第64羽 一番幸せだったかもしれない日
(寝ている……)
屋敷に到着したことにも気付かず、二人ともすやすやと心地好さそうな寝息を立てている。
リンディは短剣二本を枕にして、座席にごろんと身体を横たえている。背中には、可憐なドレスには似つかわしくない物騒なサーベルが。
アドバイスが役に立ったのか、武器を全て没収している様子を見て、ヨハネスは安堵する。
一方ルーファスは、背もたれではなく壁に凭れ掛かり、長い足を窮屈そうに座席に伸ばしていた。足置きにされたリンディの鞄からは、ブロッコリーがひょっこり顔を出している。床には緑の眼鏡と、脱ぎ捨てられたらしい彼の靴が、だらしなく転がっていた。
(ルーファス様のこんなに気の抜けた姿を見るのは、仕えて以来初めてだ。常に神経を尖らせ、他人に隙など見せないのに。しかも今、リンディは彼にとって、最も警戒すべき人物なはず。いわば敵の前で、こんなに熟睡しているなんて……やはり、愛していた時の、記憶の欠片が残っているのだろうか)
長い睫毛を伏せ、少し口角を上げながら眠る主は、年齢よりもずっと幼く見えた。もしかしたら、これが彼の本来の姿なのかもしれないと。
自然に起きるまで二人を観察していたい気もするが、そういう訳にもいかず……ヨハネスは呼び掛ける。
「ルーファス様、お屋敷に到着致しました」
しばし待つが、返事はない。今度は少し声を張り上げてみると、瞼が小刻みに瞬き、ルビー色の瞳が覗いた。彼の視界に真っ先に飛び込んできたのは、どうやら足元のブロッコリーらしく……ひっと叫ぶと、足を引っ込め小さく縮こまった。
その声に、リンディも目をこすりながら、もぞもぞと起き上がる。寝ぼけ眼に飛び込んできたのは、長い足を両腕で抱え震えるルーファスと、鞄からはみ出たブロッコリー。
リンディはさっと向かいの座席へ飛び込むと、それを鞄に押し込み、後ろ手に隠した。
「お義兄様、もう大丈夫よ! ブロッコリーはどこにもいないわ! 足を伸ばしても、顔を上げても大丈夫!」
素直にこくこくと頷き、腕の隙間からチラリと周りを覗くルーファス。本当にアレがいないことを確認すると、はあと脱力した。
その様子にリンディはにこりと笑う。散らばった彼の靴を拾うと、「はい、どうぞ」と揃えて置いた。「これもどうぞ」と続けて眼鏡を差し出されたところで、ルーファスはようやく覚醒し、リンディを睨みつけながらそれを引ったくる。
慌てて目に掛けようとするも、ピタリと手を止め、畳んで胸ポケットへしまった。
(こんなのを掛けて帰ったら、父になんと思われるか……また医師でも呼ばれたら面倒だ)
そんなルーファスを余所に、リンディはキラキラした瞳を彼の胸に向ける。
「何だ」
「それ……緑色に見えるんですか?」
「……さあな」
「掛けてみたい! 少し貸してもらえませんか? ほんの少しだけでいいから……ねっ。あっ、これと交換!」
差し出された二本の短剣を、ルーファスは即座に引ったくる。
「サーベルも寄越せ」
はい! と何の疑いもなく差し出すリンディに、ルーファスは内心ほくそ笑む。
(……馬鹿め。策士かと思えば、大したことはなかったな)
無事に全ての武器を取り戻したルーファスは、意気揚々と馬車を降りた。
(あれ……?)
リンディも慌てて降り、ルーファスの後を追う。
「ねえ! 眼鏡は!?」
一連のやり取りを観察していたヨハネスは、遠ざかる二人の背中を見て、うんうんと頷いていた。
(これは……いい感じかもしれない)
笑いながら扉を閉めれば、車内に残っていた甘い香りが、ふわりと風に流れた。
(リンディ……扉の外にいた僕を見向きもしなかったな。ルーファス様を追い掛けていたんだから当然か)
チクリ……チクリ……
今日は、いつもよりはっきりと胸が痛んだ。
結局眼鏡を貸してもらうことは出来なかったリンディ。ルーファスに続き屋敷に足を踏み入れると、周りを見回し、鼻をすんと啜った。
(懐かしい……何もかもが懐かしい……)
重厚感のある門も、広間の茶色い大理石も、木製のシックなシャンデリアも。
「おかえりなさいませ」
自分に言われた訳ではないのに、まだこの屋敷の、セドラー家の一員であると錯覚してしまいそうになる。
「旦那様は外出されていまして、二時頃のお戻り予定です。昼食はお待ちにならずお召し上がりいただくようにと」
「部屋に運べ」
「かしこまりました。坊っちゃまの本日のお部屋は二階でございます」
従僕に先導され、ルーファスは階段を上がる。
(本日のお部屋……? 自分のお部屋を使わないのかしら)
まるでホテルみたいと首を傾げるリンディに、一人の使用人が話し掛けた。
「リンディ様のお部屋は一階にご用意させていただきました。ご案内致します」
そう微笑むのは、一度目の人生でよく身の回りの世話をしてくれた使用人だ。リンディは抱き締めたい気持ちを何とか抑え、「よろしくお願いします!」と元気に握手をした。
彼女の後に続いて廊下を歩きながら、改めて周りを見回す。
(何も変わらない……変わらないのに。あの頃よりもずっと広く、寒々しいと感じるのは何故だろう。モリーさんやサム爺の姿は見えなかったけど……此処に居る間に会えたらいいな)
自分を慈しんでくれた人達の笑顔が、鮮やかに胸に浮かんでいた。
用意された二階の客間に入るなり、ルーファスはソファーに重い腰を下ろした。
室内の窓という窓には厚いカーテンが閉められており、まだ正午前だというのに薄暗い。光の刺激が苦手なルーファスの為に、使用人達がいつもこうして整えているのだ。
(……今夜は眠れるだろうか。いっそ寝ずに一晩明かそうか)
不安気にベッドを見る。この屋敷で眠ると、夜な夜な母の悪夢に魘される為、滞在する度に部屋を変えていた。気休めにしかならないが、それでも自分の部屋を使うよりはずっとマシだった。
(それにしても……)
ルーファスは武器をテーブルに並べながら考える。
(あんなに熟睡したのは久しぶりだ。いつ眠ったかすら覚えていない。そうだ……あの女の涙を見ている内に、段々と瞼が重くなっていったんだ。やはり指輪の魔力のせいだろうか。
結局尋問はうやむやになってしまったが、まだ帰りの馬車もあるし焦ることはない。それに……こいつも餌に出来そうだしな)
胸ポケットから、例の緑眼鏡を取り出す。
(やはりブロッコリー女だけあって、相当緑に興味があるらしい。少しだけなどと言って、奪い取る気でいるのだろう。特注品の高価な眼鏡を、そう簡単に渡してたまるか)
自分の胸へ短い腕を伸ばし、ピョンピョン跳ね回っていた無様な姿を思い出す。
(そういえば……今日の女は緑ではなく、青と白だったような。まあ、何色でも構わない。とにかく油断せず、この目でしっかりと監視しなくては。一体何を企んで、父に魔道具を渡そうとしているのか……)
「失礼致します。お食事をお持ち致しました」
給仕が昼食のトレイを置く。熟睡した為か、頭も胃袋もスッキリしていたルーファスは、珍しく全ての皿を空にした。
◇
「予定が長引いてしまいすまなかった。本当は一緒にお茶を飲みたかったんだが」
「いえ! お招き頂きありがとうございます」
カラスが鳴き始める頃屋敷に戻ったデュークは、夕陽の中で礼をする、美しいリンディに目を細める。
「リンディ、今日は一段と綺麗だな。王女様よりずっと綺麗なんじゃないか?」
『うちのお姫様が世界一だ』
もう娘ではないのに、一度目の人生と同じ屋敷で、同じことを言ってくれる義父に、リンディは泣きそうになる。
(とっておきを着てきて良かった!)
二人は父娘だった時と、何も変わらぬ笑顔を交わした。
誕生日を祝う夕食の席には、主役のリンディをはじめ、デューク、ルーファス、それと教室の仕事を終えてから到着したフローラの、元家族四人が無事に揃った。また、デュークの配慮で、リンディが兄のように慕うヨハネスも同席を許された。
長いテーブルの中央には、リンディが大好物だと手紙に書いていた、苺と生クリームがたっぷりの巨大なケーキまである。
(幸せ……今日はなんて幸せな日なの。お義兄様に優しく触れてもらって、家族だった皆が揃って、ヨハン兄様までお祝いしてくれる。本当に18歳で……32歳で死んでしまってもいいって、そう思えるくらい嬉しい!)
二度目の人生で一番幸せだったかもしれないこの日、リンディは涙ぐんだ瞳で、正面のルーファスへ微笑みかけた。




