第4羽 白鳥、カラスに出逢う
クリステン公爵家の令息、ルーファスは非常に賢かった。難しい公式を直ぐに理解し、記憶力も良い。
ただ、突然ペンを持つ手がピタリと止まり、何を問い掛けても反応が失くなる。リンディが何か他のことに夢中になるのとは異なり、彼は全ての情報を遮断しているように見えた。
そういう時は勉強を中断し、フローラは気長に彼が戻って来るのを待つことにした。
また、最初の挨拶以外に彼の声を聞くことはなかった。否定の時は首を微かに振り、肯定の時は微かに頷く。後は問題の答えを書き込む際の筆談だけである。
(母親を亡くした為と聞いていたけど……もう二年も経つのに。相当なお母さん子だったのかしら)
僅か7歳の子供がここまでになるには、何か他に事情がある気がするが、他所様の家庭に足を踏み込んではいけない。
自分に依頼されたのは、この子の勉強を見て成績を上げる。ただそれだけなのだからと、フローラは今日もルーファスの部屋を後にした。
中庭の池で金魚を描きながら寝落ちしたリンディを、フローラはそっとベッドまで運ぶ。
拾い集めた色鉛筆を箱に戻していると、黒色だけが異様に短くなっていることに気付いた。
こんなに減るのは、あのおたまじゃくし事件以来だ。今度は一体何を描いているのかしら……とスケッチブックを見ようとするも、それはすやすやと眠る彼女の腕に抱かれている。
「失礼致します」
モリーが洗濯済みの衣類を手に、静かに部屋を訪れる。
「お嬢様、お休みになられたんですね」
リンディの寝顔を見てにこりと微笑む。
「ありがとうございます。いつもすみません」
「いいえ、お嬢様と遊ぶのはとても楽しいですよ。時間や空間、常識からも全て解放されるような、不思議な体験が出来ます」
そんな風に言ってくれるのは、此処の主人であるクリステン公爵と彼女くらいだ。
この先どうなるかは分からないが、かたつむりが結んでくれたこの縁に、フローラは深く感謝していた。
「あ……モリーさん」
「はい、何でしょう?」
「黒い色鉛筆が減っているのですが、リンディが何を描いていたかご存知ですか?」
「ああ、最近よくお庭でカラスを描いていますよ」
「カラス……よく飛んでいるのですか?」
「私はあまり見ませんが、お嬢様の想像力はそれは素晴らしいものですから。絵を幾つか拝見して、私大変感動致しました。個展を開きたいくらいです」
(想像力ね……カラスに見えるものって何だろう?)
「先日お伝えしましたが、明日はルーファス坊っちゃまの8歳のお誕生日です。旦那様より、昼食をご一緒にとの指示を受けておりますので、お時間迄にお嬢様と食堂へお越し下さい」
「承知致しました」
「お二人のお召し物は、クローゼットからお好きな物をご着用下さいとのご伝言です」
( “ 食 ” と “ 住 ” だけでなく “ 衣 ” まで。こんなに至れり尽くせりでいいのかしら)
フローラは、ムニャムニャと涎を垂らす娘に目をやる。
(一緒に食事か……リンディと坊っちゃまが会うのは初めてだわ。何か失礼がなければいいけど。明日でクビなんてことになりませんように……こんなに良い職場を失いたくないわ!)
手を固く組み、神に祈る。
(……何だかよく分からないけれど、今回はとりあえず、カラスに気を付けよう)
翌日、昼食の時間が迫っているというのに、中庭の池から動かないリンディにフローラは焦る。
(困ったわね……食堂に池を持っていく訳にはいかないし)
「お嬢様、こちらを金魚のお家にされてはいかがですか?」
モリーの手に抱かれた美しい硝子の鉢を見て、リンディは目を輝かせる。そして池に向かい、水に顔を突っ込む勢いで叫ぶ。
「エリザベス! このお家はどう? とても素敵だと思うけど」
今度は耳を水に向け、何やらうんうんと頷く。
「これに住みたいって!」
「それはようございました。エリザベスちゃん達にも、一緒に食堂で美味しいお食事を召し上がっていただきましょう」
モリーは手際よく、柄杓でエリザベスらを鉢に入れると、フローラにこそりと耳打ちする。
「旦那様にはお許しをいただいておりますので」
フローラはほっと胸を撫で下ろした。
普段服に興味を示さないリンディが、「カラス!」と興奮しながら選んだのは、黒い光沢のあるオーガンジーに、赤い薔薇の飾りが付いたワンピースだった。
やはり彼女の、現在の最大の興味はカラスらしい。食事会が終わったらスケッチブックを見せてもらおう。
そう考えながら急いで着替えさせると、フローラはリンディを、モリーは鉢を手に食堂へ向かう。エリザベスらに夢中になってくれていたおかげで、長い廊下を何とか脱線することなく食堂に辿り着いた。
食堂には既に、父子の姿があった。
「遅くなり申し訳ありません」
主人より遅れて到着するなど何たる失態。ああっと悶えそうになるフローラに、主人であるクリステン公爵ことデュークは静かに言った。
「……そんなに眉間に皺を寄せていただかなくても大丈夫です。少し早く来ただけなので。どうぞお掛け下さい。あ……鉢置きスペースも用意しましたので、お嬢さんはどうぞそちらの席に」
テーブルを見れば、子供用の背の高い椅子の横に、小さな台が用意されている。
なんという配慮! これなら鉢に集中している間に食事を済ませられる(もう最悪リンディは食べなくてもいい)し、万一鉢をひっくり返しても被害はあの台の上だけで済む。フローラは感極まって泣きそうになった。
「ありがとうございます! さ、リンディご挨拶を」
「カラス!!」
(…………え?)
気付けば隣にいたはずのリンディは、ルーファスの元へ行き、彼の顔を指差している。
「赤い目のカラス!」
(カラス……烏……カラス)
フローラはひゃっと声にならない悲鳴を上げた。