第39羽 ままごとみたいな
眩しい休日の昼下がり。絵の具のにおいが漂うアパートの一室で、義兄妹ではなくなった二人は向かい合っていた。
窓から流れ込む柔らかい風が、ルーファスの艶やかな黒髪をさらさらと撫でる。その度に天使の輪が形を変える様を、リンディは愛しげに見つめていた。
「欠伸したいんだけど……動いてもいい?」
「うん!」
横を向き、ふわあと息を吐くと、再び本に涙目を落とすルーファス。リンディは微笑みながら、筆先にルビー色を付け、丁寧にキャンバスへのせていく。
(お義兄様の顔なんて、もう隅々まで覚えてるから見なくても描けるけど……でも、今日はどうしても、顔を見て描きたかった。海で初めてお義兄様の顔を描いた、あの日のように。
あの日 『人』を初めて描いたのは何故だったのか。帰りに何故お義兄様と手が繋げなくなってしまったのか。すごく時間が掛かってしまったけど、今やっと分かった。
心は一足先に、初恋を教えてくれていたのに……私の頭はどんくさいから。
理由は分からないけど、最近一日一日がとても切ない。今日の終わりが無性に悲しく、明日よ来ないでと願ってしまう。
私は何て勿体ない年月を過ごしていたのだろう。義兄じゃなく、一人の男性として彼を愛していると……もっと早くに自覚していたなら)
そっと筆を置くと、リンディはキャンバスから離れ、自分で描いた『恋人』の瞳を見つめる。
綺麗……お義兄様は本当に綺麗。初めて見た時から、ずっとずっと。
リンディの動きに気付いたルーファスは、立ち上がると彼女の背後に回り、そっと身体を抱き寄せる。
リンディは突然の温もりに驚くが、大人しく背中を預け、彼の腕にすりすりと頬を寄せた。
「綺麗な色だね」
「うん、王女様がくださったヘイル国の絵の具なの」
「……王女が?」
「画家みんなにくださったのよ。“ 歴史資料作成の激励 ” ですって」
「……そうか」
ルーファスはリンディをくるりと回して自分へ向けると、華奢な両肩に重い手を置く。彼の厳しい表情に、リンディは緊張し、しっかりと耳を傾けた。
「リンディ、何度も言うが、王女には絶対に気を許すな」
「うん。結婚出来なくなってしまうかもしれないんでしょ?」
「そうだ。それどころか兄妹にも戻れなくなってしまうかもしれない。どんなに誘われても、必ず二人きりになるな。困ったらすぐに僕を呼べ」
「はい! あれですぐにお義兄様を呼ぶわ」
リンディは何かを持って話したり、耳に当てるジェスチャーをしてみせた。
「うん、必ずあれを持ち歩くんだ。約束だぞ、いいな?」
「はい!」
真剣な顔で頷くリンディを、ルーファスは強く抱き締める。
「結婚したら……もう少し広い部屋に引っ越さなきゃな。ここは二人じゃ狭い」
「私は今のまま、別々の部屋でお隣同士がいいわ」
「……どうして?」
ルーファスの瞳が不安に揺れる。
「だって私の部屋は、いつもこんな風に画材で散らかっていて汚いんですもの。片付けようとしても、すぐに他のことで頭が一杯になってしまって」
恥ずかしそうに下を向くリンディに、ルーファスはほっと笑う。
「何だ……そんなことか。てっきり、僕と一緒に住みたくないのかと思った」
その言葉にリンディは慌てる。
「そんな訳ないわ! でも……一緒に住んだら、お義兄様が私のことを嫌いになってしまいそうで」
「小さい頃から一緒に住んでいたじゃないか」
「それは……大きいお屋敷だったし、身の回りのことは他の人がやってくれていたでしょ? お義兄様の妻になるのだから、しっかりしないとって」
「自分のことは自分でやるから大丈夫。君のアトリエもちゃんと用意するから、好きなだけ絵を描くといいよ。片付けは僕が手伝う」
「でも……」
不安気なリンディの両手を、ルーファスは優しく握る。
「じゃあリンディは毎朝パンを焼いてくれる? あと、フルーツも切って欲しい。君の焼き加減は最高だし、林檎やオレンジも綺麗で嬉しいから」
「……そんなことでいいの?」
「もちろん。それぞれ得意なことをすればいいんだよ。僕は毎晩スープを作るからね」
すると、やっとリンディの顔に笑みが広がった。
「そっかあ。私、少しずつ得意なことを見つけていくわ」
「僕もそうする。初めての結婚生活なんだから、手探りでいいんだよ」
(……まるで子供のままごとみたいだな。朝起きて、キスをして、一緒に顔を洗う。君がパンとフルーツを準備している間に、僕はお茶の用意を。
君の楽しいお喋りを聴いている内に、時計はあっという間に家を出る時間を示す。慌てて皿を片付け、もう一度キスをしてから玄関のドアを開ける。
そんな朝が……本当にそんな幸せな毎日がやって来るのだろうか)
「お義兄様の指輪……もう砂がなくなりそうね」
ぽつりと呟かれたリンディの言葉に、ルーファスは震える。
「砂が全部なくなったら、魔力もなくなって、指から外れるのかしら。そしたら私、お義兄様に新しい指輪を買ってあげるわ」
長い薬指を撫でながら、リンディはにこりと微笑む。
(リンディ…………)
緩んだ心の隙間に、恐怖が一気に押し寄せる。自分を支えられなくなったルーファスは、儚い身体に縋り付いた。
(もっと傍に居たい、もっと彼女を知りたい……もっと、もっとと欲張り過ぎてしまった。
結婚なんかしないで、義妹のままでも良かったんじゃないか? 彼女が元気に、こうして笑っていてくれるなら……それだけで……)
ルーファスはリンディの左手を、自分の両手で強く包み込む。そこにコツンと額を当て祈った。
(頼む……父が元気だった頃に戻してくれ。きちんと想いを伝えて、早い内に離縁してもらうんだ。そしてリンディが成人したその日に……18になった誕生日にすぐに結婚するんだ。頼む……どうか、どうか……)
ひとしきり祈るルーファスの瞼を、柔らかな風が撫でていく。恐る恐る瞳を開くが……そこには何も変わらぬ自分の部屋と、今にも消えてしまいそうなリンディが立っていた。
(────君と最後に過ごした、穏やかなこの日。
手を繋ぎ、何処か遠い所へ逃げてしまえば良かったね)
◇
翌日、資料製作で慌ただしい作業室に、王女の侍女がやって来た。
「リンディ・セドラー嬢、国王陛下がお呼びです。画材を持って、至急付いて来るように」
ロッテはベルを鳴らしながら、何よこの忙しい時に! と侍女を睨む。
(でも変ね。何で王様のご命令なのに、王女の……しかも侍女が? 呼び出し程度なら、通常は小間使いを使うのに)
ベルの音に気付き、用件を理解したリンディは、慌てて画材を手に立ち上がる。その拍子に筆洗いが倒れ、折角描いた絵にじわりと色水が染みていった。
「ひゃあっ!」
「ああ、いいわよいいわよ。片付けておくから早く行きなさい」
「ごめんなさい! よろしくお願いします!」
部屋を出ようとしたリンディは、あっ! と足を止める。
(王女様じゃなくて王様だから……大丈夫かしら)
鞄に入れたままの魔道具のことを思い出すも、そのまま部屋を出て行った。
駆け出すリンディの背を見送ると、ロッテは雑巾を手に腰を上げる。濡れて歪んだ紙には、王宮の牢獄の絵。赤黒い水に染まったそれに、彼女は得体の知れない恐怖を抱いた。




