第30羽 どちらが勝つか
「王女殿下と結婚するつもりは一切ありません」
父に向かい、きっぱりと言い放つルーファス。デュークは優雅にカップを持ち、ハーブティーの香りを楽しんだ後で静かに答えた。
「だが、毎日のように王宮で会っているそうじゃないか。国王陛下から、お前の意思を確認して欲しいと頼まれたんだ」
「会いたくなくても、誘われたら断れないでしょう。先程王女殿下とお話をして、私の気持ちはご理解いただきました。もう二度と誘われることはないと思いますので、ご安心を」
「……一体何を言ったんだ?」
「私が結婚したい理想の女性像をお伝えしただけです。ご自分とはかけ離れていると、王女殿下もご理解されたようですよ。もう次の約束は必要ないと言われましたし」
カップを持つデュークの手が、微かに揺れる。
「お前の理想像とは?」
「威張りくさらず、思いやりがあり、自立した女性です。王女殿下とは正反対でしょう。……断言します。彼女は宰相の妻にも、セドラー家の女主人にも向きません。絶対に」
デュークは溢れそうなカップを置くと、ははっと声を上げ笑い出した。予想外の父の反応に、ルーファスは唖然とする。
「……お叱りにならないのですか?」
「いや、よくやったよ。それでいい」
「宰相の息子が、王族を罵倒したのにですか?」
「罵倒したのか?」
「いえ、それは…………しました」
更に派手に笑うデューク。やっと落ち着くと、目尻を拭いながら口を開いた。
「我がセドラー家と、王室の絆は強い。王女様との結婚を断ったくらいで、どうこうならんさ」
「国王陛下がお怒りにならないでしょうか?」
「陛下も王女様の気質はご承知の上だ。仕方がないとご理解くださるだろう」
「……父上、王女殿下があのようなのは、やはり王太子殿下が原因ですか?」
「生まれつきの気質もあるし、何とも言えないが……少なくとも王太子殿下のことは影響しているだろうな。私達臣下にも、その責任はある」
王女の父である現国王は、気難しい所はあるものの、思いやり深く国民に寄り添った政治を行う賢王である。王妃は物静かな女性で、表舞台に立つことをあまり好まないし、現在12歳になる王太子も同様、温厚で優しい性格だ。あの王女だけが何故……と考えれば、その背景に複雑な事情が思い当たった。
王女は病死した前王妃の娘で、王太子とは腹違いの姉弟である。前王妃の死後すぐに、国王も持病をこじらせ、新しい妃を迎えても次の子供は望めないと言われていた。
男性優位のムジリカ国において、女性である王女には王位継承権がない。傍系も女児ばかりで世継ぎがいないことを懸念した当時の大臣らが、優秀なアリエッタ王女に王位継承権を与えようとしたのだ。法律の改正案が出ていた正にその時、新薬の効果で国王の持病は完治した。
その後、国王は新しい王妃を娶り、無事に男児を設けた為、法改正は見送られた。女王になるつもりで密かに帝王学まで受けていた王女は、その頃から荒れ出したという。また、王太子の発達が緩やかで、帝王学の進みが遅いことも、王女の怒りに拍車をかけたと囁かれている。
確かに王太子は、リンディのように学問において得手不得手の差が激しいが、ルーファスから見る限り、王女よりも余程国王に相応しい素質がある。難しい点は、宰相となった自分が全力でサポートしようと、心に誓っていたのだ。
(王女が女学校時代、リンディに辛く当たったのは、王位を奪った弟と性質が似ているリンディを重ねたのかもしれない)
そんな風にも考えていた。
「ルーファス。お前には他に、意中の女性がいるんじゃないか?」
慈愛に満ちた眼差しに、ルーファスは耐えられなくなり下を向く。膝の上で手を握り締め、やっとのことで言葉を発した。
「いえ……父上もご存知でしょうが、男性ばかりの職場ですから。出会いなどありませんよ」
「そうか……」
深い沈黙が父子の間に広がる。
「さあ、お茶が冷めてしまう。熱い内に飲みなさい」
「……はい。頂きます」
それからしばらくは、ティーカップとソーサーの触れる音だけが、静かな執務室に響いていた。
「折角来たのに泊まって行かないのか。明日も休みなんだろう?」
話を終え、早々に帰り支度をするルーファスに、デュークが問う。
「すみません。きっとリンディが、首を長くして私を待っていますので」
「……そうか、リンディが。それなら仕方ないな。早く帰ってあげなさい」
優しい笑みを浮かべる父は、ルーファスの目に、どこか儚く寂しげに映った。
仕事が立て込んでいるから見送りは執務室で、と言うデュークと別れ、広間でフローラと挨拶を交わしていた時だった。廊下の奥から、使用人が慌ただしく飛んできて叫んだ。
「奥様! 旦那様がお倒れに……!」
◇
主治医が帰り、親子三人だけになった寝室。薬草のにおいが漂うベッドの上で、デュークは気まずそうに呟いた。
「あともう少しだったのに……バレてしまったな」
そんな父を、ルーファスは険しい顔で問い詰める。
「何故本当のことを教えてくださらなかったのですか。私はこのセドラー家の後継ぎであり、貴方の息子です。こんな時こそ頼りにしていただきたかったのに……そんなに私は未熟ですか?」
「……すまない。でも、未熟だなんて思っていないよ。ただ心配をかけたくなかっただけなんだ。お前もリンディも、今が大事な時期だからね」
「結局こうして心配をかけているじゃないですか!」
タオルでデュークの額を拭いながら、「本当よねえ」とフローラが笑う。
「だから言ったのに。貴方はお芝居に向いていないんですから、すぐにバレますよって。ルーファスったら、突然帰って来るものだから、屋敷中みんなヒヤヒヤしましたわ。予行練習も何も出来なかったし」
「私は咄嗟に杖を蹴り飛ばして、机の下に隠したんだ」
「あら、お元気じゃない。その調子なら大丈夫よ」
呑気に笑い合う夫婦にどっと疲労感が押し寄せ、ルーファスは椅子の背もたれに身体を預けた。
「すまなかったな。結局帰れなくなってしまって。リンディは大丈夫か?」
「兵に言伝を頼みましたから、ご心配なく」
仏頂面で言う息子に、デュークは微笑む。
「……ルーファス、少し二人で話をしようか」
デュークが目配せすると、フローラは桶を持ち部屋を出て行った。
「セドラー家の血について、お前に話しておかなければならないことがあるんだ。いつかいつかと悩んでいる内に、こんなギリギリになってしまって……本当に情けない。きっと神が、そんな私の尻を叩いたんだな」
眉を下げるデュークに、ルーファスは黙って耳を傾ける。
「我がセドラー家の男子は、代々ルビー色の瞳を受け継ぐ。この瞳を持つ者は知能が高く、宰相などの公職に就いてきたが、非常に短命なのだ。私の父を含め、多くが30~40代、比較的長生きした先祖でも、50代で亡くなっている。子供の時に父に教えられてから、私もずっと覚悟し、死に備えて準備をしてきた」
では何故……という顔をするルーファスに、デュークは一層眉を下げた。
「お前になかなか話せなかったのは、お前の本当の母親……ナタリアが絡んでいたからだ」
“ ナタリア ”
その名を聞いたルーファスの瞳に、昏い影が差す。
「セドラー家の男子の宿命を理解しつつも、私は自分の息子には出来るだけ長生きし、人生を謳歌して欲しいと考えていた。成人し結婚を意識し出した頃、黒髪を持つ人間は長寿であるという研究結果が正式に発表されてね。私は数ある縁談の中から迷わず、黒髪を持つナタリアを妻に娶ったんだ」
母から受け継いだ黒髪に、ルーファスは無意識に触れる。
「バチが当たったんだな……そんな理由で結婚したんだから。見限られて当然なのに、私は彼女を引き止めてしまった」
落ち窪んだデュークの瞳から、涙が溢れた。
「ナタリアが亡くなった時、私は気付いたんだ。始まりはどうであれ、彼女を愛していたことに。……生きていて欲しかった。例え他の男と、別の人生を歩んだとしても。ただこの世で生きていていてくれれば、それで良かったのに……何故私は……」
ルーファスは目を瞠る。父はずっと、不義を働いた母を憎んでいるものだとばかり思っていたからだ。
父と幼い自分を捨て、身勝手な愛に溺れた母。その残酷な最期が遺したものは、闇に怯える息子と、罪の意識を背負わされた哀れな父親だった。
「すまない、ルーファス……お前から母親を奪ったのは、この私だ。本当にすまない……」
いつの間にか、自分の瞳にも涙が溢れていることに気付く。ルーファスはさっと拭うと、骨張った肩を震わせる父へ向かい微笑んだ。
「……黒髪とこの瞳、どちらが勝つか分かりませんが、長生きする可能性があるということですよね? でしたら私は、希望を持って生きて参ります。それにもう、あの暗い闇は忘れました。……可愛い妹と明るい母が傍に居てくれたので」
「そうか……そうだな……」
デュークもまた、娘と妻の姿を思い浮かべ微笑む。
「フローラは、私の寿命を承知の上で結婚してくれたんだ。短い人生なら、私が楽しませてあげると。……彼女らしいだろ?」
「そうですね……さすが、私とリンディの母です」
寝室を出ると、廊下にはフローラが立っていた。デュークの前での明るい表情とは異なり、疲れているように見える。それでもルーファスに気付くと、母親の顔でにこりと笑った。
「ルーファス、お父様のお芝居を許してあげてね。親はいつでも、子供の前では頼れる存在でありたいものなのよ。あと……リンディにはまだ内緒ね。きっとあの子、何も手につかなくなってしまうから」
「……はい」
返事はしたものの、急に強い不安に駆られる。
『悪性の癌です。大分衰弱しておられますので、あと数ヶ月のお命でしょう』
(父が居なくなったら、自分はどうしたらいいだろう。この家を、遺された家族を守っていけるのだろうか。……やはり自分は、まだまだ未熟な子供だ。父が本当のことを言えなかったのも無理はない)
震えるルーファスの背中を、フローラは強く擦り続けた。




