第70羽 食べられたくない!
「では、お休みなさいませ」
無事に結婚式を終えたその夜、侍女が下がると、リンディは一人広い部屋に取り残される。
室内を見回しては、自分が住んでいたアパートの部屋が幾つ入るのだろうと、ぼんやり考えていた。
高価な家具に調度品、中央には天蓋付きの煌びやかなキングサイズのベッド。セドラー家の屋敷の中でも、特に立派な部屋であることは間違いない。
『旦那様がいらっしゃるまで、こちらにお座りになってお待ちください。決してうろちょろされてはなりません』
侍女のそんな言葉を思い出しては、今すぐベッドに飛び込みたい気持ちを必死に我慢していた。
それに、もう寝るだけだと言うのに、何故か念入りに髪を整えられ、香油を塗られ、ドレスのように華やかなネグリジェを着せられている。
(これがセドラー家の奥様の夜のスタイルなの? ……お母様もこうだったのかしら)
風呂上がりの髪をわしわしとタオルで拭き、十年間愛用しているくたびれた寝巻きで晩酌をする今の母からは、全く想像がつかない。
(折角綺麗にしてもらったんだから、大人しく待ってないと……でも、待つって辛いな)
時計の針をじっと見るが、秒針がカチカチと鳴るだけで、一向に進まない気がする。やっと一分……まだ三分……
疲れているせいか、その内睡魔が押し寄せ、こくりこくりと意識が飛んでは慌てて戻ることを繰り返していた。
(駄目……もう、げん……かい……)
大欠伸に涙を流すと、リンディは豪奢な椅子から立ち上がり、ベッドにぼふっと飛び込んだ。
(ああ……なんて幸せなの。ふわふわで、雲の上に居るみたい。雲は本当は乗れないし食べられないって聞いたけど……死んで風になったら、どちらも試してみよう。
ふわふわ……ふわふわ……ふわ……)
「……け」
ん?
「退け」
半分夢の中で雲を食べていたリンディは、人生で最も衝撃を受けたあの言葉で、一気に現実へ引き戻される。がばっと跳ね起きると、そこには黒のガウン姿のルーファスが立ち、腕を組んで自分を見下ろしていた。
転がるようにしてベッドから降りたリンディは、背筋をピシッと伸ばし直立する。ルーファスは邪魔が居なくなったベッドを捲ると、中から薄手の布団を一枚引っ張り出し、妻へ放り投げた。
「あっちで寝ろ」
夫が指差す先には、さっきまで座っていた椅子と揃いの豪奢なソファー。座面も柔らかく、小柄なリンディであれば、足を伸ばして眠ることも可能だろう。
しかし……問題はそこではない。リンディはソファーとベッドを見比べると、少し頬を膨らませ、夫へ手を伸ばした。
「あのっ、枕も下さい」
(あんなに気持ち良さそうな枕を一人占めなんてズルい! 二つあったら足にだって置けるし、抱き枕にも出来るし、寝返りだってし放題じゃない!)
ルーファスは面倒臭そうに枕を掴むと、リンディの顔に投げつける。鼻でふがっと受け止めたリンディは、それらを抱き、よいしょとソファーへ運んだ。
続けてルーファスは、一枚の紙とペンをテーブルへ置いて言った。
「契約書だ。よく読んでサインしろ」
(お義兄様……いえ、旦那様との契約。何だか素敵な響き!)
リンディはわくわくしながら手に取ると、声に出してそれを読み始めた。
「1 有事の際以外、夫に話し掛けてはならない」
早速首を傾げるリンディに、ルーファスは苛立たしげに問う。
「何だ」
「あの……有事って、戦争とか火事とかですか?」
「まあそうだな」
「強盗とか竜巻、怪我や病気も有事に入りますか?」
「……そうだな」
「蜘蛛が天井から落ちて、旦那様のお皿に入りそうな時は?」
「俺ではなく給仕に言え。……間に合いそうなら」
「挨拶はしてもいいですか? 私、挨拶は何より大切だってお母様に」
「うるさい! 自分で考えろ!」
リンディは頷くと、ペンで “ 有事 ” の所に『妻の判断に任せる』と書き足した。
「2 食事は別々に摂る。どうしても食卓を共にする必要がある場合、決して夫の前でブロッコリーを食べてはならない」
リンディはうーんと考え、ぱっと笑う。
「とてもいい考えだわ! 私、ブロッコリーが大好きだから毎日我慢するのは辛いし、おに……旦那様も毎日ブロッコリーの気配に怯えるのは辛いでしょう? だから、お食事が別々なのは、お互いの為にいいことだと思います。でも、寂しい時は一緒に食べましょうね。あっ、お料理はしてもいい?」
「……好きにしろ。但し俺の口に入る物には、決して手を触れるな。自分の食べる分だけにしろ」
「分かりました。自分の分と、あと旦那様以外の人の分なら、手で触れてもいい?」
(自分と夫以外の誰の食事を作ると言うんだ……)
「勝手にしろ」と言い放つルーファスに、リンディは頷き、『寂しい時は食卓を共にする。夫の食事には決して手を触れてはいけないが、夫以外の食事は調理可』と書き足す。
「3 寝室は別とし、性行為は一切行わない。子供を作る必要に迫られた時だけは、必要な日にのみ行うことを義務とする」
またもやリンディは首を傾げる。
「あの……毎日自分の部屋で、別々に寝るってことですか?」
「そうだ」
「じゃあ、何で今日は同じ部屋で寝るんですか?」
「初夜だからに決まっているだろう。面倒な噂が立たないように、形だけでも取り繕っておかないと」
「あの、初夜って結婚して初めての夜ってことですよね」
「……そうだ」
「何で初めての夜だけ取り繕うの?」
(こいつ……もしかして……)
ルーファスはごほんと咳払いすると、単刀直入に問う。
「お前、性行為の意味を知っているか?」
「……生殖器を使って子供を作ることですか?」
(……知っているじゃないか!)
「でも、どうしてそれが寝るのと関係あるんですか?」
(……知らないのか?)
戸惑うルーファスに、リンディは更に質問を投げ掛ける。
「あの……私、男女の生殖器で子供を作るってことは知っているんです。でも、どうやって作るのかは全くイメージが湧かなくて。生殖器が “ 反応 ” するって言葉は聞いたことがあるんですけど、“ 反応 ” って何ですか? 寝るのと “ 反応 ” が関係あるんですか?」
真剣な目で答えを待つリンディに、ルーファスは混乱する。
(こいつ……もしかしたら、知らないフリをして夫をからかっているんじゃないか? ……落ち着け。恐れずに……真っ直ぐ瞳を見ろ)
勇気を出して覗いた青い瞳の奥は……
ただ、ただただ空っぽだった。
(本当に何も知らないのか)
ルーファスは髪をくしゃくしゃと掻きむしる。これから毎日こんな風にペースを乱されるのかと思うと、気が重くなった。
「……疲れたからもう寝る。契約書はよく読んで、質問があるなら明日中にまとめてしろ」
「はい」
結局性行為については分からずじまいだったわ、誰かちゃんと教えてくれないかしら、とリンディはがっかりする。続きを読もうと契約書を持ち直すが、突然左手を掴まれてしまった。
ルーファスはリンディの隣にしゃがむと、庭で結婚の話をした時のように、華奢な左手を自分の手で優しく包み込む。薬指をなぞる長い親指の感触は、あの時と全く同じだ。
(お義兄様の手は、雲の上よりふわふわしているかも……)
心を委ねるリンディの視界に、ふと、夫の胸元が飛び込んでくる。緩いガウンの襟元から覗く、逞しい素肌の胸板。彫像じゃないんだから勝手に見てはダメ! と目を閉じかけた時……
一度目の人生で義兄に教わった知識が甦り、背中を嫌な汗が伝った。
「あの……あのっ……何で手を触るの?」
「契約書の5を見ろ」
『5 毎晩夫に指輪を確認させる』
「……妻の指を切ってはいけないって書き足してもいい?」
「質問は明日まとめてしろと言ったはずだ。とにかく今は黙って指輪を確認させろ」
穏やかな顔で妻の指を触り続けるルーファスとは反対に、リンディの顔は強張っていく。
「あの……」
“ 確認 ” を再び邪魔されたルーファスは、とうとう眉間に皺を寄せ怒鳴る。
「何だ! 指よりも先に口を切ってや……」
「旦那様は夜、裸にならない?」
「……は?」
「裸になって、私を食べない?」
しばらく思考が停止していたルーファスだが、突如ニヤリと口角を上げた。
(ああ……そういうことか……)
手を離すと同時に、ルーファスは妻の身体をひょいと抱き上げソファーに放り投げる。そして、離したばかりの手をがっちり拘束しながら、その上に覆い被さった。
事態を飲み込めず、リンディはただパクパクと口を動かし続ける。
「やはりお前は策士だな。何も知らないフリをして、夫をベッドに誘うとは……」
(ベッド? 誘う? ……ここはソファーじゃなかったかしら)
混乱するリンディを余所に、ルーファスは片手で妻の両手を拘束したまま、もう片方の手で自分のガウンの紐をほどく。はだけたそこからは、素肌の胸板が完全な状態で現れた。
(これがお義兄様の……彫像とは違って何だか……)
リンディの顔は沸騰し、忽ち真っ赤になる。
「さあ……何処から食べてやろうか」
「あの……あの……私、香油でベトベトしてるし、お風呂は一応入ったんだけど、また汗をかいたからあまり美味しくな」
「黙れ」
妖艶な唇の間から、白い歯がギラリと光る。
(そうよ。食べてもらうならいつかお義兄様にって、そう思っていたけれど……)
「いや……お義兄様じゃないと嫌……」
「……何?」
「私、“ 旦那様 ” には食べられたくない! “ お義兄様 ” じゃないと嫌!」
──お義兄様──
「そういえば……前から気になっていた。何故お前は、俺のことを “ おにいさま ”と呼ぼうとする」
鋭い目で睨まれ、リンディはひゅっと息を吸い込む。
(どうしよう……どうしようどうしよう。私、そんなにお義兄様って呼ぼうとしてた?)
混乱の中、口を衝いて出たのは……
「間違えたの……兄様とっ……ヨハンお兄様と、間違えちゃったの!」




