第69羽 夫婦になった日
答えられず押し黙るルーファスに、リンディは再び問う。
「幸せになれますか?」
彼は考え、逆に問い掛ける。
「……幸せとは何だ?」
リンディも少し考えると、一度目と二度目の人生で、最も幸せだった瞬間を思い出す。そして、こう答えた。
「自分の人生が愛しくて……もう、今日死んでしまってもかまわない。そんな気持ちが幸せだと思います」
「……では、愛しいとはどんな気持ちだ?」
リンディは迷わず、自分の最も愛しいものを思い浮かべ、こう答えた。
「優しい気持ちになります。元々持っていた優しさよりも、もっともっと」
「よく分からない」
「うーん……本当は大嫌いなのに、好きだと思えたり」
「もっと分からない」
「たとえば……ブロッコリーを触ったり、料理出来るようになったり」
(ブロッコリーを……あり得ないだろ)
粟立つ腕を、こっそり擦る。
「それで? お前と結婚することで、俺がそんな気持ちを抱くかという質問か?」
「はい」
「ならばあり得ない。お前の言う、優しいも、愛しいも、幸せも、永遠に感じることはないだろう」
「……そっかあ」
日は完全に沈み、俯く彼女の表情は全く見えない。何故か不安になり、さっきまで華奢な手に触れていた自分の右手が、急速に冷えていくのを感じる。
彼女の言う『幸せ』とやらを理解する日は永遠に来ない。そう思うと焦燥感に駆られ、こんな本音がルーファスの口を衝いて出た。
「だが……お前と結婚することで、俺は楽になる」
「楽?」
「ああ。少なくとも、縁談話に悩まされることはなくなるからな。それに……」
彼女と居ることで、母の悪夢に魘されることも、不完全な闇に苦しむこともなくなるのではないか。何の根拠もないのに、そんな気がしていた。
この屋敷から……眩しい光から逃げ帰ったあの後。再び不完全な闇を見ては、眠れない日々が続いていた。穏やかだった男の顔は、また自分を哀れむ顔へ戻り、何かを責められているようにも感じる。
この庭で彼女の手を取ってみたら、闇の男はまた、穏やかに微笑んでくれるのではないか。そう思い、試してみたくなったのだ。
(光から……この女から逃げてはいけない。恐れずに、真っ直ぐ。そうすることでしか、自分は楽になれないかもしれない)
「いや……何でもない」
そう呟き、くるりと背を向ける。
「……一週間以内に返事を寄越せ」
そのまま部屋にこもったルーファスは、リンディと顔を合わせることなく、早朝には王都へ帰って行った。
◇◇◇
「結婚……」
グラスをつるりと落としそうになったヨハネスは、慌てて片手を添えた。
「ええ。お義兄様から何も聞いていない?」
「何も……」
ただの護衛に、主がプライベートを明かすことなどなくて当然だが、求婚相手がリンディならば話は違ってくる。何せ彼はリンディの監視を、正式な任務として与えられた身。一言あっても良かったのではと、憮然とする。
(あの誕生会から、何となくルーファス様は自分に対し壁を作っているように感じていた。結局理由は分からずじまいだったが……あの日突然先に帰ったことにも関係があるのだろうか)
「あのね、私……指輪とか寿命のことを考えると、頭がぐちゃぐちゃになってしまうの……だから、私と結婚してお義兄様が幸せになれるか、幸せになれるなら結婚しようって、それだけ考えたの」
「……うん」
「それでね、お義兄様に訊いてみたら……幸せにはなれないけど、楽にはなれるって」
「楽に……そうか……そうかもしれないね」
「縁談のお話が来るのは、お義兄様にとってそんなに辛いことなの?」
心配そうに下がるリンディの眉を、ヨハネスは指でつんと突いた。
「きっと他にも、沢山辛いことがあるんだよ。一人で抱えて、苦しんでいるのかもしれない。……僕はただの護衛だから、それが何かは分からないけどね」
「……そっかあ」
「ねえ、リンディ」
ヨハネスはテーブルに肘を付き、身を乗り出す。
「楽になれるのも、幸せってことなんじゃないかな」
「どういうこと?」
「たとえばさ、のたうち回るほどお腹が痛くて苦しい時、すっと痛みがなくなって楽になったら? その瞬間に、普段の何ともないお腹の状態が、すごく幸せなことなんだって気付かないか?」
「……そうかもしれない! 私、よくお腹を壊すから、すごく分かるわ。でもね、普段の何でもないお腹が続くと、それが当たり前になって、幸せなことを忘れてしまうの。ヨハン兄様がそう言ってくれるまで、今もすっかり忘れていたわ」
素直に腹を撫でる彼女に、ヨハネスは微笑いながら頷く。
「幸せには色々な形があると思う。大きさも、種類も。だから君と結婚することで、ルーファス様が少しでも楽になるなら、それは素晴らしいことじゃないかな。彼は彼なりの幸せに、いつか気付くかもしれないよ」
「そっかあ……そうだといいな……じゃあ、結婚してみようかな、私」
軽い言い方に、ヨハネスはふっと息を漏らす。まるで幼い子供が、おやつに何を食べるか迷って、答えを出したみたいだな……と。だが目の前にいるのは、誰かを想い、青い瞳を潤ませる美しい大人の女性だ。
(……苦しい。何でこんなに苦しいんだろう)
視線を落とし、グラスに口を付けるヨハネス。冷たい水は喉に引っ掛かり、痛みすら感じる。
(これでいい。結婚して傍で暮らす内に、ルーファス様はきっとリンディを愛するだろう。愛してもらえば、寿命を分けてくれるかもしれない。自分の願った通りになってくれたんだ……)
「妹の花嫁姿が見れるなんて、幸せだな」
そう呟いた声は、情けないほど震えていた。
◇
リンディがルーファスへ返事をしてからは、あっという間だった。デュークの采配で慌ただしく式の日取りが決められ、それに向かい準備が進められていく。
公爵令息の結婚ともあれば、多くの貴族や財界の要人を招待し盛大な式を執り行うのが常であるが、ルーファスがそれに難色を示した為、親族のみに限定した小規模の式になった。
大事な三ヶ国会議を控えていることを表向きの理由とすれば、王室への忠誠心を何より重んじるセドラー家の親戚達も納得するしかなかった。
セドラー家の屋敷の敷地内にある、白亜の神殿。
祭壇の前には、一人の麗しい青年が、花嫁を待ち構えている。
スラリと長い手足、引き締まった腰に広い肩。美しく均整の取れた身体が、黒地に金糸の華やかな礼服を見事に着こなしている。その素晴らしい体躯の上には、シャンパンゴールドのクラヴァットにも負けない美貌が輝いている。
薄く形の良い唇、すっと高い鼻、神秘的なルビー色のアーモンドアイ。そして……カラスの羽を思わせる、艶々の黒髪。
カツン……
軽やかな足音と共に、真っ白な花嫁が現れた。
母親に手を引かれ、ゆっくりと青年の元へ近付いていく。
華奢な身体をふんわりと包む、プリンセスラインのドレス。豊かな胸元を強調するハート型のデコルテラインから、魅惑的な細いウエストまで……金糸で刺繍はされているものの、余分な装飾は一切ない。
が、膨らんだスカートの裾には、白いレースと羽が、生地を覆い隠すほど大量に舞い踊っている。
──白鳥?
その場の誰もが思う。
花嫁の手を取ったルーファスは、ビリッと雷に打たれたような刺激を感じた。
(これは……何だ…………)
神官から祝福を受け、花嫁のベールを恐る恐る上げた瞬間──
もっと強烈な刺激が、ルーファスの中を駆け巡った。
『……白鳥みたい』
『はくちょう?』
『君はカラスより、白鳥になる方が早いかもしれない』
『そうなの!?』
『うん。どっちになるか、選ぶのは君の自由だけど』
『どうしようかなあ、ねえ、白鳥も綺麗?』
(懐かしくて、そして堪らなく優しい子供達の声。
遠くて近い、近くて遠い……この声は一体、何だろう)
神殿の隅では、華やかな場とは一線を引くように、いつもの制服で護衛の仕事に勤しむヨハネスが居た。
デュークから参列を許可されたが、丁重に断り、護衛の姿でこの日を迎えたのだ。
(こんなに美しいものは、初めて見たな。人形より、天使より、白鳥より……ずっと、ずっと美しい。美しすぎて苦しすぎて、胸が張り裂けそうになる。
ああ……そうか……
リンディはずっと『妹』なんかじゃなかった。
こんなに、こんなに……愛していたんだな……)




