第82羽 失った宝物
「いやあ、丁度お屋敷へ向かおうとしていたんですが……バッタリお会いできて良かった」
ヨハネスは剣の柄を握りながら、リンディの前へ立つ。普段は穏やかな緑色の瞳を、鋭く光らせ男を観察した。
派手なだけで品のない服に身を包んだ男。その表情からは卑しさが滲み出ている。
(……主に近付けてはいけない人間だ)
そう判断し、一層警戒心を強める。
「私に何かご用ですか?」
背中越しにひょこっと顔を出すリンディを、ヨハネスは後ろ手でぐいと押し込む。
「ええ。私はこの辺りの病院へ医薬品を卸している問屋なんですけどね、是非奥様にご紹介したい新薬がございまして」
「新薬?」
「はい。どんな進行性の癌にも効く、新薬なんです」
「……癌!?」
前へ飛び出したリンディを、ヨハネスは素早く羽交い締めにした。先日の豊漁祭での一件以来、主の安全のために鍛えてきた瞬発力を、ここぞとばかりに発揮する。
「癌が治るの!?」
「ええ。もう手の施しようがない末期の患者も、それで完治したんですよ」
「本当? 本当に本当!?」
「もちろん。公爵家の若奥様に、嘘などつきませんよ。いえね、知り合いの医師伝いで聞いた話によると……」
男は眉を下げ、小声で続ける。
「クリステン公爵……セドラー宰相殿が、癌を患っていらっしゃると」
痩せた義父の姿が浮かび、リンディは思わず涙目でこくこく頷いてしまう。それを見た男が、僅かに口角を上げたのを、ヨハネスは見逃さなかった。
「我が国のために尽くしてくださっている尊い宰相殿に、ぜひ新薬をお試しいただきたいと思っておりまして。何せまだ承認が下りていない薬なので、在庫も非常に少ないのですが」
『セドラー家のルビー色の瞳を受け継ぐ男子は、非常に短命で、多くが三~四十代で亡くなっている』
(……落ち着いて、リンディ。セドラー家の宿命だから仕方ないと、この間、旦那様から聞かされたばかりよ。だけど、だけど、もしかしたらってこともあるかもしれない。神様の決めたことには逆らえないけど、神様が気持ちを変えてくれることならあるかもしれない。あの時試しておけば良かった……ああすれば、こうすれば良かったと、もう後悔だけはしたくない)
「……欲しい。欲しいです、その薬!」
「奥様!」
ヨハネスは咄嗟に叫ぶ。護衛の分を超えていると解っていても、どうしても口を出さずにはいられない。男を鋭く見据えながら、ヨハネスは冷静に言った。
「約束もなしに、街中で奥様に話し掛けるなど無礼極まりない。まずは旦那様に許可を取ってからにしろ」
男の顔は一瞬強張るが、すぐに平静を装う。同情を誘うようにさらに眉を下げ、ガラガラと掠れた声で詫びた。
「それは……大変失礼致しました。こうして奥様と偶然お会いできたことが嬉しくてつい。何しろ私も急いでおりましてね。もしお屋敷でお会いすることができなかったら、泣く泣くこの薬を持ち帰り、他の方にお譲りせねばならぬところでしたから」
「……他の人へ?」
食い付いたリンディに、男はまたもや口角を上げる。
「ええ。実はとある高貴なお宅の奥様も、末期の癌で苦しんでおられましてね。もしセドラー家がお受け取りにならない場合は、すぐにお譲りする約束をしているのです。旦那様に許可をいただいてからということであれば……申し訳ありませんが、今回はそちらの奥様に」
残念そうに鞄を撫でる男に、リンディは慌てて尋ねる。
「あのっ……旦那様には許可をもらっておきますから。また、新しいのを持って来てくれる?」
「それは難しいかもしれませんなあ。先程申し上げましたでしょう? 在庫が非常に少ないと」
「じゃあ、じゃあ、それを取っておいてくれる? 今夜旦那様がお帰りになったら、すぐに話してみますから」
「申し訳ありませんが、それはできません。癌は日に日に身体を蝕みますから、苦しんでいる方に、一日でも早くお届けしたいのです。そうですね……後三ヵ月ほどお待ちいただければ、新しい物を入手できるかもしれません」
(そんな……三ヵ月後なんて、もう……)
リンディは涙で曇る目を擦りながら、財布を取り出す。
「下さい。今すぐに、それを全部下さい」
「奥様! いけません! まずは旦那様へ……」
「ありがとうございます。ではどうぞこのままお持ちください」
男は叫ぶヨハネスを無視し、瓶が数本入った鞄を、丸ごとリンディへ手渡す。
「用法と用量は紙に書いてありますから。……で、こちらが請求書になります」
男が差し出した請求書の金額に、ヨハネスは驚愕し再び叫ぶ。
「いけません奥様! こんな大金!」
瓶を見てすっかり興奮したリンディの耳には、もう何も届かない。財布からありったけの紙幣を掴むと、男へ渡す。
「これで足りますか!?」
すると男の態度は一変し、小馬鹿にしたように、領収書を指で弾いた。
「足りる訳ないでしょう? どれだけ貴重な薬だと思ってるんですか。やはり今回はご縁がなかったということで」
そう言い鞄を取り上げようとするも、リンディは取っ手を強く握り締め離さない。
「今っ、今そこの銀行でお金を全部下ろして来ますから! 待ってて、ここで待ってて!」
「奥様!」
鞄を抱いたまま銀行へ飛んでいく後ろ姿を見て、男は卑しい顔でほくそ笑んだ。
数分後、リンディが男へ渡したのは、給料のおよそ三ヵ月分の現金だった。ルーファスと結婚してからは生活費に使うこともなくなったので、あの安アパートの家賃以外は、こうして丸々銀行に預けていたのだ。
男は紙幣を数え溜め息をつくと、請求書をヒラヒラと揺らす。
「奥様……この数字が見えないんですか? これっぽっちで足りる訳がないでしょう。まさか公爵家の奥様ともあろう方が、これしか用意できないとは」
「ごめんなさい……私、今これだけしか。一緒にお屋敷に来てくれればもう少し」
その言葉に、男は警戒心を露にする。頭をポリポリ掻くと、面倒臭そうに言った。
「まあ……私ら国民が、どれだけ宰相殿にお世話になったかを考えればね。今こそ、そのご恩をお返しする時なのかもしれません。いいでしょう、この金と……奥様が今身に着けていらっしゃる装飾品で、手を打つことにしましょう」
「装飾品……」
男はリンディの指やら首元を見て、顎をしゃくる。
「わかったわ!」
「奥様!」
もうこうして何度叫んだことだろう。ヨハネスの必死の制止も虚しく、リンディはパールとサファイアのネックレス、揃いのバレッタ……そして、あの指輪の上に光る、本物の金の結婚指輪までも、迷わず抜き取り男へ差し出した。
男はほくほく顔でそれらを懐にしまうと、まだ粘れると踏んだのか、リンディの鞄を覗き込む。
「他に何かお持ちではないですか? 幾らご恩返しと言えども、私も生活がかかっていますから。これだけでは少し……ねえ」
(どうしよう。もう、お金に替わる物なんて何も…………あっ、あれがある。お義父様の病を知ってから、御守り代わりに持ち歩いている物。大切な、大切な……でも……)
リンディの表情から何かを察した男は、声を張り上げる。
「仕方ないですねえ。他にないようでしたら、やはり薬は……」
「あります!!」
勢いよく手を上げると、リンディは鞄から絹の小袋を取り出す。紐をほどくと、ルビー色の紙が巻かれたチューブが、ころんと出てきた。
「これはヘイル国の珍しい絵の具なんです。値段は詳しくはわからないけれど……お母様が、馬一頭と交換できるくらいだって。まだ一度も蓋を開けていないし、価値はあると思います」
「へえ……」
男はキラリと目を光らせ、チューブを引ったくり懐へ入れてしまう。
(お義父様がくれた絵の具……優しくて、温かくて、世界にたった一つしかない絵の具。でも、これでもしお義父様の命が救えるなら。たとえ私が死んでも、旦那様は一人ぼっちにならない。この絵の具は、そのためにもらったのかもしれない)
宝物を失い泣きそうになるが、リンディは歯を食いしばって耐えた。
「では、その薬は奥様にお渡し致しましょう。本当はまだ全然足りませんがね。宰相殿のご回復を、遠くから祈っておりますよ」
──その夜、見るからに怪しげな瓶と請求書が並ぶテーブルを、ルーファスは力任せに叩いた。
「こんな法外な値段の薬がある訳ないだろう。この “ 0 ” の数が見えないのか。王都の一等地が買える額だぞ」
怒鳴っている訳ではないのに、その声は身の毛がよだつほど恐ろしい。
リンディは縮こまり、震える口から何とか言葉を発する。
「ごめんなさい……私、数字はよく見ていなくて。見たとしても100以上はモヤモヤしてよく解らないし、とにかくたくさんお金を用意しなくちゃって」
「……解らないだと?」
ルーファスは鼻で笑うと、請求書を指でつまみヒラリと落とす。
「ろくに確認もせず銀行で金を下ろし、ありったけの装飾品……結婚指輪まで差し出したと?」
「それだけじゃないの。お義父様が誕生日に下さった絵の具まで……」
(それだけ? 結婚指輪を、夫婦の証をそれだけだと? )
目の前でほろほろと涙を流す妻に怒りしか沸かず、その矛先は、リンディの横に立つヨハネスへと向かう。
「お前、なぜ止めなかった」
「……申し訳ありません」
深く頭を下げるヨハネスに、リンディは首を振る。
「違う、違うの。ヨハン兄様は、きっと私を止めてくれようとしていたの! 私が聞こえなかっただけ、聞かなかっただけ、だから私が悪いの!」
リンディはヨハネスの前に立ち、必死に庇おうとする。また、“ 兄様 ” と呼んでいることにも気付かず……
ルーファスは立ち上がると、自分の左手を突き出し、冷たい唇を開いた。
「この純金の結婚指輪にどれだけの価値があると思っているんだ。簡単な計算もできない、正常な判断もできない。護衛ごときに止められ、挙げ句にそれも聞けない。お前……前から思っていたが、本当に頭がおかしいんじゃないのか?」




