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ケラサスの使者  作者: 岡倉桜紅
第二章
83/172

30 酒場

ライは小さな酒場でバイトを始めた。ギターを路上で鳴らしているだけでは生活できなかった。

一方、ダイは一日中絵ばかり描いているが、一枚もその絵を売らなかった。しかし、彼はいつもどこからかお金を調達し、その大半を絵具と紙、残りを食費に充てていた。

『ダイはどこで生活費を稼いでいるの?いや、お金のことで疑っているわけじゃないんだけど、一応』

酒場のバイトがない日だったので、ダイは絵を描き、ライは机の上に座ってギターをつま弾いていた。

『絵以外でも僕に価値のある部分はあるんだよ』

『どういうこと?』

ダイは会話を切り上げてまたキャンバスのほうに向きなおってしまった。ライがダイの背中を見つめたままでいると、ダイがライのほうを振り返った。

『そういえば、君の演奏法はずいぶん変わったね』

『そうかな』

『とてもよくなった』

『ありがとう』

ダイはまたキャンバスのほうに向きなおった。部屋の中にはギターの音と、筆の音以外しなかった。


「三番テーブル、ビール一丁!」「いらっしゃいませ!」「生入りまーす!」

夜の酒場はにぎわっていた。注文がひっきりなしに入り、息つく暇もなく、ライはくるくると働いた。

「お待たせしました!ご注文は?」

団体が店に入ってきたのでライは大きなテーブルに案内する。

「ええと、とりあえず、一番安い酒を23人分頼む」

「かしこまりました」

初めて聞く注文方法だったので、ライはその団体を少し観察した。全員きらびやかな服を着ているのに安酒を頼むなんて、と違和感を感じたが、彼らの服装をよく見るとそれは舞台の衣装のようだった。遠くから見えづらい場所の作りが甘くなっていて、色が普段着にしては少し派手だ。劇団か。

酒を運んだ時にライは団体の一人に聞いてみた。

「なにか劇をやるんですか?」

頭からほんのり紫色のヴェールを被った女の子がライのほうを向く。ライと同じくらいの年齢のようだった。顔はヴェールに隠れて全くと言っていいほどわからなかった。

「ミュージカルをやってたんです。今日で最後の公演を終えて解散ですけど」

「そうなんですか。じゃあ、歌を歌うんですか」

ライはミュージカルというものを見たことがなかったが、歌に乗せてセリフを言う演劇であることは理解していた。

「そうだ。歌を歌いながらステージで演じるのさ。こいつはこの劇団一に歌のうまい歌姫なんだ」

ヴェールの女の子の隣に座る、赤と白の衣装を着た男が女の子の肩をつかみながら言った。女の子は照れたようにうつむく。

「最後にひとつ、演技をやってみせてやれよ。おーい!」

男が少し離れたところに座っておしぼりで手をふいている役者の青年に声をかけた。青と金のきらびやかな衣装を着ている。

「ええ、ここで?」

青年は少し渋ったが、周りの雰囲気に押され、立ち上がった。そして、女の子の方を向くと、よく通る声で浪々とセリフを歌い出した。

「なんだろう、あの向うの窓から射して来る光は?あれは東、すればさしずめジュリエット姫は太陽だ。美しい太陽、さあ昇れ、そして嫉妬深い月を殺してくれ。月に仕える処女(おとめ)のあなたが、主人よりもはるかに美しいそのために、あの月はもう悲しみに病み、色蒼ざめているのです」

青年は滑らかに歌い、セリフが頭にそのまま入ってくるような感覚になる。女の子は青年が歌い始めてからも少し恥ずかしがって拒否するような様子を見せたが、青年が歌をやめないと見ると、急に真剣な顔つきに切り替わって立ち上がった。

「ちょうど日の光の前のランプのように、あの姫の頬の美しさは、それらの星どもをさえ恥じ入らせるに相違ない。天に挙げられたあの瞳は、大空一杯に光をみなぎらせ、ために小鳥たちも歌声をあげ、夜を昼と見紛うかもしれぬ。おお、あの片手に頬を倚せかけた姿!かなう願いなら、いっそあの手を包む手袋になってみたい、そしてあの頬に触れていたいのだ!」

「あああ!」

女の子は歌い出した。

「ああ、ロミオ様、ロミオ様!なぜロミオ様でいらっしゃいますの、あなたは?あなたのお父様をお父様でないといい、あなたの家名をお捨てになって!それとも、それがおいやなら、せめて私は愛すると、宣言していただきたいの。さすれば、私も今を限りキャピュレットの名を捨ててみせますわ」

酒場にいるヒトは一人残らず二人に注目していた。酒場の真ん中で突如始まったミュージカルに困惑しつつも、心を奪われているようだった。

仇敵(かたき)はあなたのそのお名前だけ。たとえ、モンタギュー家の人でいらっしゃらなくとも、あなたにはお変わりないはずだわ。名前が一体なんだろう?私たちがバラと呼んでいるあの花の、名前がなんと変ろうとも、薫りに違いはないはずよ。ロミオ様だって同じこと、名前はロミオ様でなくなっても、あの恋しいお姿は、名前とは別に、ちゃんと残るに決まっているのですもの。ロミオ様、そのお名前をお捨てになって、そして、あなたの血肉でもなんでもない、そのお名前の代りに、この私のすべてをお取りになっていただきたいの」

「お言葉通り頂戴しましょう。ただ一言、僕を恋人と呼んで下さい。すれば新しく洗礼を受けたも同様、今日からはもう、たえてロミオではなくなります」

「まあ、だれ、あなたは?そんな夜の闇に隠れて、人の秘密を立ち聞くなんて?」

「なんと名乗っていいものか、困るのですが、それというのが、あなたに仇敵の名前だからです」

「そのお言葉のひびき、声にはっきり聞き覚えがある。ロミオ様、あのモンタギュー家の、じゃございません?」

「いいえ、あなたがお嫌いならそのどちらでもありません」

二人はテンポよくセリフを掛け合う。

「それにしても、どうしてここへ、そして何のためにいらしたの?塀は高くて、登るのは大変だし、それにあなたの身分柄を考えれば、もし家の者にでも見つかれば、死も同然のこの場所へ」

「こんな塀くらい、軽い恋の翼で飛び越えました。石垣などで、どうして恋を閉め出すことができましょう。夜の衣に隠れているからは、断じて奴等の眼につくはずはない。だが、もしも愛していただけないなら、いっそこのまま見つかりたい。あなたの愛もなくて、おめおめ生命だけ長らえるよりは、むしろ奴等の憎しみで、殺された方がよいのです」

「この通り、私の顔は夜という仮面が隠してくれている、でもなければ、私の頬は娘心の恥かしさに真赤に染まっているはずですわ。さっきの言葉はみんな嘘だって、言いたい心は山々ですのよ。だけど、体裁なんて私もいや!愛してくださる、本当に?」

「ジュリエット様、僕は宣言します、見渡すかぎり、樹々の(こずえ)白金色(しろがねいろ)に染めているあの美しい月の光にかけて」

青年は片膝をついた。赤と白の服を着た男がそこでヒュウと口笛を吹いた。二人を見ていた客や店員はみな拍手をした。女の子の、演じていた時の真剣な張り詰めるような雰囲気が嘘のように、恥ずかしそうに照れて席に座りなおしたところでやっとライも拍手した。


劇団の人々は酒を飲み、料理を食べ、ひとしきりおしゃべりした後、ぞろぞろと店を出ていった。見送りながら、ライはまだ目の前で突如見せられた演劇の余韻に浸っていた。

いつかこのヒトたちのやる劇を見に行きたいなと思ったが、そこで、この劇団が今日で解散するという旨を話していたことを思い出す。演劇を見るヒトが少ないために経済的に続行が難しくなったのか、それとも、演劇という文化が楽園に必要のないものだからという理由で地上から疎まれ、続行が難しくなったのかもしれない。地下のヒトは基本的にあまり裕福ではないので、芸術に割けるお金はあまり持っていそうにない。しかし、地上は「勉強」の保存都市なので、「芸術」というものはあまり認められていないのだ。

ヴェールの女の子が団体の列の最後について、会計をしたライに会釈をして出ていく。

「演劇は、続けるんですよね?」

思わず店の外に出てライは声をかけていた。女の子が足を止める。

「えっと……」

「あなたの歌に感動したんです。劇団は解散かもしれないけど、演劇は続けてくれますよね」


女の子はギンカと名乗った。二人は路地の適当な壁に寄りかかるようにして立ち話をしていた。

劇団が解散したのは、地上からの理解がないこと、客が少なく、経営難であることだとギンカは語り、おおむねライの予想通りだった。再結成の見込みは無く、劇団員はそれぞれの道へ進むらしい。

「歌を褒めてくれてありがとうございます。私も、演劇が続けられたらうれしいんですけど……。まあ、しょうがないです」

「やっぱり、辞めてしまうんですか」

「職業にならなくたって、歌を歌うことは続けられますし」

「まあ、それは、確かに」

ライは自分の状況を顧みて言った。自分は音楽がしたいが、それで飯を食っていきたいということはあまり考えていなかったし、現実的ではなかった。だからこうして酒場のバイトをしているわけだ。

「よかったらまた、あの店でご飯を食べに来てくれませんか?」

ライは言った。ギンカは少しまごついたが、やがて頷いた。


ギンカはそれからというもの、毎日21時になると店に現れるようになった。ライとギンカは言葉を交わし、しだいに仲良くなっていった。二人の波長や考え方はどうも相性がいいらしく、会話も弾む。

「そのヴェールはいつもかぶっているけれど、どうしてなのか聞いてもいい?」

ある日会話の流れでライがギンカに聞くと、ギンカはうつむいた。

「これは……、私の醜い顔を隠すためのもの。私はエラーズだから生まれた時から顔の皮が無いの」

「そっか。気にしていたらごめん」

「いいの、大丈夫。顔が醜かろうと醜くなかろうと、私に興味を持つようなヒトはあんまりいないから」

「僕は興味あるよ」


ギンカは決まって一番端のカウンター席に座り、鍋焼きうどんを注文した。ヴェールの中に皿を隠すようにして食べる。

「今日は、鍋焼きうどんだけじゃなくて、なにかおいしい飲み物もおねがい」

その日、ギンカはそう注文した。

「今日はどうしたの?いいことでもあった?」

「実は、とてもいい歌の練習場所を見つけたの。まあまあ広くて、おまけにほぼ貸し切り。これで思いっきり歌の練習ができる!」

「よかったね」

ギンカはいつになく熱く語った。うれしそうな様子にライも明るい気分になる。

「とてもうれしい!次のオーディションにはきっとよくなる」

「オーディション?」

ライが聞くと、ギンカははっと口を押えた。

「……実は、劇団のオーディションに出てみようと思っていたの。前までいた劇団に解散の噂が立ってからというもの、何度もいろんなオーディションに挑戦した。何度も落ちちゃったから恥ずかしくて受かるまでは言わないでおこうと思っていたのに、言っちゃった」

「応援するよ」

前向きに挑戦を続けるギンカの姿にライは自分の頑張らないとな、と思う。最近はバイトがたくさん入っていて、あまりギターの技術向上の努力が十分とは言えなかった。

ギンカはオーディションの具体的な日付や場所、新しく見つけた練習場所についても詳しく言おうとしなかった。しかし、店にはときどき以前のギンカの属していた劇団の団員が足を運ぶこともあり、その筋に詳しいヒトに聞けば知ることはできたので、ライはギンカにあまり深く尋ねることはしなかった。彼女の歌うところを見たいのは本心だったが、オーディションや練習場所に行くことは彼女の邪魔にしかならず、迷惑であることは心得ている。

「ロミオとジュリエット」より。

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