第71羽 ままごとみたいな朝
「ヨハネスと……間違えた?」
「そう! 言い間違えちゃったの! ほら、どっちも年上だし背が高いし綺麗なお顔だし……」
頭と口を精一杯動かすも、何を言っているのか分からなくなる。とにかく謝らないとと、リンディは声を張り上げた。
「ごめんなさいっ」
……上手く誤魔化せたかしらと見上げた夫の顔からは、全ての表情が消えていた。リンディの手を解放し、身体を静かに起こすと、背中を向けガウンの紐を締める。
(怒っている……?)
怒鳴ったり睨まれている時よりも、何故かそんな風に感じた。
「あの……」
「寝ろ」
「食べなくても大丈夫?」
「……お前は白すぎて不味そうだ」
そう言うと、ルーファスは照明を落とし、さっさとベッドへ潜り込んだ。
──数分も経たない内に、ソファーからはスヤスヤと寝息が聞こえてくる。
(……他人と同じ部屋で、よく何の警戒心もなく眠れるな)
ルーファスは呆れながら天蓋を見つめる。
(さっきは何故あんなことをしてしまったのだろう。自分で契約書に書いておきながら組み敷くなんて。
本当に手を出すつもりなどなかった。ちょっと脅かしてやろうと思っただけ……なのに……自分の身体は明らかに “ 反応 ” していた。
性行為なんて忌まわしい。“ 雌 ” と同じ空間で息をするだけでも虫酸が走るというのに、身体を交えるなど……そう思っていたのに)
所詮自分も動物だったのかと、嫌悪感と共に熱を吐き出す。
『私、“ 旦那様 ” には食べられたくない! “ お義兄様 ” じゃないと嫌!』
(まさか、“ おにいさま ” がヨハネスだったとはな……)
ルーファスはくっと笑う。
(あの女も母と同じ、ただの “ 雌 ” だ。別の男に抱かれたいと、夫に堂々と宣言するなんて。
いや……もう既に肉体関係があるのか? 監視の為とはいえ、毎週家に入り浸っていたのだ。密室に男女が二人きり。そういう行為に至っても何らおかしくない。
いや……あの真面目なヨハネスが任務中にそんなことをするだろうか。仮に肉体関係があったとして、自分が手を付けた女と、主が結婚するのを黙認するとは思えない。
いや……何故そう言い切れる。父が信頼していた従者は、父の目を盗み母と密通していたというのに。愛欲に溺れた男女というのは、想像以上に愚かで滑稽なものなのだ。
実際母は、王家の血を引く誇りも、公爵夫人という立場も顧みず、愛する男と生きようとした。……夫と息子というしがらみから逃れる為に、自ら命を絶ってまで。
そう、あの『雌』は、まだ母親を求めていた幼い自分よりも、男を選んだのだ。母性なんて屑みたいに脆い。雌とは、何と気持ちの悪い生き物だろう。
そういえば……何故あの女の母親には嫌悪感を抱かなかったのだろう? 母と同年代の雌は特に苦手だというのに。同じ空間で食事をしても、空気のように全く気にならなかった。
娘も娘なら、その母親も母親だ。実に不可解で……不可解としか言いようがない)
身体の熱が落ち着くと、ルーファスは右手を額に当てる。
(……あの女と庭で手を繋いだ日の夜、やはり闇の男は穏やかで、苦しまずに朝を迎えることが出来た。今夜も男は穏やかでいてくれるだろうか……微笑んでくれるのだろうか。
ああ……どうやら疲れているらしい。女の寝息が、心地好い子守唄に聴こえるなんて……)
重たくなる瞼の裏には、白いベールの下の、もっと白い花嫁の顔が浮かぶ。
(白すぎて……目が眩むほどだった。今まで見たどんな光よりも強烈で。結婚式なんて……もう二度と……やりたくない……)
ついに瞼が落ちたルーファスは、今夜も不完全な闇へ誘われていく。いつも通り現れた闇の男は……今までで一番、穏やかな顔で微笑んでいた。
「……おい、おい」
(何だろう。頬っぺたが冷たくて固いな)
「……おい!」
「ひゃあっ!」
頬に当たる奇妙な感触に目を開けば……昨日夫になったばかりの元義兄が傍に立ち、自分の顔を何かで押していた。
寝ぼけ眼で視線を往復させたリンディは、それがサーベルの柄であることに気付き跳ね起きた。頬を触り、傷らしきものがないのを確認すると不満げに言う。
「なっ、何でそんな危ない物を持っているの?」
「護身用だ。寝首を掻かれないようにな」
「私は何も武器を持っていないのに!」
「身体に仕込んでいるんだろ? お前そのものが凶器だ」
まだ何かを言い返そうとする口へサーベルを向け、ルーファスはリンディが使っていた枕と布団を、ベッドへ放り投げる。ぐしゃぐしゃのシーツに散らばる寝具。これで初夜の偽装工作は完璧だと、満足気に頷く。
「早くその汚い顔を洗え。昼食だ」
「昼食?」
カーテンの隙間からは、朝日にしては眩しすぎる太陽が差し込んでいる。ふと見た時計の針が指し示すその時刻に、リンディはギョッとした。
……十一時!!
(うそ……どうしよう。遠方からのご親戚が沢山お屋敷に滞在されているのに、ご挨拶もせずこんな時間まで寝てしまったわ!)
口元の涎をごしごし拭い、ネグリジェのまま部屋から飛び出そうとする妻の首根っこを、ルーファスはがしっと掴む。そのまま洗面台まで引きずっていくと、桶に張られた冷たい水を掬い、パシャリと白い顔へかけた。
「ひゃあっ!」
「俺も使うんだから、さっさと洗え!」
(……俺も使う?)
目の水滴を擦り見上げた夫の顔は、相変わらず端正ではあるものの、そのルビー色の目元には目やにがこびり付いている。艶々の黒髪は一部だけピョンと跳ねており、ガウンは紐が緩んで今にもはだけそうだ。
「もしかして、おに……」
ルーファスの眉がピクリと上がる。リンディは口を押さえ、慌てて言い直した。
「旦那様も、今起きたばかりですか?」
(あのきちんとしているお義兄様が、こんな時間まで寝るなんて……)
信じられないとばかりに、青い瞳が瞠られる。
「……うるさい! 早くしろ!」
ルーファスは水をたっぷり掬うと、泥の付いた野菜を洗うかのような手つきで、リンディの顔を乱暴に擦り始めた。ふがふがと踠かれるも、容赦はしない。ペッと水を吐く妻を退かしタオルを投げ付けると、ふんと鼻息荒く自分の目やにを落とし始めた。
身支度を整えた瞬間、またもや部屋を飛び出そうとするリンディを、テーブルまで引きずり椅子に座らせる。
(コイツ……獣みたいだな。首輪でも着けてやろうか)
息をぜいぜいと切らしながら、ルーファスも正面へ座り、手元のベルを鳴らした。
「あの……お客様へご挨拶は?」
「昼食後で構わない。初夜の翌朝にわざわざ夫婦を起こす無粋なヤツなどいないだろう。……むしろこの時間で良かったくらいだ」
乱れたベッドをチラリと見るルーファスに、リンディは首を傾げる。
ノックの音にドアを見れば、夕べ身支度を手伝ってくれた侍女が入って来て、恭しく頭を下げられる。
「旦那様、奥様。この度は誠におめでとうございます」
(おめでとう? おはようじゃなくて? ……ああ! 結婚したからね!)
「ありがとうございます! おはようございます!」
何もなかったのだから当然、身体の怠さや花嫁の恥じらいなど微塵もない。元気過ぎるほど元気に挨拶をする妻をルーファスは睨んだ。
侍女が合図をすると、給仕により豪華な昼食が運ばれてくる。セドラー家の普段の食事は一皿ずつ丁寧に提供されるが、テーブルの横に置かれた数台のワゴンには、オードブルからデザート皿まで全てが載っていた。
「後は自分でやる。下がれ」
「はい。何かありましたらお呼びくださいませ」
ドアが閉まり再び二人になると、ルーファスはほっと息を吐く。簡単に祈りを捧げると、グラスに口を付け、オードブルに手を伸ばした。
夫が食事をする様子を、じっと見つめるリンディ。その視線に気付いたルーファスは、苛立たしげに問う。
「……何だ」
「あの、一緒に食事をしてもいいんですか?」
「この屋敷に居る間は構わない。王都に戻ったら別に摂る」
「……嬉しい! 二人きりで食べられるなんて、すごく嬉しい! あっ、私、お水もお茶も淹れるし、お皿も取るから何でも言ってね。ありがとう、旦那様」
「さっさと食べろ」
「はい!」
にこにこ笑う人形みたいな妻に、ルーファスは呆れる。華奢な手がフォークを取るのを見届けてから、すっと目を逸らした。
(……夫には “ ありがとうございます ” だろ。獣……いや、猛獣には躾が必要だな)
「昨日紹介されたと思うが、さっきの侍女はお前付きの侍女として王都へ連れて行く。敬語は止めて、公爵家の女主人としての威厳を持て」
リンディは鯛のマリネをゴクリと飲み込むと、フォークを置き、真剣な顔で頷いた。
「逆に夫には馴れ馴れしくせず、必ず敬語を使え。いかなる時も夫を立て、一歩……お前の場合は十歩下がることを忘れるな」
「分かりました」
よしと頷いたルーファスは、オードブルの皿を空にする。それを見たリンディは、嬉しそうに叫んだ。
「あっ、旦那様、今スープを取りますね。お水も注ぐから待ってて!」
ルーファスは額を押さえる。早速注意してやろうとしたが、せっせと自分の給仕に務める姿が、幼い子供のままごとに見え力が抜けてくる。
( “ ままごと ”……?)
その響きに、胸の何処かが、熱い針で突き刺されたように痛み出す。自然と涙腺が緩み、何かが溢れそうになるのを、ぐっと呑み込んだ。
「はい、どうぞ」
差し出されたグラスの水面には、闇の男が映っている。その哀しげな顔を掻き消すように一気に呷ると、ルーファスはぼんやりと口を開いた。
「……ヨハネス、ヨハネス・ウェンは、今日から正式にお前付きの護衛となる」




