第36羽 暗い夜と子守唄
死後離縁とは、養親もしくは養子が亡くなった後に、養子縁組の解消をする手続きのことだ。
隣のサレジア国や養子縁組の多い北のヘイル国ではよくある話だが、ここムジリカ国では、一般的な養子縁組の解消ですら手続きが難しく、死後離縁は基本的に認められていない。
『家族』の繋がりを重んじるムジリカ国ならではだろう。たとえどんな事情があろうと、双方が生きている内に手続きを行わない限り、生涯親子関係は切れないのだ。
フローラと再婚する際に、リンディを養女に迎え、正式なクリステン公爵令嬢にしたデューク。
今、王女が言う死後離縁とは、その養子縁組の解消を指していると、ルーファスは即座に理解した。
「貴方もご存知でしょうけど、我が国では死後離縁は認められていないわ。……たった一つの例外を除いて」
王女の手元にあるのは、王室で発行された特別な書類。まだ空欄にもかかわらず、国王の承認欄が物々しい存在感を放っている。
「養子縁組の解消ごときに、国王の承認を得るなんて余程のこと。政治がらみや国に関わる何らかの特別な事情がある場合のみね。だけど……父が最も信頼していたセドラー元宰相の息子が頼めば、簡単にやってくださるでしょう」
書類を見たままごくりと息を呑むルーファスに、王女はすかさず畳み掛けた。
「養子縁組が解消されれば、貴方とリンディは兄妹でなくなる。……結婚出来るのよ、男爵令嬢リンディ・フローランスと」
「何故私にこのようなお話を? 養子縁組を解消したとして……仮に私とリンディが結婚したとして、貴女に何かメリットがあるのですか?」
(さすがルーファス・セドラー。一筋縄ではいかないわ。でも、こうでなくちゃ。落としがいがなきゃつまらないもの)
王女は整った眉を下げ、くっと笑った。
「心外ね。私は損得ばかりで動く人間ではないわよ。貴方達の為に何かしたいと言う父の気持ちを汲んで、思いついたことがこれだっただけ」
手入れされた長い爪が、トンと書類を叩く。言葉を選ぶ素振りをしながら、王女は神妙に続ける。
「そうね……あえてメリットを挙げるとするなら、陛下にお元気でいて欲しいということかしら。病は気からと言うでしょ? 貴方達の力になることで、心身を奮い立たせていただければと。弟はまだ幼くて頼りないし、万一何かあったら困るもの」
ルーファスは警戒心を保ったまま、王女の腹の中を探ろうとする。そんな彼を揺さぶる一言を、王女は投下した。
「この間ね、リンディに縁談を勧めたの」
「……何?」
一気に鋭い表情へ変わる彼を、王女は更に刺激する。
「良いお話があったから。でも、一生結婚する気はないと、キッパリ言われてしまったわ。貴方もそうでしょ? リンディとしか結婚したくないのでは?」
「……リンディのことは、家長である自分が責任を持ちます。家族のことに他人が口を挟まないでください」
「お互いこのままで居られるの? 万一貴方達の関係が世間に露呈すれば、後ろ指を指されるのは、貴方ではなく立場の弱いリンディの方よ」
痛い所を突かれ、ルーファスは膝の拳を強く握る。
「……国王が認めたことなら、セドラー家のご親戚方も何も仰らないでしょう。お互い一度他人に戻って、堂々と結婚したらいいのよ。何を躊躇うことがあるの?」
王女は書類をルーファスの前に突き出し、とどめの一言を放った。
「早く決断した方がいいわよ。……国王陛下がお元気な内にね」
書類を入れた鞄を握り締めながら、ルーファスは帰路に就く。頭を冷やす為、馬車は使わず、夜風が流れる静かな道をゆっくりと歩いていた。
あの王女のことだ……何か裏があるに違いない、慎重にならなければと解っているのに。思わず飛び付いてしまいそうになった。
兄妹じゃなくなる。リンディと結婚出来る。こんな夢のような話を突き付けられて、よく耐えたものだと、ルーファスは自嘲しながらも感心していた。
(父上はどう思われるだろう。実の娘同然に可愛がっていたリンディとの親子関係を勝手に解消され、更に息子と結婚するなんて。……落胆されるだろうか。嫌悪感も抱かれるだろうか。
だが、セドラー家が断絶してしまうことこそ、父は喜ばれないだろう。自分が無理にでも他の女性と結婚すれば済む話だが、それでは自分とリンディはもちろん、その女性も必ず不幸になる)
自ら命を絶った実母の姿が浮かび、ルーファスの胸を締め付けた。
(……こんなことなら勇気を出して、父に本当の想いを伝えておけばよかった。リンディを愛していると。妹ではなく、一人の女性として愛していると)
『ルーファス……お前も……リンディが好きか?』
月のない暗い夜。外灯の淡い灯りだけが、彼の行く手を照らしていた。
アパートに着き、いつもの習慣でふと窓を見上げたルーファスは驚く。リンディの部屋は暗いのに、自分の部屋には灯りが点いていたからだ。
階段を上がるのももどかしく、勢いよくドアを開ければ……やはりそこにはリンディが居た。
「リンディ」
寝巻き姿で何かの小包を抱えたまま、ソファーに行儀良く座っている。入ってきたルーファスに気付くと、顔を上げてにこりと笑う。
何かあった時の為にと合鍵を渡していたが、実際に彼女が使ったのは今日が初めてだった。
「おかえりなさい、お義兄様」
「どうした? 何かあったのか?」
「うん……あのね、これタクトから届いたの。お義兄様と一緒に使いたくて」
リンディの横に腰を下ろし包みを開くと、底に細かい穴が無数に空いた、コップのような物が二つ出てくる。
「離れた人に声を届ける魔道具。……前にお義父様が欲しいって言ってたでしょ? タクトにお願いしてたの。まだ試作品だけど、完成したから使ってみてって」
『お義父様は何か、タクトに作って欲しい魔道具はありますか?』
『そうだなあ。声を届ける道具かな』
『声?』
『うん。離れていても、声を届け合う道具が欲しい』
「もっと早くお願いしていたら……お義父様の声、沢山聞けたのにな」
ボロボロと泣き出すリンディを、ルーファスは抱き寄せ優しく言う。
「……使ってみようか?」
ルーファスはバルコニーへ出ると、コップの一つを空へ向けて置き、窓を閉める。そしてもう一つをリンディの口へ向けて言った。
「お父様に何かお話ししてごらん」
リンディはこくんと頷くと、すうと息を吸い込み、小さな声で語り掛ける。
「……お義父様、お元気ですか? どこか苦しいとこない? ご飯は沢山召し上がっていますか? ……あのね、あのね、私は元気で、ご飯も沢山食べて、仕事も楽しくて……だけど……お義父様に会いたい。毎日毎日、お義父様に会いたい。夢の中でもいいから……会いたい」
ひっくとしゃくりあげるリンディの口からコップを離し、今度はそれに二人で耳を傾ける。
────夜風の音だろうか。ただ、カサカサと心地好い音が、義兄妹を子守唄のように包んだ。
聴いている内に、元気だった時の父の笑顔が、ぱっと鮮やかに浮かぶ。二人とも同じだったのか、涙に濡れた顔を見合わせ微笑んだ。
「お義父様……笑ってるみたい!」
「そうだね」
何も喋らず、しばらくその優しい音に心を委ね続けた。
「……今度一緒に、タクトにお礼を言おうな」
小さな背を撫でるルーファスの左手。二人の涙に呼応するように光る砂は、あと僅か────
ほんの数粒しか残っていなかった。




