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失くしたものは戻りません

作者: 藍田ひびき

 愛が無くては生きていけない、という言葉を聞いたのはどこだったろう。


 確かに愛からもたらされる感情は人生を豊かにするかもしれない。だがそこには正の感情だけではなく負の感情もある筈だ。別離や喪失――あるいは報われない想い。

 ルイーゼは時折、考える。そんな苦しみを背負い続ける事が、本当に自分の人生にとって必要なのだろうか。




 今日も見たくもないものが目に入り、ルイーゼは溜め息を吐いた。視線の先にあるのは学院の中庭で楽しそうに語らう男女だ。肩が触れるようなその距離に、否が応でも二人の親しさが伝わってくる。


「どうしたの?ああ……またなのね」


 中庭を通り抜けようとしていたはずのルイーゼが踵を返す姿に、友人のソフィアが首を傾げて問い掛けた。しかし直ぐに事情を悟ったらしい彼女は、険しい表情で中庭を睨みつける。


「放っといていいの?レドラー子爵令息は貴方の婚約者でしょう。私が注意してあげましょうか?」

「ありがとう。でも、いいのよ。マルティン様との約束だもの。学生の間は、何も言わないって」


 

 ◇ ◇

 

 

 王命によりルイーゼ・ハルツェン子爵令嬢とマルティン・レドラー子爵令息の婚約が結ばれたのは、彼女が10歳の頃だ。

 

 発端はとある男爵家の当主が不祥事を起こし、家が取り潰しとなった事。空白となったその領地をどうするか。一旦は王家直轄領にはなったものの、飛び地のような場所にある小さな領地の管理に、わざわざ人員を割く余裕は無い。


 そこで白羽の矢が立てられたのがルイーゼの実家、ハルツェン子爵家である。

 ハルツェン子爵家は王家に連なる家柄だ。といっても傍系の傍系のそのまた傍系、本当に末端なのだが。

 その娘であるルイーゼがレドラー子爵家の次男マルティンと結婚し、彼らが領地を治める。それが国王の決断だった。


 マルティンが選ばれたのはたまたま件の領地とレドラー家の領地が隣り合わせだったこと、またルイーゼより二歳年上で年齢的に釣り合いが取れていたからという単純な理由だ。

 レドラー子爵としても異論はなかった。行き場の無い次男に爵位が与えられる上、傍系とはいえ王家の血を引く家と姻戚を結べるのだから。


 顔合わせをした二人の相性は悪くなさそうということで、速やかに婚約と相成った。成人後はマルティンが男爵位を授かり、直轄領を貰い受けることになっている。いずれは彼らの子供、すなわち王家の血を引く男子が領主となるだろう。


 初めてマルティンと会った日のことを、ルイーゼはよく覚えている。

 湖水のような深い碧の瞳にお日様の色をした髪を持つ少年は、目をキラキラと輝かせながらルイーゼを見つめていた。


「僕がマルティンだ。よろしく!」

「初めまして。ルイーゼ・ハルツェンです」

 

 緊張しながら挨拶をするルイーゼ。マルティンはそんな彼女の手を握ると、突然走り出した。


「あ、あの、どこへ……」

「こっちにね、きれいな花畑があるんだ。見せてあげるよ」


 男の子に手を握られたのは初めてで。ドキドキすると共に、その手の温もりに胸がほわりとした。


 幼い二人は互いの領地を行き来して、時には外を走り回って遊んだ。天気の悪い日は一緒に寝転がってお喋り。あの時は侍女に見つかって随分叱られたものだ。


 たまには喧嘩をすることもあった。カードゲームでルイーゼに負けたマルティンが癇癪を起こしたのだ。それ以来、ルイーゼはわざと負けるようにしている。勝負に勝つよりも、マルティンが笑ってくれる方が嬉しかったから。

 どれもルイーゼにとっては大切な思い出だ。


「新しい領地には小さい湖もあるらしいよ。結婚したらそこへ別荘を建てるのもいいね。早く大人になってルイーゼと結婚したいなあ」

「マルティン様は、私と結婚するのが楽しみなのですか?」

「うん!だって、結婚したらずぅっとルイーゼと一緒にいられるもの」

 

 出会ったその日から、ルイーゼはマルティンに恋をしていた。彼も自分を好いていてくれると分かって、幸せで心がいっぱいになる。



 時が経ち、マルティンは貴族学院に入学するため王都へ行くことになった。ルイーゼも2年後に入学する予定だ。


「2年なんてすぐだよ。手紙を書くから。ルイーゼも書いて?」


 会えなくなるのが辛いと泣き出したルイーゼの頭を、マルティンは優しく撫でた。


「王都には洒落たカフェがあるって兄上が言ってた。ルイーゼが来たら連れて行ってあげるよ!あと劇場も。ルイーゼが行きたいところはどこだって連れて行くから!」


 最初のうちは、一月と空けずに手紙が届いた。仲良くなった同級生のこと、授業が難しくて大変なこと、王都の楽しげなお店のこと。それを読むと自分もマルティンと一緒にいるみたいでルイーゼは楽しかった。もちろんすぐに返事を出した。いつ返信が来るかと、指折り数えながら。

 だがマルティンからの手紙は徐々に減っていった。二月おきになり、三月おきになり……その中身もそっけなく、いつも同じような内容だ。

 

 休暇になってもマルティンはルイーゼへ会いに来なかった。自家の領地には顔を出したが、すぐに王都へと戻ったらしい。


「きっと都会の生活が楽しいんだよ。男の子にはそういう時期もあるんだ」


 マルティンは自分のことなど忘れてしまったのだろうかと不安がるルイーゼを、両親はそう言って慰めた。


 そして2年後、学院へ入学したルイーゼはマルティンと再会した。

 久しぶりに見た彼はずいぶん背が伸びていた。ふっくらしていた頬は痩せ、青年らしい顔立ちになっている。着ているものも流行のパリっとした服だ。凛々しくなった婚約者に、ルイーゼの胸はときめいた。


「久しぶりだね、ルイーゼ」

「マルティン様、お会いしたかったです。随分大人っぽくなっていて驚きましたわ」

「ああ……うん。ありがとう」


 彼のどこか余所余所しい態度に、ルイーゼは内心ショックを受けた。それにあの目。いつも自分を慈しむように見つめていた瞳が、今のマルティンには無い。婚約者同士積もる話もあるだろうと両親が二人きりにしてくれたが話はちっとも弾まず、マルティンは早々に帰っていった。


 マルティンのことが引っ掛かるものの、ルイーゼは学院での生活を楽しんでいた。見ること聞くことが何もかも新鮮だ。ソフィア・ラングハイム伯爵令嬢という仲の良い友人も出来た。

 彼女は同学年に婚約者がおり、休み時間になると度々ソフィアへ会いに来ている。どうやら婚約者の方が彼女に熱を上げているらしい。


「ソフィアと彼はとても仲が良いのね。羨ましいわ」

「ルイーゼにも婚約者がいるのでしょう?私もお会いしたいわ。昼食に誘ってみたらどうかしら」

 

 マルティンの教室へ会いに行くと、面倒臭そうに「用事があるから」と断られた。ならば明日はどうか、あるいは次の休日にと誘っても答えは同じだった。

 

 迷惑だったのかもしれない。そう考えたルイーゼは、学院で婚約者へ会いに行くのは控えるようにした。だけどこんなに近くにいるのだから、姿だけでも見たい。

 こっそりと上の学年の棟を訪れ、中を覗き見たルイーゼは……マルティンが見知らぬ令嬢と親しげにしている所を目にしてしまった。二人は顔を近くに寄せて語らい、腕や肩に手を触れている。

 

 息が止まりそうな衝撃だった。

 マルティンは他に好きな人ができたのだ。ずっと会いたいと思っていたのは自分だけ……。そんな思いがぐるぐると頭の中を回り、その夜は眠れなかった。

 

 二学年上に姉がいるという同級生に探りを入れて貰ったところ、マルティンと件の令嬢は恋仲であるらしい。二人きりで出かけることもあるようだ。

 それだけではない。見目の良いマルティンは女子生徒に人気があるらしく、過去にも別の令嬢と親しくしていた。彼が恋人をとっかえひっかえしているという噂は、上の学年では有名な話のようだ。


 信じたくないと思っても。彼と恋人らしき女性の仲睦まじい姿を実際に目にしてしまっては、疑いようもない。

 さらにマルティンは婚約者の存在を周囲に明かしていないという事実も分かった。


「なんて酷いのかしら。これはルイーゼだけじゃなく、ハルツェン子爵家をも侮辱する行為よ。一度、双方のご両親に相談した方がいいわ」

 

 ソフィアにそう勧められ、両親とレドラー子爵で話し合いの場を設けて貰った。

 レドラー子爵は「勉学にあまり身を入れていないとは思っていたが、そんな非常識なことをしていたとは」と平謝りで、マルティンをきつく叱ると言って帰っていったらしい。


「父に言いつけるなんて。ルイーゼは意外と性格が悪いんだね」


 約束していた月に一度の交流の場。何度もキャンセルされ、ようやく会えたと思えば開口一番の台詞がそれ。

 呆然とするルイーゼに対し、マルティンはフンと鼻を鳴らした。


「あまり煩く言うのはやめてくれないかな。いずれは結婚するんだし、学生の間は恋愛くらい楽しんでもいいんじゃないか?君もさ」

「私、マルティン様以外の相手と親しくするなんて」

「固く考え過ぎなんだよ、ルイーゼは。ともかく卒業するまでは好きにさせてくれ」

 

 今まで向けられたことのない、嫌悪の表情。動揺のあまり頭が真っ白になったルイーゼは「分かりました……」と答えるしかなかった。


 それからは彼が他の女性と親しくしようと、約束を何度も破られようと。ルイーゼは黙っていた。これ以上、マルティンに嫌われたくないから。


 ソフィアを始めとした友人たちはルイーゼを心配し、寄り添ってくれた。それがなければ彼女は学院を去っていたかもしれない。

 

 今日も余所の令嬢へ笑顔を向けるマルティンを見つめながら思う。

 こんな苦しい思いをするのなら、彼に恋なんてしなければ良かった。この恋心がなければ、ただの政略結婚だと割り切れただろうに。



 

「私が護り手に?」


 そんなある日のこと。突然ハルツェン邸を訪れた王宮からの使者が帰った後、深刻な顔をした両親がルイーゼを呼んだ。


「ああ。先代の護り手が亡くなって一年。そろそろ結界がほころびつつある。そこで新しい護り手を探しているそうだ」


 このロッズェ王国は三方を険しい山に囲まれた小国だ。山々には凶暴な魔物が生息し、常に人間たちを付け狙っている。そんな場所で何故この国が滅びず長らえているのか。

 それはこの国全体を護る結界のおかげだ。


 伝承によれば、この結界は主神ソヴユに仕える巫女が作ったものだという。彼女は神の力を借りてロッズェ国全体に魔物の侵入を防ぎ、人間のみが出入り可能な結界を構築した。

 国王は彼女の偉業を称え、巫女を王子と結婚させた。巫女が亡くなると彼女の娘、次は孫、その次は曾孫……と血縁者が新たな護り手となり、結界を維持させている。


 先代の護り手は伯爵家のご令嬢だったが、老齢で昨年亡くなった。当然のことながら王家は次の護り手となるべき女性を探したのだが、難航しているらしい。


 護り手は巫女の血を引く清らかな女性でなければならない。つまり、王家の血を引く未婚の令嬢だ。それだけでも選択肢が少ない上、候補に上がっていた女性が軒並み拒否したらしい。

 そのためルイーゼに話が来たのだ。末端とはいえ彼女は条件を満たしているのだから。


「陛下も無理強いはしないと仰っているそうだ。お前が嫌ならば、お断りするつもりだ」

「私たちに遠慮する必要はないわ。貴方の気持ちに従うようにするから、安心して頂戴」

「護り手とはそれほど過酷なものなのでしょうか?」

「いや、そうではない。ただ相応の犠牲を払うことになるそうだ」


 両親は乗り気ではない様子だ。詳細を聞いたルイーゼは少し考えさせて欲しいと答えた。


 

「護り手だって?凄いじゃないか!」


 翌日マルティンを呼び出して相談したところ、彼は大層喜んだ。


「まだ引き受けるとは決めてないわ」

「どうして?こんなに栄誉な事なのに。護り手となれば国中にその名が知られることになる。婚約者の俺も鼻高々だよ!」

「だけど結界を張る代わりに、差し出さなきゃならないものがあるのよ」


 ルイーゼは説明した。

 ソヴユ神は絶大な力の引き換えに、全身全霊をかけた服従を求める。そのため、巫女となった女性は未来永劫まで自らの愛を神に捧げなければならないのだ。

 

「もしかして結婚できなくなるのか?」

「いいえ。結界を張り終わった後ならば、結婚も可能らしいわ」

 

 一度張り直された結界は、巫女が死ぬまで保たれる。その後は自由の身ということらしい。

 

「じゃあ何の問題もないじゃないか」

「マルティンはそれでいいの?」

「勿論だ。反対する理由なんてないよ」

 

 マルティンは「新聞社から取材が来るかもな。俺も何を答えるか考えておかないと」なんて気の早い妄想を巡らせている。目の前の婚約者が顔を曇らせていることにも気付かず。

 

「そう……分かったわ。マルティンがそう言うなら、引き受けることにする」


 

 1週間後、ルイーゼは神殿へ赴いた。通された礼拝堂に横たわるのは音一つ聞こえない静謐だ。礼拝堂の正面には荘厳なソヴユ神像と、その下に三つの水盆がしつらえてある。


「最後にもう一度聞きます。本当に宜しいのですか?護り手になれば、貴方は過去、現在、未来全ての愛をソヴユ神へ捧げることになります。貴方はまだ若い。何があったかは存じませんが、これから幾らでも普通の愛に満ちた幸福を得られるはずだ」


 彼女を出迎えた神官長が問う。

 なかなか決まらなかった護り手がようやく来たのだから、神殿としては逃がしたくないだろう。それなのにこうやって確認してくれるのは、彼の優しさなのだ。


「覚悟は決めております」

「分かりました。貴方の決意と信仰心に敬意を表します。それではこちらへ」


 左側の水盆の前へと誘われたルイーゼに、神官長は祈りを捧げるように告げる。

 膝立ちになり両手を合わせた途端。

 ルイーゼの頭に過去の記憶が怒濤のように湧き上がった。


 両親と出かけたピクニック。誕生日に貰ったプレゼント。弟が生まれた日のこと。マルティンに初めて会った時のこと。マルティンと喧嘩して、また仲直りしたこと。ソフィアや友人たちと楽しくおしゃべりしたこと……。

 その全てが水盆へと吸い込まれていく。


「ハルツェン子爵令嬢。次はこちらの水盆へ」


 声を掛けられ、ルイーゼは我に返った。暫くぼうっとしていたらしい。


 真ん中の水盆へ向かい、先ほどと同じように祈りを捧げる。

 今まで捉われていた感情――家族や友人への親愛、そしてマルティンへの恋心。それらが全て吸い込まれていった。

 祈りが終わると、ひどくすっきりとした感じがある。だけど清々しいというわけではなく、胸にぽっかりと穴が空いたような――獏とした寂寥に満たされていた。


 ルイーゼは過去の思い出を辿ってみる。

 水盆に吸い込まれた記憶は消えていない。だが、そこに付随する感情が無くなっていた。嬉かったことも、悲しかったことも、ちゃんと覚えているのに。


 これが神に愛を捧げるということなのだ。



「それでは最後の水盆へ」

 

 ルイーゼは今さらだが少し怖いと思った。

 儀式を終えたら、自分が違う生き物になってしまいそうで。

 だけどここまで来て止めることなどできない。ルイーゼは足を踏み出し、最後の水盆へと向かった。




「ルイーゼ。済まないが、来週の約束はキャンセルさせてほしい」


 月に一度の約束をマルティンが破るのは、いつものことだ。背後には彼を待っているらしい女子生徒の姿が見える。以前とは違う令嬢のようだ。これも、いつものこと。


「ええ、構いません。ご友人と先約があるのでしょう?どうぞ、楽しんでいらして」

「えっ、いいのか?」

「はい」


 にこやかに快諾したルイーゼに、マルティンが面食らった顔をした。

 

 神へ愛を捧げてしまったルイーゼには、もうマルティンへの恋愛感情がない。

 だからちっとも気にならないのだ。約束を破られても。彼が他の女性と一緒にいようとも。

 マルティンが怪訝な顔で自分を見つめているが、そのことすらどうでもいい。こんな晴れやかな気分は久しぶりだ。


 しかしそれからというもの、何故かマルティンはちょくちょくルイーゼへ会いに来るようになった。


「新しい劇が上演されるらしい。一緒に行こう」

「以前カフェに連れてくって話しただろ?帰りに行かないか」


 ルイーゼはどの申し出も断った。今さらマルティンと出かけたって話すこともないのだ。仲良しの女性と一緒に行けばよろしいのではと答えるとマルティンはひどく驚き、傷ついたような顔をした。

 今までのルイーゼなら、彼を傷つけたと知ったら狼狽えて謝り倒しただろう。だけど今の彼女の心にはさざ波すら立たない。



「面を上げよ」


 儀式を終えてしばらく後、国王に謁見を許されたルイーゼと両親は王宮へと赴いた。


「国境警備兵より、結界が正しく作動しているとの報告があった。ルイーゼ・ハルツェン、まことに大儀であった」

「勿体ないお言葉でございます。私はただ、陛下の臣としてこの国のために尽くしただけです」

「殊勝な心がけである。褒美を取らせよう。そなたの望みを言うが良い」


 ここまでの会話はいわばお約束というものである。

 褒美を貰えるということは事前に知らされていたのだ。何を答えるかはもう決めてある。


「陛下。私の望みは――」


 

 ◇ ◇


 

 この婚約に何の不満もなかった。


 次男であるためマルティンは親の爵位を貰えない。将来は文官か騎士になるしかないと両親に言われていた自分が、男爵位と領地を貰えるのだ。

 何よりルイーゼのことをマルティンは気に入っていた。


「初めまして。ルイーゼ・ハルツェンです」


 恥ずかしそうに挨拶する蜂蜜色の髪にスミレ色の瞳を持つ少女。その様子が微笑ましくて愛らしくて、マルティンはすぐに彼女が好きになった。


 領地にいる間は頻繁に会いに行った。マルティンのとりとめのない話を聞くルイーゼは、いつだって嬉しそうに微笑んでくれる。彼女と過ごす時間は楽しかった。両親も気立ての良い彼女を気に入っているようだ。

 こんなに素敵な令嬢と結婚できるなんて自分は幸運だと思っていた。

 

 14才になったマルティンは、貴族学院へ入学するために王都へ出向いた。

 そこで彼は衝撃を受けたのだ。王都で暮らしている者たちは、服装も立ち居振る舞いも洗練されている。それに比べ、今まで自分が接してきた領地の人間のなんと野暮ったいことか。


 マルティンは急に自分の格好が恥ずかしくなった。一番良い服を着てきたと思ったのに、王都で流行っている服装に比べたら古臭い型だ。


「あいつ、誰だっけ」

「確かレドラー子爵家の令息だ」

「ああ。西の外れの領地の」


 同級生のそんな声を耳にした。彼らの目が、自分を田舎者と蔑んでいるように感じてしまう。

 

 それからは必死で周囲の令息たちを観察した。自分と同じように領地から出てきた生徒と、王都で生まれ育った生徒は明らかに違う。マルティンは後者から振る舞いを学び、小遣いの大半は服に費やした。

 その甲斐あって徐々に垢抜けた様相になるにつれ、マルティンは令嬢たちから熱い目線を受けるようになる。

 どうやら自分の容姿は他者に比べて恵まれているらしい。その事実がマルティンを酔わせた。田舎者と馬鹿にしてきた連中より、自分の方が女性に人気があるのだと内心で勝ち誇る。


 マルティンは令嬢たちと遊び歩くようになり、そのうちの一人と親しく付き合うようになった。

 遊び慣れている彼女は様々なことを教えてくれる。流行の服やダンス、観劇。彼は新しい驚きに夢中になった。

 そこに真面目で純朴だったマルティンはもういない。成績は下がる一方だ。

 

 届いた成績表を見た両親からは苦言を呈されたが、意に介さなかった。爵位を拝領すれば否が応でもキチンとしなければならないのだから。学生の間は少々羽目を外すくらい良いじゃないか。

 

 学院で下がった評価は成人してからも付いて回る。だから生徒たちは勤勉に、礼節を保って過ごしている。そんな当たり前のことすら、マルティンは気付いていなかった。


 そしてマルティンから二年遅れて、ルイーゼが入学してきたのだ。

 美しい令嬢へと成長してはいたものの、そこに溢れる田舎育ちらしい素朴さにマルティンはがっかりした。

 彼だって入学したばかりのときは野暮ったい令息だったのだが。自分のことは棚に上げて「以前は可愛らしいと思っていたけど……こんな田舎臭い女と一緒にいる所を同級生に見られたくない」と思ってしまった。


 学生のうちは共にいる必要もないだろう。どうせいずれは結婚するのだ。そうしたら彼女を大切に扱えばいい。


 マルティンは婚約者より、恋人たちを優先した。ルイーゼから誘われても「先約があるから」と断ってばかり。月に一度は会うという約束すら、守らなくなった。


「ごめんね、ルイーゼ。ハールトーの劇が今週末までだから、彼女がどうしても行きたいっていうんだ。この埋め合わせはまた後でするから」

「……分かりました」

 

 大人しいルイーゼは、マルティンの勝手な言葉に怒ったりはしない。だけどほんの少し曇る表情に、マルティンは優越感を感じた。

 

 婚約者の実家が王家の末裔であり、同じ子爵家とはいえ格上であること。そして自分は彼女を支えるために選ばれた婿に過ぎないこと。その事実は心の奥底に凝りとなって留まっている。だからルイーゼに嫉妬されているという事実は、彼に悦びを与えてくれた。

 多少冷たくしたって、彼女は俺から離れていかない。

 この婚約は王命なのだし、何より――ルイーゼは自分を愛しているのだから。



 彼女が護り手の巫女になるという話も、マルティンは詳しい説明を聞き流していた。婚約者が護り手になれば自分にも利があるだろう。そのくらいの浅い考えで賛同したのだ。注意深く聞いていれば、それがもたらす結果へ思い至ることが出来たかもしれないのに。


 

「ルイーゼ。済まないが、来週の約束はキャンセルさせてほしい」

「ええ、構いません。ご友人と先約があるのでしょう?どうぞ、楽しんでいらして」

 

 きっといつものように顔を曇らせて「分かりました」と答えるだろうと思っていた。だけど予想に反して、ルイーゼはとてもにこやかだ。本当に何も気にしていないかのように。


「えっ……いいのか?」

「はい。あっ、次の授業がありますのでもう行きますね。それではご機嫌よう、マルティン様」


 晴れやかな顔で去っていく彼女の姿に、胸がモヤモヤする。

 

 そういえばもうすぐマルティンの誕生日だ。

 彼女はいつも前もって「何か欲しいものはないか」とさりげなく聞いてくる。今年はいつまで経っても聞いてこない。


「次の休日は一緒に出掛けないか?こないだの埋め合わせをするよ」

「お気遣いなく。いつものように、ご友人を優先して頂いて構いませんわ」


 わざわざ家まで会いに行ったというのに、喜ぶどころか断られた。顔はにこやかだから怒っているというわけでは無さそうだ。だけど何かがおかしい。

 

 その違和感に、マルティンの心はざわついた。

 

 実のところ、マルティンは付き合った令嬢たちの誰一人愛していなかった。ただ慕ってくる彼女たちと恋愛ごっこに興じていただけだ。


 それは令嬢の側も同じだったろう。彼女たちにも婚約者はいるのだから。彼女たちとて、一時のときめきをマルティンに求めていただけだ。

 とはいえ貞淑な女性ならば、学生の間だけとはいえ婚約者以外の男性と親しくすることはないのだが。マルティンへ近づくのは彼と同じくらい浅はかな女性だけである。だがまともな生徒たちはマルティンを避けていたため、そのことを彼へ指摘してくれる者は誰もいなかった。


 マルティンはルイーゼが嫌になったわけではない。いずれ結婚したいという気持ちに変わりはなかった。

 付き合った女性たちは一緒にいて楽しいけれど、金遣いが荒いしこちらが気を使わなければすぐにむくれた顔をする。

 結婚するならば、ルイーゼのように大人しくて貞淑な女性がいいに決まっている。


 マルティンにとって、ルイーゼの愛は在って当たり前の物だった。その礎があるからこそ、浮気相手とひとときの戯れを楽しめたのだ。

 それがどれだけ勝手な事であるか。そしてどれだけルイーゼに我慢を強いていたか……。彼は全く気付いていなかった。


 

 ◇ ◇


 

「ルイーゼ!」


 廊下で呼び止められたルイーゼが振り向くと、そこにはひどく蒼褪めたマルティンがいた。


「婚約解消って聞いたけど……何かの間違いだろ?」

「いいえ、合っています。既に私たちの婚約は解消されておりますわ」

「そんなバカな!俺たちの婚約は王命だ。そんな簡単に解消できるはずが」


「護り手の仕事を成し遂げた褒美として、陛下は私たちの婚約の解消を聞き届けて下さいました」

「どうしてそんなことを。俺と結婚できなくていいのか?君は俺を慕ってくれていたのだろう」

「お話ししたでしょう?護り手となる者は、持てる愛の全てをソヴユ神へ捧げるのです。親愛も、恵愛も……恋愛も。今はもう、私の中に貴方を慕う気持ちが存在しないのです」

 

 マルティンは必死の形相でルイーゼに縋りついた。婚約が無ければ彼は卒業後に行く当てがないのだから、焦っているのだろう。

 だけど婚約を解消した今となっては、彼女には何の関係もないことだ。


「そんな……。今さら婚約が無くなったら、俺はどうすればいいんだ?君だって、今から結婚相手を探すのは難しいだろう。それに直轄領のことだって」

「直轄領のことは別の方を探すので心配しなくても良いと陛下は仰せでした。私は卒業後、修道女となり一生神へ仕えるつもりです」

「修道院なんてまともな貴族の行くところじゃない。令嬢として当たり前の幸せを手放すことになるんだぞ!」


 ルイーゼは不思議そうに首を傾げ、「私が護り手になることを、貴方も望まれていたんでしょう?」と答えた。

 

「こんな大事になると知っていたら賛同しなかった!ただ祈りを捧げればいいのかと」

「国ひとつを護るほどの結界(もの)ですよ。そんなに軽いわけがないでしょう」


 小国とはいえ、結界はこのロッズェ国全土に張り巡らされている。その原理は現在の魔法技術でも未だ解明できていない。ただ神のみぞ知る御業だ。

 その見返りに多量の命を捧げろと言われたっておかしくはない。一人の人生を犠牲にして済むのなら、むしろ安いものだろう。

 

「過去現在未来、全ての愛を私は失ったのです。例え誰かと結婚して子供が産まれたとしても、私はその子を愛せません。それは私にとっても、夫や子供にとっても不幸なことでしょう。だから、これでいいのです」


 過去の護り手には結婚した女性もいる。だが彼女たちが幸福だったとは、ルイーゼには思えなかった。

 

「……嫌だ!」

 

 目に涙をためてマルティンが叫んだ。


「嫌だ。ルイーゼがいなくなるなんて嫌だ!君が好きなんだ。愛が消えたというのなら、今から新たに愛を育もう。君が不快ならもう他の女の子と遊んだりしないから……。何だって君の言うとおりにする。だから俺の傍にいてくれ、ルイーゼ!」


 あれほど見栄にこだわっていた彼が。他の女性を優先にしルイーゼの言葉を聞こうともとしなかった彼が。

 プライドをかなぐり捨て、駄々っ子のように泣きながら自分へ懇願している。

 

 ルイーゼはその様子を感情の籠らない目で見つめた。


 陽だまりのようなその笑顔が好きだった。湯たんぽみたいに温かな手が好きだった。だけどその気持ちが、今は思い出せない。


「……マルティン様。失ってしまったものは戻りませんわ」




 その後ルイーゼは王家に縁のある修道院に入り、生涯をそこで過ごした。

 

 行く当てのなくなったマルティンは慌てて婿入り先を探したものの、受け入れてくれる令嬢はいなかった。彼の浮気癖は貴族たちへ知れ渡っていたのだ。マルティンは両親や兄に自業自得だと怒られ、卒業次第家から出て行くよう言い渡された。


 王宮の文官試験を受けたものの、今まで勉学に身を入れてこなかった彼が合格できるはずもない。何度も受験してようやく下級文官の職を得た。安い給料では妻を娶ることも出来ず、今も文官の宿舎で生活している。

 そして時折ため息を吐いては、ルイーゼの名を呟いているらしい。


 修道院へ訪れた友人からそれを伝え聞いたものの、ルイーゼには何の興味も湧かなかった。

 彼に対して思い出はあっても、想いはないのだから。


 長年修道女を勤め上げたルイーゼはその功績を認められ、修道院長となった。その後も貧しい者のための教育機関や医療施設など民のために尽力。貴族平民問わず優しく接する彼女は『慈悲深き護り手』と呼ばれ、尊敬を集めている。

 

 ある時、ルイーゼに憧れる若い修道女が彼女へ問い掛けた。


「ルイーゼ様。どうすれば貴方のように誰にでも等しく、慈悲深くなれるのでしょうか」

「そうねえ……誰も愛さないことかしら」

「えっ?」


 思いもよらない答えに固まってしまった相手へ、ルイーゼは穏やかに微笑みながら続ける。


「誰かを愛してしまったら、どうしてもその人を他者より優遇し、独占したくなるでしょう?私は誰も愛していないの。だから、全ての人へ平等に接することが出来るのよ」

 

 


 

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― 新着の感想 ―
こんにちは 愛は『愛しい』から来た言葉、相手を大切に思う気持ち 恋は『恋しい』から来た言葉、相手が欲しいと乞う気持ち 明治になり外国から沢山の言葉(概念)が来てあてはまる言葉を作った、だから日本人には…
2025/01/30 12:33 退会済み
管理
自己愛がないから我欲もそこから生まれる負の感情もない……もう植物や昆虫の方が感情的な気がします。人を通り越し生物の範疇を超えた彼女の精神はまさしく神の域ですね。 (邪)神が人と同一の精神構造していると…
これ一切の「愛」がない状態で「慈悲深い」と称されるほど「優しく」してるの怖いな 社会全体への奉仕を「作業」として蟻みたく遂行したって事じゃん
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