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時を戻した白鳥は、カラスの愛を望まない  作者: 木山花名美


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第86羽 たった一度だからこそ

 

 暗い部屋の中、蝋燭の灯りが照らす父の寝顔を、夫婦は静かに見守る。

 一度目の人生と違うのは、デュークの胸のクラヴァットにリンディの刺繍がないことだけ。静寂が時をも包み込むような、この哀しい空間は同じだった。


 医師や使用人たちの話によると──

 デュークは亡くなる前のひと月を、本当に穏やかに過ごしていたらしい。

 身体は思うように動かせず、臥せったままの日も多かったが、とにかくよく笑っていたと。そしてその傍には、いつもフローラがいたと聞かされた。


 義父から母を奪ってしまった二度目の人生。

 自分が幸せになりたいがために、義父を不幸にしてしまった二度目の人生。

 母と再会し、恋に落ちて、最期は幸せに逝けたのだろうか。


 肖像画を描いたあの時とは別人のように、穏やかで幸福な寝顔に、リンディはそっと触れる。


(一度目の人生でお義父様を失った後、もう一度だけでいいから、少しだけでもいいから会いたいと、毎日毎日考えていた。二度目の人生で生きている姿を見た時、話が出来た時は本当に本当に嬉しかった。でも……今は、会わなければ良かったとさえ思う)


 大切な人との別れを、二度も乗り越えなければいけない。その苦しみに、リンディの涙の器はひび割れ、もう、うまく泣くこともできなくなっていた。



 時折父の顔に触れながら、ただぼんやりとする妻をルーファスは見つめる。あんなに父に懐いていたのだから、もっと取り乱したり、泣きわめくかと思っていた。セドラー家の宿命のことは伝えていたとはいえ……いざ、この時を迎えた妻は、驚くほど冷静だった。


 父を映す青い瞳は、空よりも海よりも遥かに透明で、無機質な硝子玉のようだ。何となく、生きている自分よりも、旅立った父に近い気がして……

 このまま遠くへ離れてしまうのではないかと、ルーファスの背筋が凍りつく。


 白い左手を掴み、自分の両手で力強く包み込むが、妻は何の反応も示さない。


(冷たい……何と冷たい手だろう)


 擦ってもまだ冷たい指先に、唇を当て吐息をかける。それでも自分を見ない妻に恐怖を覚え、気付けば腕に抱き寄せていた。




 無事に葬儀を終えたその夜、リンディは喪服のまま芝生に寝転がった。一度目の人生で、自分の部屋の中庭だったここで、いつかのように藍色の空を見上げる。

 二度目の18歳になったあの日、自分を祝福してくれていた眩しい星は、今はただ哀しく瞬く塵に見えた。


「リンディ」


 ベルの音も母フローラの声も、あの日と変わらない。


(これは悪夢だろうか……目を瞑り開ければ、あの日に戻って元気な父に会えるだろうか。でもそうしたら、また別れの苦しみを味わわなければいけない。

 きっと私は、大切な人を失くすたびに、何度も何度もこうして愚かなことを考えるのだろう。


 もう、別れは一度きりでいい。つらくても、やりきれなくても……たった一度だから、何とかその苦しみを乗り越えられるのだわ。

 生も死も、たった一度だからこそ尊い。どんなに文明の針が進もうとも、神の領域を超えてはいけなかったのだ)


 リンディは左手を伸ばし、禁忌を犯したその指輪と、高く尊い星を重ねた。


 フローラも喪服姿のまま、娘の隣にごろんと寝転がる。母娘二人、空を見上げながら、しばらく深呼吸を繰り返していた。


「素敵な恋をしたわ……」


 歌うような、優しく美しい声色で、フローラは呟く。


「出会うべきだった大切な人に出会っていない。その人を探し求めている気がするって、前に話したのを覚えている?」


 リンディは顔だけ母の方へ向け、こくりと頷いた。


「デューク様と出会ってね、“ 幸せ ” の隙間がピッタリ埋まったの。“ 幸せ ” が完成したと言った方がいいかしら。この先どんなに良いことがあっても、きっとこれ以上の幸せはないと思うから」


「……もう会えないのに? 話したり触れたりできないのに? こんなに苦しいなら、出会わなければ良かったって、そんなふうに思ったりしない?」


 フローラはふふっと笑うと、芝生に置かれた娘の手を握る。


「全然思わないわ。だってあの人に出会わなかったら、ずっと何かが足りないままだったもの。あの人を失う苦しみだって……私の “ 幸せ ” には、全部必要なことだったのよ」


「苦しくても……幸せなの?」


「もちろん。人を愛するってね、案外苦しいことの方が多いかもしれないわよ。切ない胸に向き合ったら最後、自分の爪で必死に掻きむしらなければならないのだから。いつかはこうして、どちらかが先にお別れしなければいけないしね」


 明るい調子とは反対に、フローラの手は震え始める。リンディはごろんと身体を向け、両手で強く握り返した。


「こんなに苦しいのも、こんなに哀しいのも……あの人をたくさん愛していたから。だから私は幸せ……幸せだわ。でも……すごく……すっごく寂しい」


 パタパタと芝生を濡らし、濃い草の香りを立ち昇らせる母の涙。一度目の人生では気丈に振る舞っていた母の、裸の部分に触れた気がして。こうして泣いてくれたことに安堵する。

 リンディは幼い時と変わらぬ仕草で、母にピタリと寄り添い、震える背を撫でた。


 一度目と全く同じ日、同じ時刻に神に召されたデューク。

 それはリンディ自身も、決して寿命から逃れられないことを意味しており……恋人に次いで娘に先立たれる母を思うと、激しく胸が痛んだ。



 ◇


 クリステン公爵となったルーファスは、しばらく王都へは戻らず、セドラー家の屋敷から仕事へ通うことにした。契約書の “5” があるため、リンディにもここから通えと命じ、離れることを許さない。


 毎朝早く起き、二時間ほどかけて王宮へ通うのは大変だったが、ルーファスはこの通勤時間が好きだった。

 ことことと揺れる馬車の中、微睡む妻の肩を抱き、自分も瞼を閉じるフリをする。彼女がぐっすり眠ってしまえば、手だって自由に握れたし……白い頬や、薔薇色の唇など、色々な所に触れ遊ぶこともできた。


 詐欺に遭ったあの日以来、遠くなってしまった距離が、この狭い車内ではぐっと縮まる。それが嬉しかった。

 相変わらず、見えない距離は広がっている気がしていたが……なるべく考えないようにしながら、ただこの時間に身を委ねていた。


(彼女といると楽で、そして苦しい。もっと話したい、もっと一緒にいたい、もっと……触れたい。そう思うことも、それを素直に言えないことも苦しかった。

 パンは香ばしいし、うさぎのフルーツは甘酸っぱくて嬉しくなるし、毎晩手を握ればぐっすり眠れる。だけど今は、それだけでは楽になれず、むしろ苦しくなる。


 パンもフルーツも、同じテーブルに向かい合って一緒に食べたら? 握った手を引き寄せて、唇を落とし、肌を重ねたら?

 きっと楽になれるのかもしれない。では、なぜ楽になるのだろうと考えると、答えが出ずにまた苦しくなる。


 闇の男は、あれから自分に背中を向け、こちらを振り向かなくなった。怒っているのか、穏やかなのか、その表情は一切見えない。

 “ 無 ” であることが堪らなく不気味で……いっそ恐怖でも構わないから、何かを感じたいとすら思う。

 おかしいな。自分はこんな闇を求めていたんじゃないのか。何も無い、感じない世界にいたかったはずなのに。


 彼女と会って、闇が不完全になり、彼女と結婚して、闇が穏やかになり…… “ 苦しみ ” と “ 楽 ” を繰り返した結果、今は、苦しみの方が勝っている。

 彼女がもし、自分の前から消えてしまったら、何もなかたった頃に戻って、何もなかったように楽になれるのだろう。だが、果たしてそれは、自分の “ 幸せ ” なのだろうか)


 くるんと上を向く金色の睫毛をなぞれば、瞼がくすぐったそうに震える。さりげない鼻をキュッとつまめば眉間に皺が寄るし、薔薇色の唇をつついては、少し尖った口がまたふにゃりと元へ戻る様子を楽しむ。

 寝息とともに漏れる吐息は、やはり甘く……猛毒を含んでいるのだろう。


 柔らかい身体を腕に抱けば、毒の香りに包まれ、胸がギュウと苦しくなる。苦しいとわかっているのに離れたくない。

 ──離したくない。


 いつかまた、自然と “ 楽 ” に変わる時が来るのかもしれない。それまでは彼女の傍で、この苦しみに耐えてみよう。



 ◇◇◇


 数週間後のとある休日。

 亡き父デュークの机で、ルーファスは執務を行っていた。セドラー家の宿命について打ち明けられるだいぶ前から、領地や屋敷の管理、事業のあれこれまで、父から細かく教わっていた。今思えば、遺された息子が困らないようにと、その一心だったのだろう。


 今や自分はセドラー家の当主であり、公爵であり、そして大臣だ。認められればいずれは宰相となり、王太子殿下を支えていくかもしれない。

 父亡き後、この場所に一人立たされることに怯えていたが、いざその時が来てしまえば、案外すんなり受け入れられていた。


 父の代から引き継ぐ優秀な家令もおり、今のところ大きな不安は感じていない。

 ただ一つの問題を除いては──


「旦那様、ローリー・ヘイズが謁見を求めております」


 またか……とルーファスは額を押さえ、重い気持ちで立ち上がった。


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