第84羽 僕に食べられてもいいの?
「一緒に……寝てほしい?」
「うん」
「どうして?」
「さあ。何を考えているのか、僕にもよくわからないけど。一緒に寝ても、男女の仲にならないか確かめたいんじゃない? それが僕たちへの処分だって」
「男女の仲……」
口をつぐみ、しばらく考えを巡らすリンディの横で、ヨハネスも先程の一悶着を振り返る。
(ルーファス様を刺激しすぎてしまったな……。冷静にと思えば思うほど、歯止めが効かなかった。
だってそうだろう。自分の妻と他の男を、一晩同じ部屋で過ごさせるだなんて……嫉妬に駆られてとはいえ酷すぎる。
あの反応からして、やはりルーファス様はリンディをまだ抱いていない。抱きたくても踏ん切りがつかないと言ったところだろうか。
可愛いリンディを奪って、“ 夫 ” になったくせに。抱きたいならさっさと抱けばいい。愛を伝えたいなら伝えればいい。そうしたくてもできない自分に対し、つまらない嫉妬をぶつけるなんて。これ以上残酷なことはあるか?
むしろ自分の方が、どれだけルーファス様に嫉妬しているか。
あのアパートの外で、笑い声を聞いた時の気持ちが……ままごとみたいな食卓を羨む気持ちが……夜が来るたびに、抱かれていなければと願う気持ちが……彼女を愛してほしい気持ちと、手放してほしい気持ちとで葛藤する……この苦しみがわかるか!
もしルーファス様と、中身が入れ替われたらなんて。最近では、そんなバカげたことを考える自分すらいる。
でもきっと、リンディは気付くんだろうな。外見はルーファス様でも、中身が僕であることに。そして結局は、僕の姿をしたルーファス様に気付き、愛するんだ。
ああ、想像までもが虚しい。
ルーファス様は今、リンディをどのくらい想っているのだろう。きちんと愛を自覚しているのなら、別の男と一晩過ごさせるなど絶対にしないはずだ。差し詰め玩具が自分の思い通りにならずに、ごねてる子どもといったところか)
「ヨハン兄様……怒っているの?」
不安げにそう問われ、ヨハネスは自分の顔が険しくなっていたことに気付く。「怒ってないよ」と慌てて微笑みかけ、下がっている彼女の眉を、長い指で安心させるように撫でた。
ほんの少し眉を和らげたリンディは、消え入りそうな声で呟く。
「ヨハン兄様…… “ 男女の仲 ” って、“ 男女の関係 ” と同じ?」
「うん? まあ……そうだね」
「 “ 男女の関係 ” って、裸になって男の人に食べられることよね?」
「……うん」
「一緒に寝ても、男女の仲にならないか確かめたいってことは……裸で一緒に寝ても、ヨハン兄様が私を食べないか、“ 反応 ” しないか確かめたいってこと?」
「まあ……そうだね」
「旦那様は、私を他の男の人に味見させたいの?」
「そう……かな?」
ヨハネスは、心の中で首を傾げる。
(何だろう。間違ってはいないはずだが、彼女の発言には妙なズレを感じる。確か前にもこんな違和感を覚えたことが……。ああ、そうだ。アリエッタ王女の話をしていた時だ)
『お義兄様が王女様に反応しなくて、王女様が発散して惨めになるとどうなるの?』
続いて、ルーファスの言葉を思い出す。
『違う。アイツは何も知らない。男女のことを何も知らない』
──ああ! そういうことかと、勘のいいヨハネスは理解した。
(どうせ知らないなら、全く知らない方がいいだろうに。食べるだの味見だの、中途半端な知識を一体誰に植え付けられたのやら)
緊張感が抜けていくヨハネスの隣で、リンディは今にも泣きそうな声を上げる。
「私が不味くて食べられないから、不味くてもう要らないから、ヨハン兄様に無理やり食べさせたいの? それが旦那様の処分……罰なの?」
ヨハネスは身体を起こし、両手で目を覆うリンディを見下ろす。
「不味いって、ルーファス様にそう言われたの?」
「うん……白いから不味そうって。少し唇を噛んで味見したけど、やっぱり不味いって」
(そんな訳ないだろう……何言ってるんだ、あの人)
いかにも甘そうな薔薇色の唇を見て、ヨハネスは呆れる。
「私、旦那様が楽になることなら何でもしてあげたい。私を食べて楽になるなら食べてほしい。でも不味いし、変だし、頭はおかしいし。パンを焼いてあげることと、フルーツを切ってあげることと、毎晩寝る前に手を繋いであげることしかできない。あと少しで死んじゃうのに……もうこれ以上幸せにしてあげられないの」
あと少しで──
リンディの悲痛な叫びに、ヨハネスは震える。
「私がヨハン兄様に食べられて骨になってしまった方が……その方が旦那様は幸せになれるの?」
(……骨に。やっぱり誤解しているな)
切ないのに可笑しいリンディの言葉に、ヨハネスはフッと笑い声を漏らす。
するとリンディは、目を覆っていた手を下ろし、無垢な顔でヨハネスを見上げた。
(綺麗だな……リンディは、本当に綺麗だ)
青い湖のように潤んだ瞳。瞬きをすれば、澄んだ涙が目尻へ流れ、金髪へ溶けていく。
濡れてキラキラと輝くその髪を、伸ばした手で一房掬う。石鹸の香りを吸い込みながら唇を落とすと、ヨハネスは華奢な身体の上に跨がった。
「旦那様が幸せになれるって言ったら……どうする? 僕に食べられてもいいの?」
(頼む。どうか、どうか嫌だと言ってくれ。
今ならまだ、止められるから……愚かで卑怯な自分を止められるから……)
そんなヨハネスの願いも虚しく、リンディはあっさりと答える。
「うん、いいわ」
「心も身体も痛むかもしれないよ? ……それでもいいの?」
「うん……でも私、美味しくないの。味見をして、どうしても無理だったら、途中で残してね」
綺麗なのに可笑しくて……そして堪らなく可愛いリンディの言葉に、ヨハネスはまた笑う。
「残したりなんかしないよ。ちゃんと最後まで、骨になるまで食べるから」
ヨハネスの熱い指が、金色の髪から白い頬へ、そして薔薇色の唇へと辿り着く。だが、高まる彼とは逆に、リンディの身体は冷たく震えていた。
(ルーファス様がリンディを愛さないなら、あと少しで消えてしまう命なら、僕がリンディを温めよう。もう明日、二人で死んでしまっても構わない)
ヨハネスは燃え上がる両手でリンディの頬を包むと、ゆっくり唇を落としていった。
◇
暗い……真っ暗だ。
周りも、上も下も、どこを向いても暗闇ばかり。
心を無に包んでくれる、冷たくて心地よい世界。
何も、誰もいない。自分さえも存在しない……はずなのに……
……ああ、またお前か。
黒髪で、気味の悪い赤い目の、自分にそっくりな男が一人で立っている。いつも男の傍にいる……話して笑い合っている “ 何か ” は、どこにも見当たらない。
やがて男は、哀れむでも微笑むでもない、鋭い視線をこちらへ向ける。
怒っているのか?
いつもはその場から動かず視線だけを送る男が、今日は凄まじい形相で、何かを叫びながら自分へ近付いて来る。
止めろ……来るな……こっちへ来るな!!
もう少しで男と重なりそうになり、咄嗟に突き飛ばす。生々しい感覚に、ハッと目を開けた。
汗でぐっしょり濡れた身体が、荒く喘いでいる。
ルーファスは、今までとは比較にならない恐怖に震えていた。
(最近はずっと穏やかだったのに、なぜ……)
ここは? と辺りを見回し、最初に目に飛び込んできたのは、テーブルに並んでいる瓶。床には、割れた破片と粉が散らばっている。
そして、汗だくの身体を横たえていた場所は、ソファだと気付いた。
(いつの間に闇に飲まれたのだろう。全く記憶がない。確かヨハネスと話して、ヨハネスが部屋を出て行って……)
『あなたの可愛い奥様と、ただの護衛である私が、一晩同じ部屋で過ごしてもよろしいのですよね?』
『ではお楽しみに』
全身から、冷たい汗が噴き出す。時計を見れば、あれから既に一時間以上は経っていた。
ルーファスの身体は勝手に跳ね起き、革靴の底を白く染めながら、廊下へ飛び出した。
向かったのは妻の部屋だった。恐る恐る開けた扉の先、更に奥の寝室へと足を踏み入れれば……
ランプが照らすベッドの上で、男が華奢な身体に覆い被さっている。女の頬をすっぽりと包む手の隙間から見えたのは、あと僅か数センチで重なろうとしている、二つの唇だった。




