第80羽 カラス、罠に嵌まる
中古のベッドが、ギシリと鈍い音を立てる。
瞬きする間の出来事に、リンディはなす術もなく、こうして仰向けに押し倒されている。
覆い被さっているのは、険し過ぎるほど険しい顔の夫。その目付きだけで瞬殺されてしまいそうだ。
「悪かったな。ヨハネスじゃなくて」
きょとんと見上げる愛らしい猛獣に、危うく心が吸い込まれそうになり、ルーファスは目を逸らす。
(……騙されてたまるか!)
「ヨハネスのことを兄と呼ぶなと言っただろう。主人として、馴れ馴れしい態度は一切止めろと。なのに何度も何度も “ おにいさま ” などと……」
(おにいさま…………ああ!)
また口を滑らせてしまったのだと、リンディはようやく気が付いた。
「さっき言った “ おにいさま ” は、ヨハネスのことじゃないわ。その……別の……親戚のお兄様なの」
「親戚?」
ルーファスは怪訝な顔で妻を見下ろす。
妻には一体、何人 “ おにいさま ” がいるのかと。
「どこの親戚だ。お前との関係は?」
「えっと……お母様の従兄弟の……子供の……旦那さんの……再従兄弟の……その、遠すぎてよくわからないの」
キョロキョロ泳ぐ目に、夫はフッと冷たい笑みを浮かべる。
「へえ……そんな得体の知れないヤツを、“ おにいさま ” などと慕っていたのか」
「それは……」
「じゃあ “ タクト ” とやらは何だ。そいつも “ おにいさま ” なのか?」
「ううん、タクトは同い年だからお兄様じゃないの。誕生日も私の方が先だし。どちらかと言ったら弟ね。あっ、さっきの涼しい魔道具ね、タクトが作ってくれたの! 凄いでしょう? あのコップの魔道具も!優しくて、楽しくて、大好きな幼なじみなの」
(また “ 大好き ” か。誰にでも簡単に言いやがって。タクト、ヨハネス、お兄様……。ああ、全部イライラする)
「タクトのお家に遊びに行くとね、タクトのお母さんがいつも手作りのドーナツを山盛り出してくれるの。それがすっごく美味しいのだけど、食べた後はお腹が重くて動けなくて。こうして二人で床に寝っ転がってコロコロって……」
コロコロと身体を捩り逃げようとする妻に、体重を掛け押さえつける。ペラペラ喋り続けるうるさい口を手で覆うと、顔をぐっと近付け睨んだ。
「ヨハネスのことは、今後は “ ウェン ” と呼べ。“ タクト ” も “ おにいさま ” も……俺の前で口に出すことは、一切禁ずる」
リンディはふがふがと反論するが、口を塞がれているため、思うように喋れない。
(ふん。いい気味だ)
口から手を離すと、猛獣はプハッと息を吐く。動きが鈍っている間に、昨日噛んだ上唇を指でつっとなぞれば、ルーファスの口内にその味が甦る。
(少し甘かった気はするが、齧っただけではよくわからなかったな)
今度は下唇をなぞり、その味を想像する。
(こっちは苦いかもしれない。……確かめてみるか)
唇を近付けようとした時、ふわりと甘い香りが漂った。これか? とエプロンの肩紐を引っ張り、胸元の布にこびりついている絵の具に鼻を寄せるが、塗料のツンとしたにおいしかしない。
違う、これじゃないと、小さな耳元に鼻を寄せる。
(……これだ)
ただ甘いとしか形容出来ない香り。導かれるままに、もっと濃く香る方へと鼻を滑らせれば、真っ白な項の辺りに辿り着く。
「やあ……」
弱々しい声にハッと身体を離し、その顔を見下ろせば、金色の睫毛の下で、青い瞳がとろんと潤んでいる。
「くすぐったあい」
ふにゃっと困ったように眉毛を下げる妻に、ルーファスの胸は射抜かれ、頭が真っ白になった。昂る熱と、遠退きそうな意識の中、必死に理性を保とうとする。
『男の人は裸になると、狼になって女の人を食べてしまいます』
(ああ……妻が猛獣なら、自分は狼かもしれない。
いや、違う。自分が妻を食べるのではなく、妻が自分を補食しようとしているのだ。これが猛獣の罠だったとは……なんと恐ろしい)
夕べと同じく、白い頬を両手でペシャッと挟んでみるが、フグみたいな間抜け面ですら可愛く見えてしまう。
罠に嵌まったルーファスは、とうとう、潰れながらも艶めく薔薇色の下唇に齧りついた。そして、夕べよりももっと丹念に、丁寧に味わっていく。
(甘い……むしろ甘いからこそ猛毒なのかもしれない)
白フグは夕べのように暴れることなく、頬を赤らめながらも大人しく従う。
(これも罠だな、きっと。このまま進めば、自分は猛獣に喰い尽くされ、骨になってしまうかもしれない。この妖しいエプロンを取ってしまえば、毒牙から逃れられるのだろうか)
そう期待を込めながら、腰のリボンをシュッとほどいた時──
ぐうううううう……
ぎゅるるるるる……
けたたましい合唱が響いた。
そっと歯を離し、何事かと互いの目を覗き込んだ後、視線をゆっくりと互いの腹へ移動させる。と同時に、正午を告げる澄んだ鐘の音が、風に乗って窓から流れ込んで来た。
「お昼よ!!」
リンディは獣並みの腕力で夫を突き飛ばすと、ガバッと跳ね起き、テーブルへ飛んで行く。
持ってきたバスケットからあれこれ並べ終わると、ベッドで項垂れる夫をぐいぐい引っ張り、椅子に座らせた。
「さあ、私なんかよりもずっと美味しいお弁当を食べましょう! 夜でも裸でもないのに私を齧るなんて、旦那様ったら、よっぽどお腹がペコペコなんでしょう?」
毒を食らったせいで、まだ “ 反応 ” が収まらないルーファスは、身体を縮こめながらとりあえず頷く。
少しずつ落ち着きを取り戻し、テーブルの上を見れば、サンドイッチとチキンとカットされたフルーツが並んでいた。優に二~三人前はあるのではないかというその量に、ルーファスは驚く。幾ら猛獣でも、こんなに食べたら胃が破裂するだろう。
「たくさんありますから、遠慮せずに食べてくださいね」
「たくさんすぎるだろう。これを一人で食べるつもりだったのか」
それは……と言いかけ、リンディは口をつぐむ。
本当はヨハネスに差し入れるつもりで多目に作ったのだが、ここは言わない方がいいと、リンディにしては珍しく地雷を未然に避けた。よくわからないが、最近の夫はヨハネスの名を出すと、途端に機嫌が悪くなるからだ。
(そういえば昨日、『夫以外にフルーツをカットすることは禁止する』って契約を変更したのに、すっかり忘れていたわ。うん、これは絶対に言えない)
「……ええ! 絵を描くとお腹が空くから、つい作りすぎてしまったの。えーと……ほら、旦那様の好きなうさぎもたくさんいるのよ」
パカッと開けた平たい容器の中には、朝食と同じく、色々なフルーツのうさぎが遊んでいた。
思わず前のめりになりかけたルーファスは、ゴホンと咳払いをして誤魔化すも、その口元は綻んでいる。
それを見て、リンディはふふっと微笑んだ。
「やっぱり旦那様は、うさぎがお好きなのね。お祭りでもないのに、立ったままお行儀悪くつまみ食いされたくらいですもの」
ルーファスは何も言えず、フォークで林檎のうさぎを刺すと、渋い顔で口に放り込む。
「でもね、明日の朝食は、うさぎはお休みして白鳥を作ろうかと思っているの」
「白鳥? そんなもの作れるのか?」
「ええ、林檎で! 少し量が多くなってしまうから、一緒に食べられたら嬉しいのだけど……あっ、でも、寂しい訳じゃないからダメ? ただ一緒に食べたいって、そんな理由じゃダメ?」
ルーファスの顔は、さっきうさぎを見た時よりも、はっきりと綻んでいる。
「別に……うるさくしないならいい」
「ありがとう! 今朝はね、お弁当作りで忙しくて、一緒に食べられなかったから。だから凄く嬉しい!」
さらに綻びそうな口元を手で覆い、ルーファスはうさぎを飲み込む。
「サンドイッチも寄越せ」
「はい!」
分厚いパンに、品良く口を付ける夫。キラリと光る白い歯を見ている内に、身体に熱が甦り、リンディは慌てて目を伏せた。
(狼になるのは、本当に男の人だけなの? さっき私も、旦那様の綺麗な唇を齧ってみたいって、味見をしてみたいって、そう思ってしまったのに。
やっぱり私は変なんだな……旦那様の言う通り、猛獣なのかもしれない)
はあと甘い息を吐きながら、リンディはオレンジのうさぎに口付けた。
ドアの前に立つヨハネスは、薄い板を通して伝わる和やかな雰囲気から、意識を逸らし続けていた。
ほんの数週間前まで、リンディの隣は彼の居場所だった。可愛い妹に幸せになってほしい、ルーファス様と愛を交わし寿命を伸ばしてほしいと、心からそう思っていたはずなのに。失った今、こんなにもつらいなどとは思いもしなかった。
(これは罰だろうか……。本当はルーファス様の居場所だと知りながら、我が物顔で居続けたことへの。ルーファス様を哀れむふりをしながら、優越感に浸っていたことへの……)
◇◇◇
それから数ヶ月が経ち──
三ヶ国会議を無事に終え、仕事も落ち着いてきた二人の元に、デュークから一通の手紙が届いた。
『直接会って話したいことがある。夫婦揃って、至急帰って来てほしい』と……
最近義父となかなか連絡が取れなかったことを思い、凍てつくような恐怖がリンディの全身を駆け巡った。




