第83羽 ヨハネスの怒り
(頭が……おかしい……)
ルーファスから放たれたその言葉は、鋭い矢になってリンディの心を貫く。
それは一度目の人生で、本当に心臓に矢を受けた時と同じ……いや、それ以上の痛みだった。
(どうしてだろう。頭がおかしいなんて、もうとっくに自分でもわかっているのに。何で旦那様に言われると、こんなに胸が痛いんだろう)
『君は変なんかじゃないよ、リンディ』
『でも……みんなとは全然違うわ』
『違って当たり前だろ。君はこの世に一人しかいないんだから』
『違ってもいいの?』
『もちろん。君は特別な子だよ。何しろ、僕に大嫌いなブロッコリーを食べさせたんだから』
『君は、君のままでいいんだよ』
あまりの激痛に、心も身体も動けなくなる。
「……おい」
ルーファスの呼び掛けにも答えず、リンディは虚ろな瞳から、ただ涙を流し続ける。それは豊漁祭の日、砂浜で座り込んだ時とよく似ていた。
そんな妻の姿を見て、ルーファスの胸も激しく痛み出す。もうこれ以上見たくないと、冷たい言葉を放った。
「出ていけ」
ますます身体を強張らせるリンディを、ルーファスは怒鳴りつける。
「出ていけ!!」
それでも動けないリンディの身体を、ヨハネスは何の許可も取らずに抱き上げ、ルーファスを振り返ることなく部屋を出て行った。
一人残されたルーファスは、テーブルに並ぶ瓶を手に取り、苛立たしげに蓋を開ける。白い粉を手に取り出し、舌先で掬った。
(砂糖と薄荷か……明らかに薬ではない、安っぽい菓子だ。こんな物のために、アイツは簡単に結婚指輪を渡したのか。しかも指輪を失ったことより、父からもらった絵の具を失ったことの方を悔やんでいるなんて。
おまけにヨハン “ 兄様 ” を庇い、ヨハン “ 兄様 ” に抱かれ部屋を出ていった。一番気を遣わなければならない夫を差し置いて……アイツは一体、誰のものなんだ!?)
黒いものが炎のように蠢き、全身へ広がっていく。
ルーファスは堪らず、瓶を掴み、力一杯床に投げつける。飛び散る破片と白い粉を、目障りな護衛に重ねながら、ギリギリと足で踏みつけた。
リンディを侍女に託したヨハネスは、さっきルーファスと話をしていた執務室へ戻っていた。
彼の胸は怒りに満ちていたが、落ち着け、リンディのために冷静になれと深呼吸しながら歩く。執務室の前に立つと、さっきまでリンディを抱いていた手を握り締め、強くドアをノックした。
「……大旦那様をお救いしたい一心でされたこと。どうかそのお気持ちを汲み、奥様をお許しください。元はといえば、男を追い払えなかった私に全ての責めがあります。いかようにもご処分を」
深く下げられるミルクティー色の頭に、ルーファスは乾いた笑みを漏らす。
「護衛と主人が互いを必死に庇い合う……はっ、滑稽で反吐が出そうだ」
ルーファスは頭を下げたままのヨハネスに近付き、髪を掴んで強引に上を向かせた。
「いいだろう。望み通り、二人まとめて処分してやるよ。……お前、今夜あの女の寝室で寝ろ」
「……は?」
「あの女と一晩同じ寝室で過ごして、何もないなら許してやる。だが、もし手を出したら……前に忠告した通り、目の前で可愛い “ 妹 ” を殺してやるよ」
ヨハネスは耳を疑う。
やがて……フッと嗤うと、自分の髪からルーファスの手を振り払い、蔑むように言った。
「あなたはとことん哀れな人ですね」
「……何だと?」
「 “ もし手を出したら ” ? 好きな女と一晩同じ部屋で過ごして、手を出さない男なんているか。……姦通罪? ああ、上等だ。あの柔らかくて甘い身体を思う存分抱いた後、二人一緒に死んでやりますよ。あなたに殺される前にね」
「……お前!!」
胸ぐらを掴もうとするルーファスの手を、またしても簡単に振り払い、ヨハネスは続ける。
「形ばかりの哀れな “ 夫 ” は、まだ “ 妻 ” の肌を知らないのでしょう? ああ、肌どころか唇すら知らないのか? たまに話して、たまに食事する程度の同居人だもんな。ままごとみたいにパンだのフルーツだのって……それなのに夫面して、嫉妬だけは一人前にするくせに」
カッとなったルーファスは、ヨハネスに殴り掛かる。だが、簡単に避けられ、自分で撒き散らした粉の上に倒れ込んだ。手を突いた拍子に破片が刺さり、床に赤い血がじわりと滲んでいく。
ヨハネスはしゃがむと、血の滴るルーファスの手を緑色の光で癒し、勝ち誇ったように笑う。
「まさか本当に、あのアパートで私たちが何もなかったと思っていた訳じゃないですよね? 嘘だとわかって、見逃してくれていただけですよね? まあ……見逃すも何も、結婚前のことをどうこう言われる筋合いはありませんが。彼女の “ 監視 ” を任せたのは、他でもないあなたですし。それを承知で結婚したんでしょう?
つまり本当の “ 夫 ” であるあなたよりも、偽物の “ 兄 ” である私の方が、実質、奥様とは “ 夫婦 ” に近いという訳です」
「……違う。アイツは何も知らない。男女のことを何も知らなかった! 嘘をつくな!!」
「なぜそう言い切れるんですか? 女を避けて生きてきたあなたに、女の……リンディの何がわかる?」
ルーファスの脳裏に浮かんだのは、幼い自分を捨て、あっさりと命を絶った母。夫と息子がありながら、男との愛欲に溺れた醜い女だった。
燃え上がる激情に、ルーファスは目の前の長い足を掴んで押し倒す。ヨハネスは咄嗟に受け身を取るも、背中を思い切り床に打ち付け、痛みに顔をしかめた。
「アイツは、あの女とは違う……絶対に違う!!」
ルビー色の瞳には、激しい怒りと、それ以上の闇が渦巻き、昏い熱を帯びている。それはヨハネスにまで伝染し、昏い言葉となってルーファスに跳ね返った。
「それは明日の朝、奥様がどんな顔をなさっているかでおわかりになるでしょう。一晩じっくりかけて、あなたの知らない “ 女 ” の顔を引き出して差し上げますよ。……まさか、クリステン卿ともあられる方が、前言撤回などなさらないですよね? あなたの可愛い奥様と、ただの護衛である私が、一晩同じ寝室で過ごしてもよろしいのですよね?」
瞳に哀しみを湛えながらも何も答えぬルーファスに、ヨハネスは呆れ顔で息を吐く。ズキズキする背中を擦りながら立ち上がると、「ではお楽しみに」と言い残し、颯爽と部屋を後にした。
寝支度を済ませたヨハネスは、リンディの部屋へと続く廊下を歩いていた。幸い誰とも擦れ違わなかったが、彼女の夫から命じられたのだから、何も疚しいことはない。そう自分に言い聞かせながら、堂々と桜貝色のドアを開けた。
ベッドのある奥の寝室からは、ランプの灯りが漏れ、家具の影を映している。
(……あれからどうしただろう。ちゃんと着替えて寝かせてもらっただろうか)
まるで幼い妹を気遣うような考えに可笑しくなる。
ついさっき、逆のことを言ったくせに。……別の意図でこの部屋に来たくせにと。
寝室に足を踏み込んだ瞬間、床に広がっていた光景に、ヨハネスは驚き息を呑んだ。
部屋のドアと同じ、桜貝色の長い毛足の絨毯には、何かが書かれた紙が何枚も散らばっている。その一枚に、血の染みを作りながら、白い身体が横たわっていた。
「……リンディ!」
ゾッとし覗き込むが、リンディは瞼を閉じ、ふがふがと寝息を立てている。鼻の下は赤黒く固まった血で塞がり、呼吸をするのもつらそうだ。
鼻血だと気付き安堵したヨハネスは、念のため手をかざし、鼻の粘膜を保護しておく。
絵でも描いていたのか? と手に取った紙には、何かの計算式らしき数字がビッシリと書き込まれていた。それは、算術は割と得意であるヨハネスでも解けない超難問だ。合っているのかはわからないが、その全てにきちんと答えが記入されている。周りを見ても、特に問題集らしき本は見当たらない。
うーんと苦し気な声にハッとし、枕元にあったタオルを濡らして、鼻を拭いてやる。すると、顔がしかめられ、青い瞳がパチリと開いた。しばし見つめ合った後、リンディは鼻の下を手でこすり、たどたどしく言う。
「ヨハ……兄様?」
「起こしてごめん……。鼻血、出ていたから」
血で汚れたタオルと、スンと鼻に抜ける生臭い臭い。リンディは、ああと頷き身体を起こそうとするも、寝起きで力が入らず床へ戻った。
ヨハネスはその頼りない背中に手を回し、軽々と抱き上げベッドへ運んだ。糊のきいたシーツの上へ寝かせ、自分も隣に寝転がると、彼女の腹に布団を掛け、トントンと叩く。
優しいリズムと温もりに、リンディの瞼は再び閉じそうになるが……あることに気付き、バッと開けた。
腹を叩く手を止めさせると、くるりと横を向き、その手の持ち主へ呼び掛ける。
「ヨハン兄様!?」
「うん」
「何でここに!?」
「命令されたから。ルーファス様にね」
「……旦那様に?」
「うん。今晩君と、一緒に寝てほしいんだってさ」




