第75羽 消さないで
先に帰っている。
その言葉にリンディはショックを受け、哀しげに目を伏せた。帰ってしまったと思いつつも、心のどこかでは、自分を待ってくれている気がしていたのだろう。
『あちらでクリステン卿がお待ちですので』
(そっかあ……あれもさっきの人たちの嘘だったんだ。旦那様が私と一緒に来てくれて、馬車で待っててくれたことだけでもすごいのに。約束の時間を過ぎてしまったら、帰ってしまうのも当然だわ。きっと怒って……ううん、呆れているかもしれない)
瞬きをすれば、一度は引っ込んだ涙が、またほろりと溢れる。ヨハネスはハンカチを取り出し、リンディの顔を丁寧に拭くと、優しく微笑んだ。
「リンディ、海を歩いて帰らないか?」
「海……」
「きっと潮風が気持ちいいよ」
「でも、早く帰って旦那様に謝らなくちゃ」
「どうせもう遅れているんだから、少しぐらい平気だよ。王都に戻ったらまた仕事で忙しくなるんだから、息抜きに……ね?」
「うん」
ヨハネスに控えめな鼻をきゅっとつままれ、リンディはほんの少し和らいだ表情を浮かべた。
支えられながらゆっくり立ち上がると、ドレスのスカートには、泥やら草やらがたくさん付いている。よく見れば、綺麗に編み込まれていた金髪も、あちこちほつれくるくると飛び出していた。
「……君は一体、どこを冒険してきたの?」
「あのね、木の陰とか、植込みの裏とか。あっ、草の中も潜ったわ。誰にも見つかっていないといいのだけれど」
愛らしい花嫁の大冒険を想像し、ヨハネスはぷっと噴き出す。
「……おかえり、リンディ」
心からそう言うと、華奢な手を取り、海へ向かい歩き出した。
ヨハネスの言った通り、浜には心地好い潮風が吹いていた。凪いだ青い海を赤い夕陽が染め、水平線が紫色の光を放っている。
「綺麗だね、この時間に浜辺を歩くのは初めてかも」
「昔、一度目の人生でね、この浜にお義父様が東屋を建ててくださって。そこでよく、海の絵を描いていたの。確かこんな、夕陽の景色も描いた気がするわ」
「へえ……リンディの描く海は、きっと素晴らしかったんだろうな」
「人魚や空を飛ぶ魚も描いたわ。金色のクジラも」
「それは本物の海より楽しそうだな」
「あとね、あとね、ふわふわの甘~い生クリームの波も」
「生クリーム!? 最高じゃないか!お腹がいっぱいになるまで泳いでみたいな」
夕陽に輝く瞳を交わし、二人は笑い合う。
(温かい……。彼女の隣は本当に温かい。ずっとこうして、手を繋いで歩いていられたらいいのに)
ヨハネスのそんな願いは届かず、紫の光が灰色に変わるとともに、ある人物によって終わりを告げられた。
あれからルーファスは、砂浜の草の上に座ったまま、ずっと動けないでいた。
“ 誰か ” を手繰り寄せている内に、記憶の溝にすっぽり落ちてしまったのだ。
さくさくと砂を踏む足音に混じり、甲高い声が耳を突く。その瞬間、ルーファスの心身は急に解き放たれた。
立ち上がり、声の方へ視線を向ければ、手を繋ぎ笑い合う妻と護衛がいる。ルーファスは砂を激しく蹴散らし、そちらへ向かった。
「旦那様!」
驚いた顔で自分を見上げる妻にも、自分が目の前にいるというのに妻の手を離さない護衛にも、怒りが込み上げる。ルーファスの口から出たのは、自分でも聞いたことがないほど、昏く冷淡な声だった。
「今まで何をしていた」
「あの……ごめんなさい。買い物をしていたら、迷子になってしまって」
「迷子? はっ、成人した大人が……頭は正気か」
鋭い視線にリンディの身がすくむ。繋いでいる手を離し頭を下げようとするも、何故かヨハネスの手には力がこもり、そうさせてくれない。
ルーファスは二人の手を射抜くように睨むと、冷たい言葉を放ち続ける。
「その手は何だ? 夫を待たせておきながら逢引きか」
「……安全のために繋いでおります。そもそも最初からこうしていれば、はぐれることはありませんでした。旦那様のご命令には背くかもしれませんが、今後私は奥様の身の安全を優先させていただきます」
「何?」
一段と増す怒気にも、ヨハネスは全く怯まない。ルーファスにも負けぬ冷たい声で、言葉を放つ。
「奥様は先ほど、暴漢に拐われそうになっておりました」
ルーファスの顔色が変わる。細い腕をさっと両手で掴み、リンディの乱れた頭から爪先までを見下ろした。それでもヨハネスは、リンディの手を離さずに、淡々と報告する。
「お怪我はありませんのでご安心を」
「……処理は」
「自警団にて、一時的に身柄を拘束しております」
「徹底的に痛めつけた後、辺境送りにして奴隷として働かせろ」
「かしこまりました」
(拘束……痛めつける……辺境送り……奴隷……)
頭上を飛び交う物騒な言葉に、リンディは震える。一度目の人生で受けた拷問の痛みと恐怖が甦ったからだ。
いつもの如く、突如発動する獣並みの腕力でヨハネスの手を振りほどき、両手でルーファスのベストを掴む。
「あのっ、大丈夫! 私、どこも怪我していないし、何も言われてないから! 痛めつけなくても大丈夫!」
ルーファスは、ベストに食い込む指を器用にこじ開け、そのままリンディの両手を握った。
「公爵家の人間を、領地内で害そうとした奴を罰しない法が何処にある。本来は極刑とするところを、未遂だったことを考慮し、拷問と辺境送りで済ませてやるというのに」
「でも……痛いのは可哀想」
その言葉にこれ以上ないほど顔をしかめたルーファスは、吐息とともに冷たい言葉を吐いた。
「誰のせいでこうなったと思っている。そいつらが痛い目に遭うことになったのも、元はといえば、勝手にはぐれたお前のせいだ」
(……そう。旦那様の言う通りだ。私の軽率な行動が、あの人たちの人生を壊した。一度目の人生では、何事もなくお祭りを楽しんで、幸せに暮らしていたかもしれないのに)
あまりのショックに、リンディの全身から力が抜けていく。ルーファスがこうして手を握っていなければ、立っていられないほどだ。
「奥様、お気になさることはありません。あのような輩は、今回のことがなくても、いずれ別の悪事を働いたでしょう。むしろ捕えることができて良かったくらいです」
「余計な口を挟むな。たかが護衛の分際で」
二人の間に広がる不穏な空気にも気付かず、リンディは遠い目で辺りを見る。空も、海も、浜も、すっかり濃い灰色になり、宵闇がじりじりと迫って来ていた。
(消さないで……大好きな海を、大切な想い出を。
消さないで……)
ヨハネスへと気が逸れたルーファスは、握っていたリンディの手を離した。さっきまでは心地好かった潮風が、はぐれた手を寂しく撫でる。
リンディは苦しくなり、その手を鞄に入れると、ルーファスへ包みを差し出した。
「あのね、これ、旦那様へ。食べてほしくて買ったの。もう冷めてしまったけれど」
しわくちゃの包みが、ルーファスの前で震えている。その向こうの妻の表情は、顔を伏せているためよく見えない。パッと受け取り、中身を見たルーファスは、呆れた口調で言った。
「お前、夫にこんな汚い物を食べろと言うのか」
(……汚い?)
ルーファスの手からそれを取り返し、中身を見たリンディは愕然とする。
冷めきった衣は油を滲ませながらぐしゃぐしゃに潰れ、その中からは、見るも無惨な白身魚とホワイトソースが飛び出していた。子どもの頃、まだ義兄妹だった頃、この浜辺で一緒に齧ったフライとは、似ても似つかない。
とうとう完全に力の抜けたリンディは、砂の上に崩れ落ちた。
「……おい」
呼び掛けにも答えず、ドレスを砂に埋めながらペタリと座り込んでいる。しゃがんで覗いた妻のその顔に、ルーファスの心臓がドクリと跳ねた。
いつも笑っている口は真っすぐに閉じ、白い頬は強張り動かない。虚ろな瞳からは、ただ涙が流れては落ち、落ちては流れていく。
「おい!」
肩を掴んで揺さぶると、やっと目が合う。するとリンディは、うーっと声を振り絞りながら、激しくしゃくり上げた。
妻の泣き顔に、ルーファスは胸を押さえる。
(心臓が痛い。剣で串刺しにされたように痛い……)
勝手に動いた身体は、動かないリンディを腕に抱き上げ、馬車へと歩き出していた。
◇
「先ほどお薬を飲まれ、今はご入浴されています」
侍女プリシラの言葉に、ルーファスはホッと胸を撫で下ろす。
──あの後、馬車へ戻ったリンディは、急にうずくまり額に脂汗をかき始めた。医師に診せたところ、冷たい物の食べすぎと精神的なストレスだと言う。
(呆れるな。腹を壊しやすいのに、アイスクリームを一気に二個も食べるなんて)
そう考え、ルーファスは首を捻る。
(……腹を壊しやすい? 妻の体質など興味がないのに、なぜこんなことを知っているのだろう)
「旦那様、今日は別のお部屋でお休みになられますか?」
「……いや、同じでいい」
「あの、それでしたら……」
プリシラは遠慮がちに、それでもキッパリと言った。
「今夜は奥様をベッドで寝かせて差し上げてください。ソファではお身体が冷えてしまいますので」
気付かれていたかと、ルーファスはやや、ばつが悪い顔で頷いた。
風呂から上がったリンディは、部屋に入るなり、枕と布団を持ち、当たり前のようにソファへ向かおうとする。その手を掴むと、ルーファスは聞き取れないほど微かな声で呟いた。
「……ベッドでいい」
「え?」
「今夜はベッドで、一緒に寝ることを許可してやる」




