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時を戻した白鳥は、カラスの愛を望まない  作者: 木山花名美


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第76羽 旦那様を幸せにするために

 

「一緒に寝てもいいの?」

「端なら構わない」


 リンディは青白い顔で、ふにゃりと笑いながら言った。


「ありがとうございます。旦那様」


(……体調の悪い時は、きちんと礼が言えるんだな。

 本当に、おかしな猛獣だ)


 ルーファスは端に寄り、猛獣の寝床を用意してやった。



 ベッドの端と端に横たわる二人。

 夫が「手」と言えば、妻は「はい」と素直に左手を差し出す。これは契約書の “ 5 ” 。ルーファスが、結婚後に唯一成功した調教だ。

 いつも通り、慎重に妻の薬指に触れていくが、冷たい以外は特に異常はない。普段ならそこで手を離すが、なんとなく、そのまま布団の中で握り続けた。


「……あれ、不味かった」

「え?」

「あの汚いやつ、不味かった」

「食べてくれたの!?」

「……一口だけ。油っぽい割にパサパサしてるし、くどいし。何であんな物を買ったんだ?」

「温かいとね、美味しいの。海を見ながら食べると、もっと美味しいの」

「温かくても大して変わらないだろう。屋台の食べ物なんて、初めて食べたからよくわからないが」

「お祭りには魔法があるのよ。賑やかで、楽しくて、何でも美味しく感じちゃう素敵な魔法」

「騒音の中、人にぶつかりながら立ち食いすることの何がいいのかわからない」

「……いつか試してみて。旦那様も魔法をかけられてしまうと思うわ」


 少し間を置き、ルーファスは口を開いた。


「来年……いや、再来年かその後か。気が向いたら、温かいのを一緒に食べてやってもいい」


 リンディは、塩辛い唾をこくんと飲み込み答える。


「私、来年の約束はできないの。お祭りも、屋台のアイスもフライも、もう今日で最後だったかもしれない」


 灯りを落とした暗い室内では、妻の表情は見えない。だが、氷のように冷たい妻の手が、ルーファスの胸に漠然とした恐怖をもたらす。どういうことかと問おうとしたが、昏い渦に呑まれ、言葉にできなくなってしまった。


「だから……食べてくれてありがとう、旦那様」


 静かで、温かく……そして哀しい声が、ルーファスの胸に響く。それはなぜか、普段の甲高くてうるさい声よりも、ずっと不快に感じた。

 こんな声を聞くくらいなら、一緒に祭りを歩いてやれば良かっただろうかという気さえしてくる。だが、過ぎ去った今日は、もう二度と戻って来ない。


 ルーファスは握った手に力を込め、口を開く。


「……お前を拐おうとした暴漢。拷問はせずに辺境へ送る。これ以上は譲れない」


 しばらく返事を待つが、何も返って来ない。少し身体を起こし様子を伺えば、スヤスヤと寝息が聞こえてきた。


(本当に……よく寝るヤツだな)


 ルーファスの瞼も重くなり、深い眠りへ落ちていく。

 温かな布団の中、手をしっかりと握ったまま──




 夢の中で、リンディは一人、灰色の浜辺にいた。

 いつかのように流木に腰掛け、魚のフライを齧りが、何の味もしない。一口、もう一口と齧れば齧るほど、心が空っぽになっていく。一人だとわかっているのに、隣に手を伸ばし、必死に誰かに触れようとしていた。


 ──温かい指先に、はっと目を覚ます。そこには、灰色よりも暗い天蓋が、ぼんやりと浮かんでいた。


(私……バカだなあ。義兄妹だったあの日々は、宝物みたいに大切だったのに、道端の石ころみたいに簡単に捨ててしまった。子ども時代を一緒に過ごした “ お義兄様 ” は、もうどこにもいない。もう二度と会えないのに。今頃やっと気づくなんて……私、本当にバカだなあ)


 手の温もりに隣を見れば、“ 旦那様 ” がスヤスヤと寝息を立てている。


(一度目の人生で “ お義兄様 ” と出逢い兄妹になれたのも、二度目の人生で “ 旦那様 ” と出逢い結婚できたのも、どちらも奇跡。どちらも愛しい大切な人だ。ならば今は、“ 旦那様 ” を幸せにしたい。私の残りの人生は、そのために使おう)


 リンディは大きなルーファスの手を、きゅっと握り返した。




 その夜、ヨハネスはバルコニーから星を見上げていた。一度はベッドに入ったものの寝付けず、こうしてしばらく夜風に当たり続けている。


(ルーファス様に楯突くなんて、何と愚かなことをしたのだろう。理性が効かず、どうしても彼女の手を離すことができなかった。自分の願いはリンディの寿命を伸ばすこと。そのためには、彼に愛してもらわなければならないのに……

 一方で、彼女を愛さずに手放してほしい。返してほしいと、そう思っている自分がいる)


 まだ温もりが残る手を、握ったり開いたりしながら見つめるが、やがて激しく首を振り自嘲した。


(何を言っているんだ。リンディは元々、ルーファス様のものだったじゃないか。元の居場所へ帰った……それだけだ。第一、自分のものだったことなんて、一度だってない。ただ彼女は、自分を兄として純粋に慕ってくれていただけ……それだけなのに)


 バルコニーから部屋へ戻ると、ヨハネスはピッチャーから水を注ぎ、ぐいと飲み干す。そして、今日のルーファスの様子を、改めて振り返った。


 あの女性への不信感と嫌悪感の塊だったルーファスが、リンディとは普通に会話をし、同じ部屋で過ごし、手を握ることもできる。更に今日は砂浜に座り込んだリンディを抱いて、大勢に見られることもいとわず、馬車までの長い距離を歩いた。


(彼の中で何かが変化しているのは確かだ。いや……変化しているというより、心が徐々に元の場所へ帰っていると言った方が正しいだろう。

 それにしても、ルーファス様は本当にリンディを()()()のだろうか。どちらからも全く、そんな空気は感じられないが)


 ヨハネスはソファーにドサリと腰を下ろすと、その背に凭れ、高い天井を仰ぐ。


(せめて身体だけでも結ばれていなければいいのにと、まだそんなことを考えている自分につくづく嫌気がさす。……冷静になれ。そうでないと、あと半年ほどで、リンディを失うことになる。自分の勝手な想いのせいで、彼女の命を危険に晒す訳にはいかない)


 澄んだ水滴が伝う味気ないコップを、ヨハネスは恨めしげに見つめる。


(──護衛の仕事がなければ、強い酒を飲んで、何もわからなくなるほど酔ってしまえるのに)


 リンディを抱き締めた時の、あの柔らかさと甘い香りは、いつまで経ってもヨハネスの中から消えることはなかった。



 ◇◇◇


 王都へ戻ったリンディとルーファスは、国王から結婚祝いに贈られた屋敷で、新しい生活を始めた。

 上位貴族が住む屋敷としてはこぢんまりしているが、さすが芸術を愛する国王が所有していただけあり、『海』をイメージした内装もインテリアも非常に凝っていた。

 コバルトブルーの屋根に始まり、二枚貝の形の洗面台や、海や砂浜の壁画、更には真珠や珊瑚が使われた特注の家具や小物が置かれている。また、庭には人魚の彫像が座る、美しい噴水まであった。

 国王の感性は、リンディにも見事に刺さり、あのオンボロアパートに次ぐ新しい城となった。




「旦那様! 今朝は一緒にお食事をしましょう!」

「契約書の “2” 」


 リンディは契約書の控えを広げ、“2” の補足をトントンと指差す。


「『寂しい時は食卓をともにする』って書いてあるでしょ? 私、今朝は寂しいの」

「俺は寂しくないから無効だ」

「どっちが寂しい時とは書いていないわ。私が寂しいんだから有効よ」


 リンディがこれにサインをするまでに、ルーファスは散々面倒な質問攻めにあった。早く終わらせたいとばかりに、補足をよく確認せず、契約を交わしてしまったのだ。


「策士め。ブロッコリーは食べられないぞ」

「お昼とおやつにたくさん食べるから大丈夫!」


 そう言うとリンディは、夫の返事も聞かず、テーブルの向かいにさっさと腰を下ろす。

 三ヶ国会議を控え仕事が多忙な今、余計なエネルギーは使いたくないと、ルーファスは大人しく妻に従った。



 朝食が運ばれると、ルーファスは真っ先にパンに手を付ける。千切って一口運ぶと、満足げに頷いた。


 この屋敷で暮らし始めてから、パンの味が変わった。どこがどうとはわからないが、とにかく味が違う。調理しているシェフは、実家のセドラー家から連れて来たベテランで、味にも慣れているはずなのに、なぜかパンだけは違った。


(原材料を変えているのか? まあ、口に合うのだから理由はどうでもいい)


 柔らかい顔でパンを頬張るルーファスを見て、リンディは目を細めていた。




 ある休日、屋敷の廊下に響く甲高い笑い声に、ルーファスは顔をしかめた。注意しようと声を辿れば、発生元はキッチンだとわかり、中へ入って行く。


 シェフと楽しそうに話をしながら、ナイフで林檎の皮を剥いている妻。皿には葉や花や、さまざまな形のフルーツが載っている。

 レストラン、それとも園遊会だろうか。ルーファスはどこかでこれを見たような気がするが、思い出せない。


「何をしている」


 突如現れた主に、シェフは頭を下げる。リンディはにっこり笑いながら、切ったばかりの林檎のうさぎを夫へ見せた。


「フルーツを切っていたんです。可愛いでしょう」

「お前が食べるのか?」

「ううん。ヨハネスにあげるの。風邪気味で喉が痛いから、フルーツが食べたいんですって。シェフが剥いていたんだけど、私もお手伝いさせてもらってるの」


 その言葉に、ルーファスの顔がひきつる。


「奥様は本当にお上手ですね。私でもここまで美しくは切れません。食べてしまうのがもったいない」

「ヨハネスも最初はそう言ってたけど、慣れたらパクパク食べてくれるようになったわ」


 笑い合う二人に、ルーファスは苛立たしげに問う。


「アイツは前にもこれを食べたのか?」

「はい。私のアパートで。いつもお昼にフルーツを出していたの」


 夫が纏い出した冷気に、妻は全く気付かない。うさぎを花畑の中心に置くと、よし!と手を拭いた。


「うさぎは簡単だけど、初めてだし可愛いからきっと喜んでくれるわ」


 皿を持ち上げようとした瞬間、ルーファスはうさぎをガッと掴み、自分の口に放り込んだ。



~ 契約書(抜粋)~


『2 食事は別々に摂る。どうしても食卓をともにする必要がある場合、決して夫の前でブロッコリーを食べてはならない』

※ 寂しい時は食卓をともにする。夫の食事には決して手を触れてはいけないが、夫以外の食事は調理可。


『5 毎晩夫に指輪を確認させる』

※ 決して妻の指を切ってはいけない。

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