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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第二章
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31 岩を絞る

静寂の中、ベッドから体を起こす。

目を開けてすぐに思った。

ああ昨夜、僕の感受性は、――死んだ。



ダイは生まれたときから()()だった。両親はダイに絵を教えてくれた。ダイは絵ばかり描いていた。

ダイが十歳になる頃、両親は死んだ。両親もエラーズで、生まれつきの内臓の欠陥などが原因だろうが、ある意味寿命だった。

『先に逝くよ。ごめんね』

両親はずっと謝っていた。

一人になってから生活するのにお金がいるので、描いた絵を売ったら、予想以上によく売れた。

「この絵は3万はする」「きっと有名になれる」「〇〇に匹敵するほど上手い」「今世紀最高の画家だ!」

声は聞こえないが、何を言っているかはわかった。

このヒトたちが見ているのは絵じゃない。どこか間違っている!お金を受け取りながら、内心そう叫び、自分の絵が他人から他人へ金を回しながら手渡されていくのに疑問を感じ、高い値をつけて絵を買っていく客をどこか軽蔑していさえした。しかし、そこで自分自身を見返してダイは絶望した。

両親がいた頃に自分が自分のために描いていた絵と、今の絵ははっきりと違う。

無意識のうちにどこか客に喜んでもらえそうな絵を選んで描いている。売る前提で描かれたそれは、長年描き続けた修練のおかげで技巧に富んでいるものの、どこか肝心なところにぽっかりと穴が空いているみたいだった。ただのお金になっていく。常識的に考えれば、多くの人に認められる絵が描けて、高値で絵が売れるのは画家としてこれ以上ない成功と言える。すばらしいものにはそれ相応の対価を支払う人々の行動も理解できる。しかし、それがダイには耐えられなかった。技巧だけがついて、自分の描きたいものを忘れていく。

あんたらのために創ってるんじゃないんだ!客に向かってそう叫びたかったが、自分自身の状況が邪魔をした。

生活のためのお金をくれる客にそんな暴言を吐くのは忘恩負義も甚だしく、客のために創ってこそ画家だというヒトがいるのもわかっていた。

ダイは自分の絵を売っていた店を畳んだ。芸術は評価されることが原動力であってはいけないんだ。創りたいが原動力であるはずだ。

収入源がなくなると、急になにもかも身軽になった気がした。ダイは手元に残ったお金を使って本を買った。絵を買った。地下の薄暗い通りにある小さな美術館を回った。金の限りを尽くして芸術に触れた。他人の芸術を金で買いまくった。僕は常に追い求めていなくてはならない。生き急ぐようにして、美しいものを知りたいという情動が僕を突き動かした。

お腹が空いても、本を読んで紛らわした。耳が聞こえないので雑音を気にせずにいつまでも読んでいられた。芸術が食べれたらいいのにと思った。


金がとうとう1ベイたりともなくなって、部屋の真ん中に大の字に寝転がった。

最近は、感受性の情味期限についてよく考える。美しいものを見たとき、僕は本当にその美しさをすべて感じることができているんだろうか?僕の絵を美しいと評するヒトたちの感性は信頼できるのだろうか。昔よりも、純粋に物事を見る力が失われてきている気がする。感受性という力はきっと、最初は全員がもって生まれてくるけど、いつか無くなるんだ。昨日その作品に出会っていれば感じることができたかもしれない感情が、日々死んでいる。

僕はあまりにたくさんの時間を無駄にしてきた。

さっきまで空腹で痛かった腹がもう痛くない。意識が薄れていく。『今世紀最高の画家』の死因はどうやら自分勝手な飢え死にのようだ。



目を覚ます。

どうやら僕は死んだようだ。感受性の寿命だったのだ。

しかし……。ダイは辺りを見回した。体は動く。自分の部屋ではないようだ。リノリウムの床に白い壁。ダイが横たわっていたベッドが部屋の中央にあり、ダイの腕からは点滴の管が伸びていた。今まで一度も足を踏み入れたことはなかったが、これが病院という場所なのかもしれない、とダイは思った。

それにしても、自宅で餓死しようとしていた汚い少年をいったいどこの誰が病院まで担ぎ込んで命を助けてくれようとしたのだろうか。ヒトの善良さを信じていないわけではなかったが、この世界の地下ではあまりこのようなことが起こりやすいとは言えない。もしも善意で助けてくれたのならそのヒトは聖人で間違いないが、孤児をさらってきてあれこれ利用しようというヒトがいてもおかしくない。

せっかく助けてもらってなんだが、ダイとしては昨夜死ぬ覚悟はあったし、実際、感受性のほうは死んだ。肉体を生かしてくれてありがたいという気持ちはあまり湧かなかった。

正面のドアが開いて、金髪で青い目をした女が入ってきた。歳は三十手前だろうか。スーツを着ていた。女は契約書のような紙をダイの目の前に突き出した。

『寿命売買契約書』とある。

「寿命を売らないか?」

女は言った。


『いいですよ』

ダイはすぐに返した。筆談によると、女はカトリーナといい、臓器の売人だった。字を書く手の甲に丸に斜線が一本入ったマークの刺青が見える。

『20年プランや10年プランもあるんだが……』

『いいえ、2年で十分です』

カトリーナは心配そうに何度も確認した。

『脅迫じゃないんだ。私は貧しいヒトから臓器を奪ってビジネスをしようということじゃない。貧しいヒトの生活と、体に欠損をもって生まれてきたエラーズを等価な取引によって助けたいんだ。何年にしても先払いされる額は変わらない。本当にいいのか?』

ダイは提供する体の部位の耳以外の選択肢すべてに丸をつけながら頷く。

丸を付け終わって契約書にサインをし、カトリーナに渡す。泣きそうな顔をしているのがわかった。薄暗い商売をしているが、このヒトはきっと本当はいいヒトなんだろう、とダイは思った。取引をする他のすべてのヒトたちに向けても同じように共感しているのだろうか。僕はラッキーだった。

『延長戦のチャンスをくれてありがとうございます。あなたが僕の死神でよかった』

金はその場で引き渡された。この取引は、何年後に体をすべて他のヒトに移植するために提供します、という約束の代わりに、余生を健康に生きるための金を受け取ることができるというものだ。鞄いっぱいに詰め込まれたこの小判が、僕の体すべての臓器の価値らしい。臓器ということは、受け取るヒトのこれからの人生の価値でもあり、僕の生きたかもしれない人生の価値でもある。この小判がその価値に対して重いのか軽いのかはよくわからなかった。

『また二年後に』

ダイの右手首には腕時計がつけられた。文字通り死んでも外れないような仕組みの金具がついていて、針は0時を過ぎたころを示していた。この時計の短針は一年に一周する。つまり、残りの寿命2年を24時間に例えているのだ。時間になるとアラームが鳴って、死神が現れるそうだ。

ダイは鞄を担いで自分の部屋に戻った。

作品を創るというのは、今までに打った点をつなぎ合わせるようなものだ。美しいものを一つ創るためには、それに類する美しいものをその何十倍も、何百倍も知らなくてはならない。なぜなら、ヒトの思考はすべて、経験と記憶でできているからだ。作品は僕の心だ。新たな創造は、新た、といえども記憶の組み合わせでしかない。頭の中を大きな一枚の紙とすると、感受性を使って美しいものに触れることは、その紙の上に点を一つ打つことに例えられるだろう。点を打っているときはその点が今後一体どんなふうに生かされるかはわからない。感受性はだんだん衰え、点を打つことができなくなったとき、初めて自分の中の紙を眺める。そして、楽園、特に地下にいるときに見ることはないだろうが、昔のエンシェがやっていたように夜空の星をつなげて星座を作るように、点をつなぐ。それが創作なのだ。たくさん打った点は役に立たない点のほうがきっと多いが、点がなくては始まらない。膨大な美しいものの中から、ひとつの組み合わせを模索する。それは、岩を絞って、一滴の水を集めるような作業だ。点の組み合わせが良かったなら、その一滴は必ず、言葉も息も忘れるほど美しいものになるだろう。脳みそを、感性を直接ぶん殴って、感動以外何も考えられなくさせてやる。

ダイはキャンバスの前に座る。感受性の死んだ今、インクの出なくなったペンを捨てて紙を眺めるのだ。僕のこれまでは、いったい僕にどんな可能性を与えてくれる?

あまり長くやってもしょうがない。終わりがあるほうが真剣になれる気がした。これから僕が生み出すすべても、いつか誰かの養分になる。


一年が経った。時計の針はまた12時を指す。午後になる。

部屋の前にギターを背負った少年がいる。少年はダイの絵をきれいな眼で眺めていた。同い年か、一つ上くらいに思えたが、このヒトの感受性はまだ死んでない。

『その絵が気に入ったので、売ってくれませんか』

彼はダイにそう訴えた。あんまりきれいな眼だったから、危うく承諾してしまうところだった。生まれて初めて心を売りたいと思った。このヒトに心を買ってもらいたかった。ダイはやっとの思いで言葉を綴り出す。

『僕と住んでくれないか』

あと、一年だけれど。

これを公開するのは皮肉な話だが、平日の昼間に投稿するから許してほしい。

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