第34羽 家族の定義
屋敷へ向かう馬車の中で、二人は一言も喋らなかった。ルーファスはリンディを落ち着かせる為、ただ震える手を握り続ける。
窓の外には、笑いながら歩く人々や、のどかな荷馬車。空は青く、草木もゆったり流れているのに、自分達とはまるで別世界に思えた。
◇
「最近はずっと不安定で、眠る時間がどんどん長くなっていったの……遅くなってごめんなさい。ギリギリまでは貴方達を呼ばないで欲しいって、お父様のご意思だったから。でもやっぱり……もっと早く会わせてあげるべきだった」
痩せ細ったデュークの元へ、リンディは駆け寄る。
「お義父様、リンディよ! リンディが帰って来ました! お話ししたいことが沢山あるのよ、お手紙には書ききれなかったことがたっくさん! あのね……」
リンディのお喋りにも、デュークは目を覚まさない。風でふっと消えてしまいそうな、微かな呼吸を繰り返し、ただ横たわっているだけだった。
ルーファスもベッドサイドの椅子に腰掛け、ただ黙って父の顔を見下ろし続ける。
それから何時間経っても、デュークの傍を離れず喋り続けるリンディ。……が、ついに話すことが尽きたのか、そっと口をつぐんだ。
「どうしよう……もう話すことがなくなっちゃった。これじゃお義父様、起きてくれないわ。どうしよう、ねえお義兄様、どうしよう……」
わっと泣き出すリンディを、ルーファスは強く抱き締める。
「大丈夫……目は瞑っていても、ちゃんと声は聞こえているよ。……そうだ、リンディ。あの歌を覚えてる?」
“ カーラス、カラスさん~まっくろね~
だけどおめめはまっかっか~何を食べたらそうなるの~ ”
突如うたい出すルーファスに、リンディはきょとんとする。それはルーファスと初めて逢ったあの誕生会で、リンディが即興でうたった歌だった。涙をごしごし擦ると、記憶を手繰り寄せながら一緒に口ずさむ。
“ カーラス、カラスさん~まっくろね~
だけどおふろは入ったの~せっけんつけても黒いまま~ ”
ふっ……
吐息のような笑い声に視線を落とせば……デュークが薄く目を開けてこちらを見ていた。
「……お義父様!」
リンディは椅子から飛び降り、デュークにしがみつく。ルーファスとフローラも立ち上がると、それぞれ両側からデュークの手を握った。
「楽しい歌だと思えば……やっぱり、お前達か。これは夢かな?」
「夢じゃないわ! 此処に居るの! 私達、此処でうたっていたのよ!」
「……そうか」
デュークは微笑み、優しい眼差しをリンディへ向ける。
「リンディ……君は、ルーファスのことが好きか?」
義父の問いに、こくこくと頷く。
「好き……大好き。お義兄様が世界で一番大好き」
「そうか……私は何番目だ?」
「お義父様は、二番目に大好き。お母様も!」
「そうか……妬けてしまうな」
デュークは同じ眼差しをルーファスにも向ける。
「ルーファス……お前も……リンディが好きか?」
(……一体父は、何故このような質問をするのだろう?)
ルーファスの背中を、嫌な汗が伝う。父の瞳を見下ろせば、それはどこまでも優しく、清らかで……まるで自分の心を見透かす鏡のようだ。
ルーファスは震える口を開く。
「私も……リンディのことが大好きです。大切な……」
“ 妹です ”
そう言おうとしたが、言葉にならない。代わりにルーファスの瞳からは、どっと涙が溢れた。
泣きじゃくる息子に、デュークは更に優しい微笑みを向ける。
「よかった…………よかった……」
家族の定義とは何だろう。血の繋がりか、共に過ごした時間か……それともこの温もりだろうか。
今、何も喋らずにただ寄り添う四人は、誰の目にどう映ろうと、紛れもない家族であった。
しばらく温かな時間を共有した後、デュークは静かに言う。
「……お母様と二人にしてくれないか?」
二人きりになった夫婦は、見つめ合い微笑む。フローラはデュークの手を握り、少し怒った口調で言った。
「子供達がお別れに間に合ってよかったわ。貴方ったら本当に頑固なんですから。もしあのまま目を覚まさなかったら、私が一生恨まれてましたよ」
「すまないね……でも、ちゃんと起きただろう?」
「そうね、その根性に免じて許してあげます」
ふふっと笑い合う。気丈に話すデュークだが、その呼吸は浅く揺れており、命の終わりを示していた。
「フローラ……君を、愛しているよ」
突然の告白に、フローラはおどけた表情をする。
「あら、今更? どうせならプロポーズの時に言ってもらいたかったわ」
「そうか……私はとことん不器用だな……」
叱られた子供のような顔をする夫に、フローラは噴き出す。
「嘘よ。私、プロポーズの時、もし貴女に好きとか愛してるなんて言われてたら、きっと結婚していなかったわ」
「……そうなのか?」
「ええ、だって一度目の結婚はそれで失敗しているんですもの。ルーファスの……子供の為に結婚したいと言った貴方だから、承諾したのよ。この人ならきっと、私の宝物も愛してくれるってね」
デュークは「そうか……」と呟きながら、潤んだ瞳に遠い日を映す。
「私の判断は間違っていなかった。二度目の結婚は大成功だったもの。おかげでとても幸せだったわ」
デュークの頬を涙が伝う。
「私も大成功だったよ……ありがとう、フローラ」
「こちらこそ……ありがとう、デューク様。私も……私も貴方を愛しているわ。とてもね」
この会話を最期に、もう彼が目覚めることはなかった。その日の夜、デューク・セドラーは最愛の家族に看取られながら、僅か44年の生涯に幕を下ろした。
暗い部屋の中、蝋燭の灯りが照らす父の顔を、ぼんやりと見つめる義兄妹。リンディが贈ったクラヴァットを身に着けたデュークは、その金糸の輝きに負けないほど、穏やかで幸福な顔をしている。
突如リンディは、何かに弾かれるように立ち上がった。
「……リンディ?」
「タクトの所へ行ってくる。時計、砂時計をもらってくるから。一分とか十分だけじゃなくて、もっと時間を戻せるようになっているかもしれないでしょ? そしたらお義父様、また目を覚ましてくれるでしょ?」
「リンディ」
「それか、海へ行ってくる。あの蛇のおじいさんが居るかもしれない。新しい砂時計をもらえるかもしれない」
駆け出そうとするリンディを、ルーファスは後ろから抱きすくめる。自分の胸元で光るルーファスの指輪を見て、リンディは叫んだ。
「そうだ……指輪!」
リンディは左手を目の前にかざすと、何やらぶつぶつと呟き出す。
「この指輪は、夫婦の契りを交わす男女に適している。互いの薬指に嵌めると同時に、石の砂は相手を表す。
それぞれ一度だけ、相手への想いで石を潤した時にのみ、願った時に戻ることが出来る……」
それは指輪の説明書の文言だった。指輪を受け取ったあの時、たったの一度ルーファスが開いた物を覗き見ただけで、一字一句正確に暗記しているリンディ。彼女の記憶力に、ルーファスは改めて舌を巻いた。
全て言い終わると、リンディは両手を組み、指輪に祈りを捧げる。
「お願い……時を戻して。一年……二年? 病気になる前に、お父様に教えてあげたいの。毎日お医者様の検査を受けてって、早く受けてって」
リンディは、セドラー家の男子が短命であることを知らない。デュークの死因は進行性の癌であるが、元気な内から毎週主治医の診察を受けていたことを考えると、抗えない運命であり、寿命だったのだとルーファスは思う。
それに……説明書の文言からして、この指輪は、指輪を嵌めたお互い、つまりリンディからすればルーファスへの想いにしか反応しない。どんなに願っても無駄なはずだ。
案の定、何も起こることはなく、デュークは安らかな顔で眠り続けている。
とうとう泣きじゃくるリンディを胸に抱き、ルーファスは優しい声でカラスの歌をうたい続けた。
◇
「クリステン公爵が……亡くなったの……そう」
翌日、王宮に届いた訃報に、アリエッタ王女はニヤリと笑った。




