88羽 命の置き場
耳朶を押さえながら、真っ赤な顔で口をパクパクさせる妻を見て、ルーファスは楽しげに言う。
「契約書の “ 3 ” 。今日は子どもができやすい日だと、お前の侍女から聞いた。そろそろ周りの希望に応えて、跡継ぎとやらを作ってもいいかと考えてな」
(子どもが……できやすい? そういえば今朝プリシラさんが、今夜旦那様と一緒に寝ると良いことがありますよって言ってたけど……それが子どものこと?
食べる、寝る、子どもの三つは、やっぱりセットなのね)
「お前のせいで、丁寧に歯ぎしり対策グッズまで渡された。ほら、これを歯に嵌めるらしい」
ルーファスは、ベストのポケットから透明な歯形の道具を取り出す。身を乗り出し、興味津々で見ている内に、リンディにある疑問が浮かんだ。
「……旦那様。それを歯に着けたら、私を食べられないんじゃない? うまく齧れなそうだわ」
「心配するな。食べるのに歯は使わない」
「……丸飲みするの?」
ぷっと噴き出す夫の横顔を、リンディはぽかんと見つめる。
「どうやって食べるか知りたいなら、今夜教えてやるよ。……じっくりとな」
さっきの子守唄とは全く違う、身体の芯がゾクリとする艶やかな声。気付けば、炎のような手が、リンディの頬に添えられていた。
(熱い……熱すぎて呼吸ができないわ。このまま旦那様に身を委ねていたら、私は骨どころか、灰になってしまうかもしれない。怖いのに、この熱の向こうを知りたいと思ってしまう。教えてほしいと思ってしまう。だけど……)
リンディは夫の手を掴み、自分の頬から遠ざける。まだ熱い頬を、自分の冷たい手で冷ましながら、震える口を開いた。
「19歳……19歳の誕生日が無事に終わったら……そうしたら私を食べてもいいわ」
ルーファスは怪訝な顔で問う。
「なぜ誕生日なんだ」
「……今食べられたら、私はきっと苦しくなってしまう。お別れするのが、きっと、もっと苦しくなってしまう気がするの」
“ お別れ ”
聞き捨てならない言葉に、ルーファスは語気を荒らげる。
「どういう意味だ」
リンディはもう、溢れる感情を抑えられない。
「私、私ね、19歳の誕生日に死んでしまうかもしれないの。どうやって死ぬのかはわからないけど……でも」
──突如、リンディの言葉を遮るように、頭上でカラスが鳴き叫ぶ。
急に翳り始めた空が、白木の天板を暗く染め、ルーファスの胸にも不吉な影を落とした。
つい数分前まで、柔らかい陽に輝いていたリンディの白い顔も、今は灰色にくすんで見える。
何かに怯える妻の瞳から目を逸らし、ルーファスはあえて、軽い調子で言った。
「死ぬ? 猛獣みたいなお前が? 侍女の話では健康そのものらしいが」
「死ぬ理由は病気だけじゃないわ。私は……」
「止めろ!!」
恐怖に満ちた声が、テラスに響く。
リンディは少しだけ肩を震わせたものの、興奮する夫を、冷静に見つめていた。その様子が、余計にルーファスの恐怖を掻き立てる。
「父上が亡くなったばかりなのに……こんな時に、縁起でもないことを言うな!」
違う。この恐怖の原因は、父ではない。
そう感じながらも、他に都合の良い言葉が見つからない。
そんな夫の心を見透かすように、リンディは新たな問いを投げ掛ける。
「旦那様は……もし私が死んでしまったら、苦しくなくなりますか? 私がいない方が楽で、その方が幸せになれますか?」
ザッと強い風が吹き、煽られた金髪が妻の表情を覆い隠した。
ルーファスは何も答えることができない。
ただ、胸を切られたように苦しくて、それを逃すために噛み締めた唇には血の味がした。
風が止んでも、妻の表情は見えない。よく見れば、涙で濡れた顔に、髪の毛がベッタリと張り付いている。
抱き締めたいと想う心と、抱き締めたいと動く身体。その両方がピタリと重なり、ルーファスは目の前の命を掻き抱いた。
(なぜ彼女はこんなに冷たいのだろう。……なぜこんなにも哀しいのだろう)
「幸せだの……楽だの苦しいだの……そんなのどうでもいい。お前の命は俺のものだ。勝手に死ぬことは許さない。死ぬなどと口に出すことも、二度と許さない」
「……命は神様のものでしょう? 旦那様でも逆らえないわ」
「夫を無視して妻に手を出すなら、悪魔も同然だ。そんな神なんか殺してやるよ」
恐ろしい言葉に、リンディは驚き身体を離そうとするも、力強い腕がそうさせてはくれない。諦めて身を委ねれば、やはりそこは心地よく、涙がどっと溢れる。
こんなに恐ろしいのに、どこよりも安心できるのは、彼が自分の居場所であり、命の置き場だからなのだろう。
心まで沁みる温もりが、リンディにそう教えてくれていた。
「それに……お前はまだ、妻らしいことを何もしていないだろう」
「妻らしいこと?」
「パンもフルーツもまだ全然足りないし……何より夫に食べられ、跡継ぎを遺すという大事な使命がある」
「……パン、もっと焼いてほしい? フルーツも切ってほしい?」
「ああ。妻の仕事だ」
「食べるのも私がいいの? 不味いのに?」
「ああ。何度か食べている内に、慣れて美味しく感じるかもしれない」
「他にもっと美味しそうな女の人がいても?」
「ああ。お前以外の女なんて、絶対に食べたくない」
リンディはルーファスの瞳を覗き込む。熱っぽくて、苦し気で、今にも泣きそうで……その言葉が偽りでないことを、真っすぐに伝えてくれていた。
それは、一度目の人生で、初めて唇を交わしたあの日と、全く同じ瞳だった。
「私……旦那様の傍にいてもいい? もし神様が離れろって言っても、旦那様が離れろって言うまでは、傍にいてもいい?」
「もちろん」
熱い手が、再び彼女の頬に添えられた。火先のような指を伸ばし、薔薇色の唇に触れれば、それはもっと赤く燃え上がりながらルーファスを誘う。
「いいだろう。望み通り、19になるまで待ってやる。……唇以外は」
香り立つ唇を、ルーファスはパクリと口に含む。
(甘いな……上唇も、下唇も。だけど……もっと奥の味を知りたい。たとえ毒にやられても……その先を知りたい)
妻の頭を支えると、吐息が漏れる唇の隙間へ強引に滑り込む。彼女の冷たい舌と、自分の熱い舌とが触れた瞬間、切ない猛毒が彼を骨の髄まで狂わせた。
(負けてたまるか。温めて……燃やして……いっそ焦がしてしまえ)
挑む内にどんどん深さを増し、ルーファスはとうとう、痺れるほどの強烈な甘さを知ってしまった。
◇
「また手ぶらで来たのか」
「はい。やはり工面は難しいとのことです」
対応する家令にも、やや疲れが見えてきている。
厳しく突っぱねたあの日から、ローリー・ヘイズは毎日屋敷へ来ては門の前で現状を訴え、支払い期限の延期を求めていたからだ。
「立ち退きの期限まであと十日ですから、最近は相当思い詰めた顔をしています」
「十日か……」
カレンダーを目で追えば、丁度十日後のある数字が丸で囲われている。
妻の誕生日までに、面倒なことは全て片付けてしまいたいのにと、ルーファスは眉をひそめる。
「なぜ父上は、あんな領民を甘やかしていたんだ? さっさと追い出せば良かったものを」
「大旦那様も、調査書以上の詳しい事情は知らないと仰っていました。ただ、あれだけ頑なになるのは、きっと他人には言えない何かを抱えているのだろうと仰り、黙って支援を続けていらっしゃったのです」
父のことは尊敬しているルーファスだが、例の男に対しての甘い対応だけは、どうにも納得いかなかった。信用できないし、誠意も感じられない。眼鏡の奥の廃人のような目に、それが表れているというのに。
甘やかし続けたことが、男を余計に増長させたのではないだろうか。父も、あの男のことだけは見誤ったのではないだろうかと考えていた。
「明日から妻と王都へ戻る。仕事が忙しいから、当分は戻って来られないだろう。期日が来たら兵を送り、速やかに領地から追い出せ」
「かしこまりました」
(せっかく男の件が片付いても、国王陛下に万一のことがあれば、誕生日どころではなくなるな……)
カレンダーを見てため息をついていると、ドアの外から声を掛けられた。
「旦那様、金細工職人が来ております」
ルーファスの顔に、自然と笑みが浮かぶ。
妻の白く細い薬指を想うと、心の靄が晴れていった。
翌朝、屋敷の前でルーファスは家令に命じる。
「留守は任せた。何かあれば魔道具で逐一連絡しろ。……アイツはくれぐれも期日には追い出せ。万一抵抗するなら、罪人として拘束して構わない」
「かしこまりました」
夫婦を乗せて王都へ向かう馬車を、物陰から昏い目が睨みつけていた。




