第77羽 『楽』は『幸せ』
頬を膨らませ、ざくざくと噛み砕くルーファスに、リンディはもちろん、シェフまでもが呆気に取られている。
粉々のうさぎをごくりと飲み込むと、ルーファスはリンディの手からサッと皿を取り上げ、シェフにこう命じた。
「ヨハネスの分はお前が剥け」
皿とフォークを手に廊下へ出るルーファスを、リンディは慌てて追いかけ横に並んだ。
「旦那様! それ、どうするの?」
ルーファスは突然、ゴホゴホと咳をする。
「喉が痛い……風邪かもな」
「旦那様も!? お熱は? どこか苦しいとこない?」
心配そうに自分を覗く妻に、僅かに口角を上げ答えた。
「フルーツを食べれば良くなりそうだ」
再び歩き出そうとするも、必死の形相のリンディに行く手を阻まれた。
「そのフルーツはダメ! ヨハネスはいいけど、旦那様は食べちゃダメ!」
「……なぜだ」
そこでリンディはやっと気が付いた。夫は今、すこぶる機嫌が悪いと。ルーファスの纏う冷気は吹雪となり、自分をも襲おうとしている。
(前に回り込んじゃったからかしら。でも……ここはきちんと言わないと。後で契約違反だって怒られたら嫌だもの)
リンディはエプロンのポケットから控えを取り出し、一点を指差す。
「契約書 “2” の補足。『夫の食事には決して手を触れてはいけない』ってあるでしょ? 私、切る時も皮を剥く時も、散々手で触ってしまったわ。だから、それは食べちゃダメ」
「……夫が許可する時は構わない」
「そうなの?」
「ああ」
「それじゃ……それじゃあ、明日の朝も、旦那様のフルーツを切ってもいい?」
「……別に構わない。ブロッコリーに触れた手でなければ」
リンディは手を組み、ぱあっと顔を輝かせる。
「嬉しい! パンはトングを使うから、手で触らなくても焼けたんだけど、フルーツのカットはさすがに無理だったから」
「パン、お前が焼いていたのか」
ルーファスは目を瞠る。
「ええ。焼き加減はどうでした? 何か希望があったら言ってね。フルーツも好きな形があったら教えて」
「焼き加減は……特に問題ない。形は任せる」
「わかりました! 楽しみにしててね」
なぜか吹雪が収まったことに安堵し、リンディはすっと横に退く。だが、ルーファスはその場を動かず、ぼそっと呟いた。
「今後、夫以外のフルーツを切ることは禁止する。パンを焼くことも」
「えっ、でも “2” の補足に、『夫以外の食事は調理可』って」
「うるさい。変更だ」
「もうサインしちゃったのに。契約ってそんなに簡単に変更できるものなの?」
「…………できる」
もっともな妻の言い分を強引にねじ伏せ、夫は階段を上がって行った。
自室に戻ったルーファスは、奪った皿をテーブルに置いた。フォークを手にし、少し迷った後、美しい薔薇を口に運ぶ。どんな切り方だろうと味は変わらないはずなのに、そのオレンジは、パンと同様何かが違った。
『……は毎朝パンを焼いてくれる? あと、フルーツも切って……』
優しく甘酸っぱい香りに、誰かの言葉が呼び起こされ、じわりと目頭が熱くなる。
(最近こんなことばかりだ。自分の頭は一体、どうしてしまったのだろう)
喉を落ちながらもまだ香る切なさに、ルーファスは目尻を拭った。
(よくよく考えれば、闇にあの男が現れたのも、アイツと出会ってからだ。妻と指輪とあやふやな記憶。やはり全てが繋がっている気がする)
ルーファスは目を閉じ考える。物心ついた時から今までの記憶のどこかに、妻がいなかったか。そしてそこに、指輪の情報もないかと。
母が亡くなってからの数年間と、闇に呑まれている間の記憶は曖昧だが、それ以外の記憶の中に、確かに彼女の姿は見当たらない。王宮のあの廊下で会ったのが初めてのはずだ。
はあとため息をつき、今度はキウイの蓮を口に運ぶ。あっという間に空になった皿を見て、名残惜しそうに呟いた。
「……うさぎは一つしかないのか」
ふんふんと鼻歌交じりの主をドレッサーに座らせると、侍女プリシラは丁寧に金髪を梳いていく。
洗髪後の絡まりやすいくるくるの髪も、彼女の手にかかれば大人しいウェーブに収まるから不思議だ。片付け以外の、身の回りの大抵のことは自分でできるリンディだが、これだけは必ず彼女に委ねていた。
「奥様、今夜は一段とご機嫌ですね」
「あのね、旦那様が明日の朝フルーツを切って出してもいいって、そう言ってくれたの! 食べてくれるの嬉しいなあ、何の形にしようかな」
「まあ……それはようございましたね」
それがそんなに嬉しいことなのだろうかと、プリシラは内心首を傾げていた。
この主に仕えてから、約二週間。世話することには慣れてきたが、どうにも若夫婦の関係が理解できない。
(夫の朝食に関わるだけでこんなに喜ぶということは、奥様から旦那様への愛情は間違いなくある。朝食の件以外にも、普段の言動や行動からそれは感じていた。
わからないのは旦那様だ。適度に会話され、最近では食事も一緒に摂られることが増えているが……なんというか、妻へ対する情愛というものが、一切感じられないのだ。
奥様がお腹を壊されたあの夜、一晩だけベッドをともにされたが、やはり何の痕跡もなかった。この屋敷へ移ってからは、ベッドとソファどころか寝室もきっちり分けられている。
そもそもなぜお二人は結婚されたのだろう。片や王家の血を引く公爵令息、片や何の後ろ楯もない男爵令嬢。
聞いた噂は主に二つ。一つは王宮で勤務中に出会われ、大恋愛の末結ばれた。もう一つは、大旦那様が奥様を実の娘のように可愛がっていらっしゃり、それがご縁で結ばれたという。
大恋愛……は、お二人のご様子からしてないだろうし、大旦那様のご縁でという話の方が信憑性が高い。
つまり旦那様は、父親に命じられ、気の乗らない結婚を渋々受け入れた……といったところだろうか。
とすれば、これはまずい。非常にまずい。
お気持ちがない上に、真っ白なお肌の奥様では、黒いお肌を好まれる旦那様の食指が伸びないのも無理はない。このままではお世継ぎが……最悪外で愛人を囲われたり、離縁なんてことにも……)
こうして考えている間に、金髪は艶々と波打つ。ブラシを置いてもまだ、鏡の中でふんふんと歌い続ける主に、プリシラは微笑んだ。
この妹のような……ペットのような愛らしい主が夫に捨てられ、悲しむ姿は見たくない。何とかしなければと気合いを入れる。
「奥様、最近は旦那様と同じお部屋でお休みにはならないのですか?」
「ええ。けいや……」
リンディは慌てて口を押さえる。
契約書の “10”。
『この契約の内容、及び存在すること自体、一切他人に口外してはならない』
「あ……私、いびきがうるさいから。旦那様は歯ぎしりがうるさくて、お互いよく眠れないの。ほら、今は仕事が忙しいでしょう。睡眠は大事だから」
いびきに歯ぎしり? まさかそんな問題までと、プリシラは更に頭を抱える。
「そうですか。ただ、せめて二~三日……いえ、一週間に一度はご一緒にお休みになられませんと、旦那様のお身体は苦しくなってしまわれるかもしれません。私はそれが心配なのです」
「そうなの?」
「ええ。一緒にお休みになることで、男性のお身体は楽になるのですよ」
( 楽……。“ 楽 ” は旦那様の “ 幸せ ” )
リンディはプリシラの目を真剣に見つめる。
「奥様、明日も休日です。どうぞ勇気を出して、今夜は旦那様の寝室でお休みください。そうすれば旦那様は、明日の朝のフルーツを、一段とスッキリ美味しくお召し上がりになれることでしょう」
プリシラは両手で主の手を包み、成功を祈った。
「旦那様、リンディです」
「入れ」
毎晩夫の寝室を訪れ、左手を触らせるのはいつものルーティーン。薬指を中心に全ての指に触れると、満足するのか、「出てけ」と追い払われるのもいつものことだ。
だが今夜のリンディは、部屋を出て行かずにその場に留まる。右手に持っていた枕をずいっと出し、ポンポンと叩いた。
「それは何だ」
「私の枕です! 今夜は旦那様のベッドで一緒に寝てもいいですか?」
「契約書の……」
「 “ 3 ” でしょう? でもね、これは “1” の有事でもあるの。プリシラさんが、私たちが一緒に寝ないのをとても心配していて……でも契約のことは内緒だから、何も言えなくて」
「仕事で疲れているとでも言っとけ」
「言ったわ。旦那様の歯ぎしりがうるさくて眠れないと、嘘までついてしまったの。でも、一週間に一度は一緒に寝ないとって。明日は休日だからって」
面倒な侍女に眉をひそめながら、ルーファスはどうしたものかと考える。
(あの祭りの夜、実家で一度だけ同じベッドで寝たが、特に不快感はなかった。むしろ二人で入る布団の中は温かく、闇の男もいつも以上に穏やかだった。寝るだけなら問題はない。ただ……万一 “ 反応 ” でもしたら厄介だ)
あの日の朝も、何となく妻の寝顔を見ているうちに “ 反応 ” してしまったルーファスは、激しい自己嫌悪に陥っていた。
(まさか自分がここまで情けない動物だったとは……これでは妻を猛獣呼ばわりできなくなってしまう)
「ねえ、旦那様」
枕の陰から半分顔を出した妻が、澄んだ瞳で夫を見上げる。
「一緒に寝ると、旦那様の身体が楽になるって本当?」
~ 契約書(抜粋)~
『1 有事の際以外、夫に話し掛けてはならない』
↑妻の判断に任せる
『3 寝室は別とし、性行為は一切行わない。子供を作る必要に迫られた時だけは、必要な日にのみ行うことを義務とする』
『10 この契約の内容、及び存在すること自体、一切他人に口外してはならない』
※ バレそうな時は、適当に嘘をついてもいい。




