33 劇場
ギンカのオーディションがあったその日、21時を回ってもギンカは酒場に来なかった。ライはちらちらと入口に視線をやり続けていたが、とうとう閉店の時間になってもギンカは姿を見せなかった。
「あの子が気になるんだろ。掃除はいいから行けよ」
バイト仲間がモップをライの手から奪い取るようにして言った。
「ありがとう」
ライは制服を急いで脱ぎ、フードつきのパーカーをひっかけて、以前劇団員の一人に教えてもらった劇場の場所を探して夜道を歩いた。彼女をどうしても探さなくてはいけないような気がした。根拠はないが、このままもう会えなくなってしまうのではないかという不安が胸いっぱいを占めていた。今夜、一目会いたかった。
劇場はビルの地下にあった。ビルに明かりはなく、汚れで曇り、ところどころ割れている窓ガラスがある。正面の回転扉は動かなかったので裏に回ると、大きなドアがあった。演劇の大道具などを出し入れするための裏口なのだろう。そのドアは細く開いていて、日常的に誰かがそのドアを使って出入りしているという雰囲気が感じ取れた。中に入るとすぐに下に降りる階段がある。ライはそこを下りて行った。
美しい歌が聞こえる。胸が締め付けられるような、悲しいメロディー。泣き声が混じっているようにも聞こえた。古びた重いドアを押し開けると、円形の天井の高い劇場だった。埃の積もった大きなシャンデリアがあり、ステージと赤い幕。
スポットライトがステージの中央を照らしていた。少女が、――歌手が一人。
「ライ?」
ギンカは劇場に入ってきた人物を見とめるなり歌を止め、それからはっとしたように顔を覆ってしゃがみこんだ。
「どうしてここに?」
「邪魔するつもりはなかった。会いたかったんだ」
「ごめんなさい。でも、帰って。今日はあなたと会う気にはなれなかったの」
ライは扉を閉めて、ステージのほうへ進んだ。ギンカはスポットライトから逃げるようにステージの奥へと後ずさる。
「何かあったんだろ。僕に話してよ」
ライはステージに飛び乗り、スポットライトの中に足を踏み入れる。
「別にあなたには関係ないの」
「関係させて」
ライはギンカに手を伸ばす。
「君が好きだ」
長い沈黙の後でギンカは言った。
「……ごめんなさい。私はスポットライトを浴びるにふさわしくない。あなたの手は取れない。私はあなたが思っている以上に醜いの」
「顔なんか関係ないよ」
「いいえ。私には関係ある。あなたが気にしなくたって他人は気にしてる。この顔のせいで歌も歌えない!オーディションの審査員が言ったの。『顔さえなんとかなればなあ』他のヒトの顔を見ていると劣等感と嫉妬で狂いそうになる!」
「完璧なものばかりが美しいわけじゃない。君の美しいところはたくさんある。それが好きなんだ」
「あなたにはわからない。見ないふりをして、見ないふりをすれば大丈夫なんて思うのは優しさの押し付けだ。帰って。放っといてよ!」
ライはショックを受けたように顔をゆがめた。ライは黙ってステージを降りた。
劇場にはまたギンカが一人だけ残された。
いつだって私はどこか、私をけなしている。私は、私に近づくヒトの中で、私の核心に近づくほど、そのヒトを遠ざけようとしてきた。私の内面は、外面とそう変わらないから、どうか離れていてと、遠ざける。勝手に期待されて失望されるのを恐れている。これでよかったんだ。こんな私を好いてくれる彼の美しい心と、自分を蔑み、他人に嫉妬し、恨んでいる自分の心がどうして釣り合うだろうか。
「私も、好きだよ」
涙があふれだす。ギンカはステージの隅に置いてあったヴェールを拾い上げ、かぶると、その場で崩れ落ち、口を押えて嗚咽を漏らした。
ライが重い足取りでダイの家に戻り、ドアを開けようとすると、反対側からドアが開き、ライはドアノブをつかみ損ねて思わずよろめく。
内側から開けたのはダイだった。ブリーフケースを持っている。この夜中に出かけるのだろうか。
『ひどい顔だ』
ダイはライの顔を見て言った。
『僕は他人の気持ちがわからないし、僕のこともわかるように説明することができないんだ。それは全部僕が駄目なだけだ。それがとても悲しくて寂しい』
ダイはライをじっと見た。少し考えてから手話で言った。
『世界には、音楽というものがあるらしい。僕は聴いたことがないけれど、ある詩によると、その歌一つで心が通じることがあったみたいなんだ。前に言ったろ。語彙を尽くして美しいものを表現するようにと。言葉じゃどうしてもできないとき、その時がきっと、芸術の力を借りる時なんだ。芸術を使って表現してみなよ。君は僕が見込んだ、いい音楽家なんだから。諦めないで、できるまで表現し続けるんだ。君が選んだのは、そういう道さ』
がつんと頭を殴られたような気がした。ライは踵を返し、来た道を走り出した。ダイに言われて目が覚めた。諦めない。僕は表現者なのだから。
ギンカは劇場のステージ上でゆっくりと立ち上がった。ライが出て行ってからどれほど時間が経ったかはわからない。ずいぶん長いこと一人で泣いていたような気もするし、泣き始めてから落ち着くまでそこまで長い時間は要しなかったような気もした。
ひとしきり泣いてみれば、いくらか気持ちはすっきりとしていた。思えば、挫折くらい、なんだ。今までだって数々のオーディションに落ちてきたじゃないか。私を今までに落としてきた審査員が特別やさしかった、ただそれだけのことだ。きっと私が幼かったから、審査員が情けをかけて決定的な言及を避けてくれたというそれまでの話だ。
ギンカが属すことのできた唯一の劇団の団長は、ギンカの父親のようなヒトだった。ギンカは赤ん坊の時、地下の道端に捨てられていたらしい。それを拾ってここまで育ててくれたのが、劇団の団長だった。団長に恩返しをするためにも、私は誰よりも上手い歌姫になって、劇での収入を安定させてあげなければならなかった。しかし、そんなことはできなかった。きっと、私がこのヴェールを脱ぐことができないから、観客は私の表情を見て感情を推し量ることができず、劇への没入感が得られなかったんじゃないかと、とそんな風に思うようになった。
この劇団が解散になり、再結成の見込みがないのは、経営難であることもそうだが、本当の理由は、団長の自殺だった。罪の意識は、私にさらにこの顔を憎ませた。他人の顔を見るたびにうらやましさで狂いそうになる。いつも他人を恨んでいる。
ライにこの内面の醜さまで教えるわけにはいかない。私は今後、ずっとこの醜さと罪を背負っていかなくてはならないのだから、彼にとっての重荷になることは目に見えている。好きだからこそ、彼にそんなもの引きずっていてほしくないのだ。これでよかったのだ。私が幸せになっていいはずがない。私は周りのヒトの人生を腐らせる害悪な存在だから。
ステージを降りる。
その時だった。急に客席のドアが開いて、人影が走りこんできた。ライだ。
「こんな塀くらい、軽い恋の翼で飛び越えました。石垣などで、どうして恋を閉め出すことができましょう。夜の衣に隠れているからは、断じて奴等の眼につくはずはない。だが、もしも愛していただけないなら、いっそこのまま見つかりたい。あなたの愛もなくて、おめおめ生命だけ長らえるよりは、むしろ奴等の憎しみで、殺された方がよいのです」
ライは歌い出した。どこで覚えたのか、劇中のセリフをそのまま再現していた。
「ライ?どうして……」
ギンカはステージの脇の階段の中ほどで止まる。ライは歌いながらステージの方へやってくる。
「ジュリエット様、僕は宣言します、見渡すかぎり、樹々の梢を白金色に染めているあの美しい月の光にかけて」
ライが近づいてくるので、逃げるようにギンカはステージ上に戻る。ライは歌って、と言うようにギンカに手を差し伸べる。
「……ああ、いけませんわ。月にかけて誓ったりなんぞ。一月ごとに、円い形を変えてゆく、あの不誠実な月。あんな風に、あなたの愛まで変わっては大事だわ」
ギンカも歌い出す。
「誓言など一切なさらないで。でも、どうあってもと仰るのなら、ロミオ様ご自身にかけて、誓っていただきたいの。あなたこそは私の神様、あなたのお言葉なら信じるわ」
私にとって、この二人にとって最もかけはなれた恋物語。
「もしも僕の心のこの思いが――」
「ああ、やっぱりおよしになって。お顔をみたのは嬉しいが、今夜のこの誓約には、ちっとも心が弾みませんの。無鉄砲で、軽率で、あんまり突然すぎますわ。なにかまるで稲妻みたい、あっ、光ったというまもなく消えてしまう。さあ、お別れにしましょうよ。この恋の蕾、きっとこの次お目にかかれるその時には、夏の風に育まれて、美しい花を咲かせましょう」
「ああ、満たされない心のままで、あなたは別れようと仰るのですか?」
「だって、今夜どんな満足がえられると仰るの?」
ライは、決して技術的に上手い歌は歌わなかったが、服の上から心臓をかきむしるようにして、情熱的に歌う。
「あなたの愛の真実の誓いなんです、私の誓いと引きかえに」
「私の誓いは、言われない前に差し上げてしまったじゃありません?もっとも、出来ることなら、もう一度差し上げ直したいくらいなんですけれど」
本心だ。これは私の本心だった。二人はスポットライトの中に入り、歌いあう。
「じゃ、取り戻したいと仰るのですか?それはまた何のために?」
「ただ、もっともっと気前よく、もう一度差し上げてみたいためなの。でも、考えてみれば、それじゃ自分にあるものをまだ欲しがるようなものね。私、気前は大海に負けないほど限りないつもり、そして私の愛も大海とともに深いはず。だから、あなたに差し上げれば差し上げるほど、それだけ私の愛も増す道理だわ、だって、どちらも限りないんでしょう」
「おお、幸いの夜、恵みの夜!夜と知るだけに、まさかにみんな夢ではあるまいな。心もそぞろ、あまりにも幸福で、本当とは思えない」
「ロミオ様、一言だけ、そして今度こそは本当にさようなら!もしあなたの愛が真実の愛であり、そしてまこと結婚のおつもりなら、明日使いをやりますから、何時、どこでお式をなさるおつもりか、その者にお伝言下さらない。すれば、私は私のもの一切を、あなたの脚下に投げ出して、世界中どこへなりともお伴いたします、わ……」
ライはギンカを抱きしめた。ギンカもそれに応える。
そして、二人は体を離し、ギンカはゆっくりと首を振った。
「オペラ座の怪人」より。
オペラとミュージカルがごっちゃになっていますがお許しください。その形態の劇が千年残っていること自体奇跡みたいなものです。