第79羽 可愛い猛獣
(ここに人間が住めるのだろうか……)
朽ち果てた建物を見上げ、ルーファスは絶句する。
以前妻の誕生日にここへ迎えに来た時、馬車の中からチラリと覗いたことはあるが、こうして外に出て見ると、想像以上に凄まじい。
(いや、忘れていた。あいつは人間ではなく獣だ。ここは獣の住処なのだ)
「旦那様、赤い部分は踏まずに昇ってください。危険ですので」
階段に足をかけた途端、前を行くヨハネスから注意される。何度もここへ来たことがわかる彼の慣れた足取りと、ギシギシ響く耳障りな音にルーファスは苛立っていた。
夫婦とそれぞれの護衛たちは、何とか無事に二階へ辿り着く。とてもドアには見えぬ薄い板の穴に、リンディは楽しそうに鍵を差し込み、錆びたドアノブを回した。
ドアが開くと、甘い不思議な匂いが外へ流れ出す。ルーファスは鼻をぴくりと動かし、何だろうと考えていた。
結婚前にヨハネスの助けを借りながら物を整理したため、室内は綺麗に片付いている。だが、剥がれた壁紙や腐りかけた床板など、外観同様、中もなかなか酷い有り様だ。
仕事で辺境へ視察に訪れた際、民家を改造した安ホテルに泊まったことはあるが、ここよりもずっと上等だったとルーファスは思う。
「さあ、どうぞ! 旦那様」
( “ どうぞ旦那様 ” か……その響きは悪くない。よし、猛獣の住処とやらを、とことん偵察してやろう。もしかしたら、何か弱味を握れるかもしれない)
非日常感に溢れた空間が、ルーファスの好奇心を掻き立てていた。
そんな夫の横からリンディはひょこっと顔を出し、二人の護衛へ呼び掛ける。
「暑いので、よかったらお二人も中へどうぞ!」
「いえ。我々は任務がございますので」
そう断ると、薄い板の左右に分かれ、ピシッと立つ。高貴な主に仕えていると一目でわかる立派な護衛と、少しつつくだけで崩れそうなオンボロアパート。何とも奇妙な光景がそこに生まれていた。
ルーファスは、妻の首根っこを掴み部屋に引き入れると、建て付けの悪いドアを乱暴に閉め、不満気に言う。
「護衛を中に入れる主人がどこにいる」
「だって、暑くて可哀想でしょう?」
「ヤツらは鍛えているから問題ない。それよりこっちが暑くて死にそうだ。護衛より、まずは “ 旦那様 ” に気を遣え」
「ああ! ごめんなさい。今涼しくしますから、そこの椅子に座っていてくださいね」
ずっと閉め切っていた部屋は、蒸し風呂状態だ。リンディは部屋中の窓を開けると、あの魔道具をルーファスの前へ置き、羽根を動かす。ひんやりと流れる心地よい風に、ルーファスは火照った顔を近付け目を閉じた。ところが、すっきりしてきた頭には、次第に別の熱が昇り、もやもやと淀んでいく。
(もし自分がいなかったら、ヨハネスは誘われるままに部屋へ入ったのだろうか。誰も見ていないのだから、密室で二人きり、どんなふうに過ごそうとも……)
怒りに燃えるルーファスの額に、何かが優しく触れている。妻がハンカチで自分の汗を拭っているのだとわかると、心が凪いでいった。……と同時に、ヨハネスにもこんなことをしたのだろうかと、また新たな怒りが沸いてくる。
揺れては乱れる自分の感情が苦しく、ルーファスは差し出された水筒に乱暴に口を付けた。
リンディも向かいの椅子に座り、別の水筒からこくりと水を飲む。古い部屋と安い家具にはそぐわぬオーラを放つ夫を見ながら、これは夢ではないかと、こっそり自分の膝をつねっていた。
(あの窓からお義兄様を想って王宮を眺めていたのは、ついこの間のことなのに。結婚して夫婦になれたなんて、本当に奇跡だわ)
感動が押し寄せ、リンディは溢れた想いをルーファスへ伝えた。
「旦那様がここに来てくださるなんて、すごく嬉しい。どうもありがとう」
にこにこと微笑みかけられ、ルーファスの感情はますます乱れる。
「別に……暇だっただけだ」
「旦那様のご用事は大丈夫なの?」
「別に……今日でなくても構わない」
「そうなの。狭くて落ち着かないかもしれないけれど、自由に過ごしてくださいね」
リンディは髪を一つに束ね立ち上がると、クローゼットへ行き一枚のエプロンを取り出す。絵の具で汚れたそれのリボンを後ろ手で結び、くるりとこちらを向いた瞬間──
ルーファスの心臓が、今までにないほど高鳴り、脳にドクドクと熱い血液を打ち付けた。
地味な服に汚れたエプロン、そこから飛び出る華奢な手足。目線を上げれば、真っ青な瞳が浮かぶ白い顔。それに……夕べ悪戯に齧った薔薇色の唇が、鮮やかに輝いていた。
(可愛いと……猛獣を可愛いと。確かに今、自分はそう感じている)
口から心臓が飛び出しそうになり、咄嗟に手で覆う。激しい感情の波に襲われ、ルーファスは苦しみを通り越して溺れ死にそうだった。
奥の部屋でキャンバスに向かい始めた妻を横目に、ルーファスは形だけの読書を続ける。鼓動はまだ収まらず、時折胸を押さえては深呼吸を繰り返していた。
(弱味を握るどころか、新たな弱味ができてしまった。ブロッコリーだけでも、こちらは充分不利なのに。こんなことなら図書館に行けば良かったか……いやダメだ、可愛い猛獣をヨハネスと二人きりなんかにさせられない)
ルーファスは本を畳み、両手で頭を抱え込む。
(なぜだ。なぜあんなに汚らしいのに、可愛いなどと感じるんだ? ……そうか。あんな汚い女が周りにいなかったから、珍しくて動揺しているだけだ。なにせ屋敷の下女ですら、もっと小綺麗な格好をしているのだから)
窓の絵を描き終わったリンディは、絵筆を置き夫を見る。ルビー色の瞳とパチリと視線がぶつかり、にこりと笑った。
「旦那様も描いてみますか?」
塗料の甘い香りに誘われ、ルーファスは自然と白いキャンバスの前へ座っていた。
(部屋に入った時から、この香りがずっと気になっていた。初めて嗅ぐはずなのに、懐かしいと感じるのはなぜだろう)
ヨハネスの時と同じく、夫の前にずらりと画材を並べると、リンディは楽しそうに言う。
「どれでも好きなのを使ってくださいね」
王都学園の芸術の授業以来、絵など描いたことのないルーファスは戸惑う。
首席で卒業した彼は、どの科目も好成績を収めていたが、芸術だけが妙に足を引っ張っていたことを思い出していた。絵画も彫刻も彼なりに真面目に取り組んでいたつもりだが……。何が良くて何が悪いのか、判断基準が曖昧なことで成績を付けられるのが、納得いかなかった覚えがある。
とりあえず一番描きやすそうな鉛筆を手に取ってはみたものの、何を描けばいいのやら。難しい顔で眉間に皺を寄せるルーファスに、リンディは一枚のキャンバスを見せた。
「これ、さっき私が描いた絵よ。そこの窓を描いたの」
空に王宮に木々。妻が指差す出窓の景色とその絵は、配置も何もかもが一致していた。ただ一つ違うのは……
「雪なんか降っていない」
そう、まるで白い吐息までもが見えそうな、見事な雪景色の絵だったのだ。
「暑いから降らせたくなったの。この国では一度も雪に会ったことがないけれど、私の心の中では何度も会っているから」
「変だな。在る物と無い物を一緒に描くなんて」
「芸術には、“ 変 ” が必要なのよ。ほら、この絵も見て」
リンディは壁から一枚のキャンバスを取り外す。それはさっきの雪景色と比べると、赤子が描いたのかと思うほど、技術が劣る木の絵だった。
「前にここでヨハネスが描いたの。そこの窓から見える木なんだけどね、林檎とオレンジが両方食べられる木なのよ。変だけど素敵でしょう? 大好きだから飾らせてもらってるの」
(ヨハネス……大好き)
もうルーファスの頭にはそれしか残っていない。危うく鉛筆を折りそうになりながらも、何とか耐える。
「……見てろ。もっとすごい絵を描いてやる」
ルーファスは闘争心をメラメラ燃やしながら、キャンバスへ向かい、手を動かし始めた。
彼は思い出していた。学生の頃、自分の絵を見た芸術講師が、感動のあまり肩を震わせていたことを。なぜそれが成績に反映されなかったのかは未だに謎だが、とにかく自信がある。その絵は……
「よし、描けた」
自信たっぷりに鉛筆を置き、汗を拭う。
わくわくしながらキャンバスを覗いたリンディは、彼の予想通り、わあっと感嘆の雄叫びを上げた。
「変! 変ですっごく可愛い!この豚!」
「……豚?」
「 “ お義兄様 ” も “ 旦那様 ” も、どちらもやっぱり絵は変なのね。“ 変 ” は芸術! “ 変 ” は素敵!」
(おにいさま……またヨハネスか!)
握った拳に、ピキピキと青筋が立つ。今鉛筆を握っていたなら、間違いなく真っ二つに折れていただろう。
「これは豚じゃない。……お前の顔だ!」
「私?」
講師を泣かせたほど得意な人物画を豚呼ばわりされ、ルーファスは憤る。
「私の顔、旦那様には豚に見えているの?」
「ああ、白豚だ。いや、白フグ……いや、獣だ、猛獣だ!!」
「猛獣……何だかあまり可愛くないわ。でも、この絵は可愛いから、すごく好き! 大好き! ありがとう、旦那様」
……大好き……
なんという破壊力だろう。ルーファスは眩暈を起こし、イーゼルを倒しそうになる。
「ねえ旦那様、蛾とうつぼの絵も描いてくれる?」
「蛾と、うつぼ?」
一体どういう組み合わせだろうと戸惑う夫の手に、はいと鉛筆を握らせる妻。
(訳がわからないが、もうこうなったら描くしかない)
シャッと鉛筆を走らせ、どうだと振り返るも、リンディは折れそうなほど首を傾げている。
「これ、本当に蛾とうつぼですか?」
「他に何に見えると言うんだ」
その問いに、リンディの首はさらに角度を増す。
「うーん……何か違う。お義兄様が描いてくれた蛾とうつぼは、もっとほわんとしていて可愛かったの」
(またおにいさまか!
お兄様、ヨハン兄様……ヨハネス!!)
「そうか……悪かったな。可愛くなくて」
ルーファスは鉛筆を床に叩きつけ足で踏むと、リンディをひょいと抱き上げ、傍らのベッドへ落とした。




