第87羽 迫り来る闇
「──だから、もうこれ以上は延ばせないと言っただろう」
「そこを何とか……お願い致します」
「お前だけ特別扱いする訳にはいかない。今までどれだけ援助してきたと思っているんだ」
「申し訳ありません……情けないことも重々承知しています。ですが……どうにもならないのです」
ルーファスはため息をつくと、白髪頭を下げ続ける男を、改めて見下ろす。
まだ三十代半ばだと調査書には書いてあったのに、その窶れ具合とくたびれた服のせいで、随分老けて見える。
苦労はしてきたのだろう。そこに嘘偽りはないのだろう。しかし、どうにも釈然としない部分があった。
「年老いた父親が、病気だということは承知している。だがお前には妻もいるだろう。協力して働けば、このくらいの地代など訳ないはずだ」
「それは……実は……妻も病気で。最近はあまり働くことができないのです」
「病気? 何の病気だ。診断書は?」
「いえ、それが……」
言葉を濁す男に、ルーファスは首を振る。
「三年分の地代を一部免除し、さらに分割して負担を軽くしている。治療費や物資の援助も散々行ってきたし、父親を介護しながらでも働きやすい仕事を、幾度も紹介した。……記録によると、最長で半年、最短で半月しかもたなかったそうだが」
男の肩がピクリと震える。
「お前と似た境遇の人間が、この領地にどれだけいると思う? それでも皆、懸命に地代を納めている。その領民たちに、罪悪感はないのか」
「それは……申し訳ないと思っております。ですが、どうしても……」
「他に払えない理由があるなら正直に言え」
またしても下を向き、モゴモゴと言葉を濁す男に、顔を上げろと命じる。
『上辺だけじゃない。奥を真っすぐに見るんだ』
父から教わった通り、男の汚れた眼鏡の奥を慎重に探る。すると何かに怯え、必死に隠そうとする姿が見えた。
ルーファスは息を吐き、呆れたように口を開く。
「これ以上、お前を信用することはできない。期日までに払えないなら、領地を出て行け」
「そんな……! 病人を連れて出て行けと仰るのですか!? 前の公爵様は待ってくださいましたのに、あなた様はなんと非情なことを」
急に不満を捲し立てる男に、ルーファスは苛立ち、強い口調で言い放った。
「甘えるのもいい加減にしろ! 前公爵の善意に甘え続け、支払う姿勢を微塵も見せない自分を恥ずかしいと思わないのか!」
再びよろよろと下を向く男は、ルーファスの目には、同情を誘っているようにしか見えない。
「病気の父親や妻が大事なら、必死で働け。地代を用意するまでは、二度とお前には会わない」
背を向け、護衛兵とともに屋敷へ戻ろうとするルーファスへ向かい、男はざらついた声で叫んだ。
「私だけなら……私一人なら今すぐにだって出て行きますよ! けれど、家族を連れていくことなんてできない! あなただって……あなただって奥様がいるでしょう! 私の気持ちがわからないのですか!?」
ルーファスは顔だけ振り向き、冷たい目を男へ向ける。護衛兵に忽ち拘束された男は、若い公爵の視線に怯えることなく、声高に叫び続けた。
「生まれながらに身分があって、金持ちで。守られてチヤホヤ育ったあんたに何がわかる!? 情けない俺の何がわかる!?」
男の元へ近付くと、ルーファスは毅然と言い放つ。
「全くわからないな。今日突然、身分も金も失くしても、俺は妻を死ぬ気で守る。妻のためなら、地べたに這いつくばって、何だってしてやるよ。どんなに情けないことでもな」
──男は屋敷の外へ追い出され、ふらふらと歩き出す。
すれ違いざまに通ったセドラー家の紋章入りの馬車を、昏い目で睨みつけていた。
車輪の音に振り返れば、妻が乗っているであろう馬車が、敷地内へ入って来るのが見えた。
ルーファスは思わず顔を綻ばせるが、慌てて表情を戻し、腕組みをして馬車の扉を見つめる。
ヨハネスが開けた扉から、妻が降り立つ。華奢な足がトンと地面に着けば、柔らかいラベンダー色のドレスがふわりと広がり、ルーファスの胸は高鳴る。
(最近はあの汚いエプロン姿だけでなく、何を着ていても可愛いと感じてしまうのだから重症だ)
目が合い、一瞬笑いかけられるも、すぐにあっと口を押さえ、目線を落とされてしまった。
ルーファスはつかつかと馬車へ近寄ると、礼をするヨハネスを押し退け、妻の前に立つ。
「早かったな」
「はい。折角の休日なんだから、早く帰りなさいって」
(当然だ。休日に新妻をわざわざ王都まで呼び出すなんて。王妃陛下でなければ文句を言っているところだ)
「……旦那様、もしかして、外で私を待っていてくれたんですか?」
「いや……来客を見送ったら、たまたまお前が帰って来た。執務が溜まっているから、早く屋敷に入りたい」
「……ごめんなさい」
哀しい妻の声に、ルーファスの胸はまた苦しくなる。
(お前を待っていたと、嘘をついてやったら良かったのだろうか……難しいな)
「いつもより多めにフルーツを切って、お前が部屋まで持って来い」
帰って来たばかりの妻にそう命じた十分後、山盛りのうさぎや花が盛り付けられたガラス皿が、ルーファスの部屋に到着した。
「お待たせしました」
机に皿を置き、出て行こうとする妻の腕を、ルーファスは素早く掴む。
「こんなにたくさん食べきれない。……お前も一緒に食べろ」
片手に皿、片手に妻の腕を持ち、半ば強引にテラスへ出ると、テーブルへ向かい合って座る。
夕暮れ前の穏やかな日差しが、ガラス皿の模様を白木の天板に映していた。
「あっ……」
ルーファス一人で食べると思っていたため、フォークを一本しか用意していなかったことにリンディは気付く。
いいわ、旦那様が残した分を食べようと、そう思っていたが……突如目の前に、葡萄の花が刺さったフォークが現れた。その向こうでは、夫が得意気な顔で笑っている。
「食べろ」
いいえ、旦那様がお先に……と言うべきだったかもしれない。だが、帰って来てから慌ただしく動いていたリンディは、まだ水すらも飲んでおらず、喉がカラカラだった。
我慢できず、潤いを求めてパクリと食い付けば、甘酸っぱい果汁が渇いた口内に広がる。
ふにゃりと緩む妻の顔が楽しい。ルーファスはふっと笑うと、もう一粒フォークに刺し、もっと食べろというふうに薔薇色の唇をつんとつついた。
(まるで猛獣に餌付けをしている気分だな)
それを何度か繰り返すと、ルーファスは自分の口にもキウイのうさぎを入れ、おもむろにフォークを置いた。
「……王太子殿下のご様子は?」
「思っていたよりもお元気そうでした。選ばれる色も、筆遣いも明るかったし。王妃様も傍でよく笑っていらっしゃったわ」
「そうか……」
数日前、王妃からクリステン公爵夫妻へ届いた密書によると、国王の持病が悪化し、もう何日も寝込んでいるという。
そんな父親を見て、王太子が不安定になっているため、気分転換にリンディから絵を教えてもらいたいという内容だった。
「今日は王様のお顔を描いたの。殿下の描く王様はね、すごく優しくて、ちょっと可愛くて。これはきっと、“ 王様 ” じゃなくて、殿下にだけお見せになる “ お父様 ” のお顔なんだなって思ったわ。あんなに素敵な絵をご覧になったら、王様もお元気になってくださるはずよ。そうでないと……」
一度目の人生のいろいろな記憶が、リンディの顔を苦しげに歪ませる。
(王様の寿命も、お義父様と同様、きっと変わらない。同じ日、同じ時刻に神様に召されるはずだ。
一度目の人生では絵の具を飲んで亡くなってしまったけれど……二度目はどうなんだろう。もうルビー色の絵の具は持っていないし、絶対にお部屋で二人きりにはならないと決めている。だけど……正直王様に近付くのは怖い。
それでも、もし罪人として裁かれるのが運命なら、抵抗せず受け入れようと覚悟は決めている。
ああ、でもそうしたら、旦那様まで巻き添えに……。一度目の人生では離縁して他人になっていたけれど、今はれっきとした夫婦だ。今から離縁届を出しても、受理されるまでに数ヵ月はかかってしまうだろう。
つらい……二度目の人生って、本当につらい。何が最善の選択なのか、本当にわからない)
恐怖に冷えていく身体が、不意に温かなものに包まれた。広いそこからは、心地よい鼓動と、日だまりのような匂いがする。
(一度目も二度目も、変わらないこの匂い。お義兄様が旦那様になったって、少しだけ意地悪になったって、何も変わらないこの匂い。
ずっと……ずっと……大好きなルーファスだわ)
ぐりぐりと顔を埋め、夢中で匂いを吸い込み、またぐりぐりと顔を埋める。
(このまま時が止まってくれたらいいのに……)
頭上からふふっと漏れる息に顔を上げれば、笑顔の夫に見下ろされていた。美しい喉仏が動き、大好きな声が子守唄のように響く。
「『旦那様じゃないと食べられたくない』んだろう?」
あまりの心地よさにとろんとしていたリンディは、深く考えずにこくりと頷いた。
「『痛いのも骨になるのも、旦那様がいい。不味いなら美味しくなるように頑張る』んだろう?」
そういえば、いつかそんなことを言ったかなあと、また頷く。
「じゃあ今夜、希望通り食べてやるよ。味見なんかじゃなく、骨になるまで食べ尽くしてやる」
(骨になるまで……やっぱり痛そうだな。でも、頑張るって言っちゃったしなあ)
そうぼんやり考えながら、頷きかけた次の瞬間──
耳朶をガブッと噛まれ、リンディはひゃあと飛び退いた。




